序章 ならのみかど



 お待ちかねでございます、と導かれて常の御座所に至ると、肝心の兄上皇の姿はなく、茵は空っぽであった。伊都内親王はあら、と、つぶやいて首をかしげた。
 侍女が二人、あわてて帳台、屛風の裏、塗籠と調べてまわり、のち、申し訳ございませぬ、ひめみこ様、しばしお待ちくださりませ、と、青い顔して回廊の奥へ消えていった。
 もとより蒲柳の質で、季節が変わるごとに床に臥す人である。そのたびに思わせぶりな消息をよこすのだが、よわいもはや五十路であるし、このたびの手蹟にはいつにも増して心細げなものを感じたから、よもやと胸騒ぎして駆けつけた。けれども、こうして出歩くくらいなら、さしたる障りでもなかったのかもしれぬ。
 伊都は気抜けと安堵の半々のような心地で、火桶のかたわらに腰を下ろした。
 弘仁十四年(八二三)二月。
 ここは大和の国奈良の平城宮である。
 とうに捨てられたこの都に暮らしているのは、長兄で先代の帝の安殿である。一方、いまの天子で平安京の玉座にあるのは五番目の兄の神野だ。いずれも伊都とは母の違う、異腹の兄たちである。
 長兄安殿は十三年前に弟の神野と深刻な仲たがいをし、手痛い敗北を喫した。以来、たれにも顧みられることなく、このわび住まいに隠棲している。世の人からひそかにつけられたあだ名は、ならのみかどという。なかば皮肉である。
 すでに春立てりといえども、まだまだ寒の戻りがある。今日も空は清明だけれど、日陰は冷えびえとして、御簾の向こうに透き見える庭の玉砂利も、いかにも乾いた色をしている。
 膝もとに接している埋火の温みが心地よい。兄上皇も先ほどまでここで暖をとっていたはずなのに、どこへ行ったのだろう。
 かたわらを見やると、螺鈿紫檀の美しい琵琶が投げ出されていた。兄が弾いていたのかもしれぬ。たわむれに絃の一本に触れたら、びん、と思いのほかに大きな音が出た。伊都はびくり、と首をすくめた。
 そもそも人気の少ない宮であるが、あるじが不在になるとさらにがらんとして、本尊を失った廃寺に迷い込んだような気分になる。
 所在のなさに思わずため息を漏らしたとき、彼方のほうでかすかな人声と足音がして、目指す人が現れた。
「伊都よ」
 寒さよけであろう、ぐるぐると襟元に巻いた練絹の上で、色白の細面がくしゃりと皺になった。
「待たせたか」 
 笑うと頰に赤みがさし、気難しい風貌が急に柔らかになる。
「太上天皇」
 伊都もほほ笑み返す。
「いま参じたばかりです。お臥せりかと案じておりましたけど、お徒をなさるくらいなら安心でございますね」
 ふっ、と、さわやかな香りが鼻をついた。
 兄上皇が背後の側近のほうへ身をよじったのと、伊都がおのずからそちらへ目を向けたのが同じだった。
 三尺ほどもあろうみごとな白梅と紅梅が、一枝ずつ、その手のうちに抱えられていた。臣は二十年も兄に添うている藤原真夏である。
「よいにおいですこと」
 兄のまなこが満悦の色に染まった。
「であろう。そなたが来ると聞いて、いま手折ってきたのだ」
「わたくしのために? 兄様がわざわざ?」
 驚いて、つい幼時の呼び方をしてしまった。
 この御所の南庭に梅の木はない。してみると、ずっと裏手の池の端か、どこぞの宮の跡か官司の跡かをめぐってきたのだろう。
 伊都は御簾の陰に戻ってきた小女に合図して、身のかたわらに花を生けさせた。せっかくの兄の心づくしだ。せいぜい愛でてやりたい。
 馥郁と香る大甕が敷物の上に据えられたら、とりとめのなかった御座所が急にきりりとした。伊都は胸元に手を当て、あたりに立ち込めた香気をいっぱいに吸い込んだ。
 この兄安殿と伊都は、ともに大帝として世にとどろいた先々代、桓武天皇の子である。とはいえ、兄は皇后乙牟漏が生んだ長子、伊都は父の最晩年に後宮づとめをした藤原平子所生の末子だから、年は二十七も離れている。
 兄妹というより親子と言ったほうがふさわしい。けれども、伊都はそこまでの隔たりは感じない。それは、この兄の中にいくつ年を重ねても変わらぬ無垢な青さがあるからだと思っている。伊都は兄のこの独特の気味が好きである。
