第一章



 秋夕映の路地を部活帰りらしい少年の自転車が大きく弧を描いて曲がっていく。界隈ではこの曲がり角の先にだけ、海が見える。
 少年はほとんどスピードもゆるめずに、その前輪タイヤを床屋の三色ポールと壁の間に突っ込むと、衝突したふりをして転げ降り、そのままカランと鈴を鳴らしてバーバー安田のドアを開けた。
 鏡のなか、シャボンの泡を立てている和歌子が顔をあげ、
「おかえり」
 と、迎えたときには、靴どころか靴下まで脱ぎながら、「ただいま」と奥の居間に向かいつつ、蒸しタオルを顔にかけられている客に向かって、
「いらっしゃいませ」
 と、おざなりながら挨拶も忘れない。
 その背中を見送った和歌子は、手元ではシャボンを立てながら、たった今、四男の弥勒が右左に脱ぎ飛ばしたスニーカーを足先で寄せる。
 しばらくすると、その和歌子が隠しておいた紀ノ国屋のクリームパンを、よほど鼻が利くのか、この短時間で見つけた弥勒が咥えて出てくる。
「お母さん、夜ちょっと話あるからね」
 いつもの癖で硬くなるほど小さく丸めた靴下を洗濯カゴに投げ入れようとしてすぐに和歌子の視線に気づき、慌てて引き伸ばす。
「……ターキーたちと公園行ってくる」
 そう言ったときにはすでにドアの鈴がカランである。
「おいおい」
 蒸しタオルの下から男の声がしたのはそのときで、
「ああ、宝兄ちゃんか。どこのおっさんかと思った」
 と、弥勒も声は返すが、すでにその体は外へ出ようとしている。
「なんだよ、ちょっと話あるって」
「別に。……いってきまーす」
 次男の宝が体を起こしたときには、すでに弥勒の自転車がチャリンである。
 仕方なく宝は背中を戻した。すぐに和歌子が顔の上でズレている蒸しタオルを直す。
 いい季節で、風に海のにおいがする。サラサラと鳴る竹の葉音は、裏の広済寺の竹林である。
「和歌さん、もうちょっと店休んでればよかったのに」
 鏡のなか、一枚刃のカミソリを革砥に当てる和歌子を見ると、宝は蒸しタオルごと鼻の下を搔いた。
「休んでたって、やることないもん」
 なるほど、壁かけカレンダーには「がんセンター」「ダンス教室」「タツオ命日」のほか、ゴミ出しの日が記されているだけである。先月、和歌子は子宮頸がんの手術をした。ダンス教室の仲間たちと年一で受けている人間ドックで発覚したのだが、幸い早期でリンパ節への転移もなく、術後の経過も順調である。とはいえ、和歌子から「がんなのよ」というLINEを受け取ったとき、宝たち四兄弟はすっとんできた。集まった宝たちに「Uberより早い」と和歌子は驚いていたが、まあ今日明日どうという危急の話でもなく、ならばせっかく集まったのだからと、その晩は久しぶりに五人で焼肉東大門へ行った。
 和歌子は宝の顔にシャボンを塗ると、カミソリを当てた。最近ではほとんど安全カミソリだが、「床屋に来た気がしない」という馴染み客も多く、パーカー製の愛用カミソリの手入れは怠っていない。
 あらかた宝の顔を剃り終わると、
「そういえば、アンタ聞いた? 不動から」
 と、和歌子がカミソリの泡を拭く。
「何?」
「アンタたちの家の土地の値段」
「ああ。いくらだって?」
「三千万でも買い手がつくかどうかだって」
「えーそんなもん? あんな広いのに」
「だってレッドだもん。事務所が建ってるとこはイエローらしいけど」
「まあ実際、崖だからね。俺たちだってガキのころから『裏の崖』って言ってたし。俺だってあんな土地いらないもん」
 まだ鼻の下が痒いらしく、宝がしきりに口を動かしている。
「鎌倉なんて、どこも土砂か津波のどっちかにはかかってんだけどね」
 言いながら、和歌子がタオルでその鼻の下を乱暴に搔いてやる。
「……っていうか、なんで不動、急に土地の値段なんか調べたの? まさか売るつもりもないんだろうし」
 宝は少し体を起こした。まだよ、とばかりに、その肩を和歌子が押し戻す。
「幸子先生から頼まれたんだって」
「なんで?」
「幸子先生、あそこ引き払って横浜の駅近タワマンに引っ越したいんだって。顔剃りにくるたんびに言ってるもん。まあタワマンは冗談みたいだけど」
 和歌子は手際よく顔剃り道具を片付ける。
「横浜のタワマンねえ」
「あんな不便なとこだもん。歩いてけるコンビニもないんだから。先生まだ足腰元気だからいいけど、ああ見えて、もう七十三だからね。この先、大変だよ、女の一人暮らし。先のこと考えたんでしょ」
「で、あの家、売るって?」
「いや、まずいくらか知りたいって。で、ついでに不動がうちの値段も」
「幸子先生んとこも、安いの?」
「でしょ。でもほら、幸子先生んとこは狭いけどイエローだから」
 三方を山で囲まれた鎌倉では、山に幾筋も切り込んだような谷が多い。谷戸と呼ばれ、砂山を握ると残る指のあとのような地形である。
 その一つ、二階堂エリアにある谷戸のどんつきに、今、話に上がっている土地がある。さっきから名前の出ている不動というのがこの四兄弟の長男で、彼が父のタツオから継いだ家業「一ノ瀬造園」兼自宅である。幸い車も入っていけるのだが、最後の最後に極端に狭いカーブがあって、ちょっとした運転テクニックが必要となる。ちなみにカーブまでが公道で、その先から二十メートルほどが私道になり、この私道を一ノ瀬家と小説家の國井幸子が共同所有している。手前百坪ほどの土地に國井の家がゆったりと建ち、その先に一ノ瀬造園の事務所、その二階が自宅、さらにその先が駐車場と資材や植木置き場となり、さらにその奥が件の「裏の崖」となる。奥まった場所ではあるが、南向き傾斜のため、日当たりはすこぶる良い。
 さて、このときまで正確には誰も知らなかったのであるが、一ノ瀬造園の敷地はゆうに三百坪を超えていた。ただこの半分以上が崖となる。市政から土砂災害特別警戒区域(レッドゾーン)に指定された土地なのである。

 アフターシェーブローションの強いミントの香りが立つ。和歌子はその手のひらで、宝の頰や顎をやさしく叩いた。
「この辺は土地の値段かなり上がったんでしょ?」
 叩かれながらの宝である。
「みたいね。ちょっとした土地だと、軽く億超えるって言ってるもんね」
「へえ。すごいね」
「すごくたって、うちは借家だから関係ないもん」
「まあ、そうだけどさ。……あ、そういえば、こないだ蓮に言われたんだけど、うちってヤンキー一家ぽい?」
「なんでよ? アンタの彼女も失礼ねえ」
「だって蓮がそう言うから」
「そんなことないでしょ。まあ、お上品な一家じゃないだろうけど」
「でも、和歌さんって若いころヤンキーだったんでしょ。その名が横浜本牧まで知れ渡ってたって聞いたことあるけど」
「アタシがヤンキーだったんじゃなくて、時代がヤンキーだったのよ」
 言いながら、和歌子は椅子を起こしてやった。
 鏡のなか、さっぱりとした宝が満足げに髪や顔を確認する。
「ねえ、それより、そのアンタの靴下のことは蓮ちゃん何も言わないの?」
「靴下?」
 言いながら、宝がサンダルの上に置いていた両足をピンと伸ばす。白いソックスを足の半分までしか履いていない。
「履くなら履く、脱ぐなら脱げ、って蓮ちゃん言わない?」
「言わない言わない。だって最近、蓮も家んなかでこれやってるもん。一回やると癖になるんだろうね、気持ちよくて」
「やだ気持ち悪い。先っぽは、だらーんとして、踵は丸出しで」
 この四兄弟には靴下に関しての奇癖がある。次男の宝は、このように靴下を途中まで履いて過ごしたがる。さっき出て行った四男の弥勒は、脱いだ靴下を石のように硬くなるまでクルクルと巻くという意味のない癖があり、さらに長男の不動にいたっては、爪の切り方が悪いのか、いつも親指のところが破れており、誰かが注意するまで、その靴下を好んで履き続ける。
 唯一、三男の観音だけには目立った奇癖や奇趣はないものの、洗濯をすると、なぜか必ず片方がないペアが出てくる。他の三人のは、すべて揃うのに観音のだけが毎回のように揃わないのである。これは和歌子が洗濯しても、本人たちが洗濯しても同様である。もちろん観音自身もどの時点で無くしたのかは定かではなく、
「洗濯機に片方だけ入れるはずないし。洗濯機の中で無くなってる?」
 などととぼけたことを言う。
 そして驚くことにこの四つの奇癖をすべて持っていたのが、今年七回忌を迎える彼ら四兄弟の父、一ノ瀬タツオなのである。

(続きは本誌でお楽しみください。)