 子福者の父帝は三十人以上もの皇子皇女に恵まれたが、兄安殿はわけても正嫡であるので、幼い時より蝶よ花よとかしずかれて育った。とりわけ母后から溺愛された。聡明だったことに加えて、病弱であったことが贔屓に輪をかけたらしい。
 聞いたところによると、この奈良が都であった百年前、すめろぎの道は切実な男子不足に悩まされ、女帝が立たざるを得ぬことが多かったそうだ。女帝が立てばなおさら皇子の誕生は望めぬから、皇統は細りに細り、その果てに、長らく傍系に沈んでいたわが祖父白壁に玉座がめぐってきた。光仁天皇である。
 それだけに、祖父と父はようやく手にした血脈を意地でもつなぐべしと、猛烈に奮起した。父帝桓武が稀にみるほど後宮を賑わせたのは、前系と同じ轍を踏むまいとして、すさまじい執念を燃やしたからである。
 おのずから、長子であり皇后所生でもあるわが兄安殿も、同じ責を求められた。加冠するや次々におきさきをあてがわれ、世継ぎの誕生をせかされた。父帝と違って繊細な兄には、かなりの苦痛であったらしい。それでも、阿保と高岳という二人の皇子をもうけ、なんとかつとめは果たした。
 数ばかり多かったその妻たちも、いまは一人もいない。死別もあるが、残った者たちも十三年前の変事ののち、揃って后妃の座を辞したのだ。妻に仕えていた女官たちも姿を消し、後宮は一挙に火が消えたようになった。
 もっとも、兄が真に愛したのはそのうちのいずれでもなく、妻の一人の母である藤原薬子という女人であった。だが、その唯一の恋人も乱の敗北とともに世を去った。
 兄はさぞ寂しかろう。たれもがかかわりあいになることを恐れて近寄らぬ。訪ねる者がないから、なおさら忘れられていく。
 けれども、おのれとのあいだにだけは、ささやかなえにしが生きている。いまこうして互いを結んでいる初春の花のにおいのように。
 その見えない糸をたぐって、伊都は兄の座姿をうかがった。
 もともと痩せじしで首が長く、華奢な水鳥のような人である。けれどもいま久しぶりに眺めれば、さらに一まわり痩せて枯淡な風が増している。出家の身だからつむりは丸めているけれど、あごひげは積もったばかりの銀雪にも似てふさふさと、瞳は薄膜を張ったようにけむっている。深山の仙人めいている。
「なんだか神様のようですわ、太上天皇。ますます尊くおなりあそばして。いえ、ご法体ですから仏様でしょうか」
 口に出したら、おかしさが込みあげた。
 兄にも笑みが伝わったらしく、ひげの中から澄んだ声が立った。
「そうさな。さいきんとみに俗世になんの欲も感じぬようになった」
 昨年、この兄は東大寺で空海を導師として灌頂も受けた。
「この宮も無駄ばかり気になる。恐いものよけとして門に衛士くらいはおってよいが、近衛もいらぬ、護衛も供も半分でよい。ましてやまつりごとなどは微塵もせぬのだから、参議も弁官も平安京へ戻ってしまえ。頼みたいのは膳と酒と衣の仕度くらいだ。のう、真夏」
 背後の臣にちらりと、合図した。
 真夏はあるじと伊都を順々に見分け、こくりと深く肯った。
 隠居の邸とはいえ上皇の御所であるから、そこそこの数の官吏が型通りに詰めている。だが、仕事はほとんどないのだ。
 兄はもっと言う。
「なんなら太上天皇号もいらぬ。神野にもそのように申し入れをしておるのだが、どうも取りあってもらえぬ」
「まあ……、兄様」
 驚きすぎて、伊都はふたたびかく呼んだ。
 とたん、
「そう、それがよい。ただの兄だ。兄と呼べ」
 仙人めいた風姿の中に、有無を言わせぬ鋼のようなものが一本通った。この趣になると兄は譲らないことを、伊都はよく知っている。
「太上天皇としての朕の役目は、とうに終わっておる」
 灰色にくすんだまなこが、曇天の海のように不穏にさざめいた。
 なにか言いたげな、と伊都は察した。挫折と屈託の人生を送ってきた人である。
 そっと居ずまいを正し、その心を受け止める用意をした。

(続きは本誌でお楽しみください。)