二〇〇〇年五月、花の世界は終わりを迎えた。
 恐怖の大王なる人がやってきて世界を終わらせたわけではない。終わらせたのは花の母親、聡子だった。
 どうしても住みたい家があってさ、そこに空きが出たから引っ越そうと思うんだ。花ちゃん、ついてきてよ。
 聡子にそう言われたのが四月。
 うなずいた覚えはないのに、気づけば転校することになっていて、気づけば荷づくりが始まり、気づけば引っ越し当日を迎えてしまった。めんどくさがりの聡子にしては異例のスピードだった。
 これは世界の終わりにヒッテキする、と花は思う。
 四年生になって、新しいクラスが始まったばかりだった。
 仲良しのまゆちゃんや、ちょっと気になっていた関本くんとも同じクラスになれたのに、一ヶ月そこらでお別れになるなんて。
 もらった寄せ書きには、転校を残念がる言葉がたくさん書かれていたけれど、どうせ数日も経てば花のことなんか忘れる。みんなの世界は終わっていないから。
 花たちの新しい家は、川沿いに建っているらしい。
 川だよ、川。
 新しい家に向かいながら、聡子ははしゃいで言った。土手側を歩いて、花に川を見せようとしてくれたけれど、(川だなあ)以外に思うことはない。
 花たちが歩く赤茶色の歩道の一段下には砂利道があって、砂利道と川の間には丈の長い雑草がぼうぼうと生えている。川まではかなり距離があるし、川面は見えても川の中は見えない。川幅は広くて、対岸を歩く人も豆つぶほどの大きさだ。おもしろいところなんか、ひとつもない。遠くに見える赤い鉄橋のほうが、電車が通るぶん、まだみどころがある。
「あとどのくらいで着く?」
「うーん、たぶん五分くらい」
「さっきもそう言ってたー」
 体当たりすると「お母さんの五分はまだ経ってませーん」とてきとうなことを言う。それがありなら、花はもう十五分ちかく歩いている。
 強い風が吹いて、胸下まである髪がいきおいよくなびいた。視界のはしで、ピンク色のゴムボールが川の上を飛ぶようにすべり、あっというまにちいさくなる。上から見ているより、川の流れは速いのかもしれない。
 新しい学校のプールびらきはいつだろう、と花は思う。
 前の学校では六月からプールに入っていた。みんなで同じ方向に歩いてうず巻きを作る「せんたくき」や、水の中にもぐっておもちゃを拾う「たからさがし」があるといい。泳ぐのは苦手だけど、あれは好きだった。
 そしてどうかどうか、ヤゴ取りはもう終わっていますようにと、心から祈る。プールの水を膝ぐらいまで抜いた後、たまった泥や落ち葉の中からヤゴを見つけてバケツに入れるヤゴ取りは大きらいだ。足もとが見えない状態で動きまわるから、ヤゴをぎゅっと踏みつぶすこともある。
 ぞぞぞっときて、花は川を見るのをやめた。水面を見ているだけで、さぶいぼが立ってしまった。
「あった!」
 聡子が声をはずませ、土手の下を指さした。
 どれどれ、と見ると、聡子の指の先にはふしぎな形の家が建っていた。
 二階建ての家が横並びに三つくっついて、一つの家のようになっている。三角屋根は一枚でつながっているけれど、屋根下の出っぱり窓はそれぞれの家についている。白いベランダを除けば、壁はぜんぶ若草色に塗られていて、絵本の中に出てきそうな家だった。
(わるくないじゃん)
 聡子の「どうしても住みたい家」が、とんでもないボロ家だったらどうしようと心配していたけれど――この前、テレビで古代のくらしの番組を見ながら、「竪穴式住居いいね、住んでみたい」と言っていたから、かなり心配していた――、これなら合格だ。
 聡子に続いて土手内の階段を下りていく。
 家の正面には芝生の庭がついていた。庭のまわりは板木の柵で囲われていて、中に仕切りはない。
「あっ、トラックきてる」
 聡子がぱたぱたと駆けていった。
 花はついていかず、庭の横で立ち止まり、聡子と作業員のおじさんを見守った。ゾウの絵が描かれたトラックから段ボールが下ろされ、台車に積まれて、家の横に張り出したアーチ状の門に吸い込まれていく。
 段ボールの列が途切れたタイミングで中を覗くと、うす暗い廊下に白いドアが三つ浮かんで見えた。手前のドアが開いていて、中から聡子の声が聞こえる。
「はいごめんねー通るよー」
 おじさんの太い声に首を引っ込める。
 そろそろと後ろに下がり、電柱にもたれたときだった。
「おう」
 いきなり、頭の上から声が降ってきた。
 ぐるんと振り向くと、濃いオレンジ色のシャツを着たおじいさんが、柵の上から花を見下ろしていた。
「寺田さんとこの子か」
 花の名字だ。うなずくと、おじいさんが手招きした。
「これ、いくらやと思う?」言いながらシャツの襟ぐりを引っ張っている。
 オレンジ色のシャツには赤や紫のハイビスカスがプリントされていて、目がちかちかする。シャツから伸びるしみだらけの細い腕や、しわでたるんだ首は真っ黒に焼けていて、ごぼうでできた人形が服を着ているみたいだ。薄くなった白髪を後ろに撫でつけていて、口元にもあごにも白いちょびひげが生えている。大きなサングラスをかけていて、目元はまったく見えない。とても年をとっていることはわかるけれど、よそおいは若い。
 固まっていると、おじいさんはまた「いくらやと思う?」と訊いてきた。
 いくら、というのは値段だろうか。そもそもこのおじいさんは、どうして自分たちの家の庭にいるのか。
「峰ちゃんとこの店で買うたんや。バーゲンやった」
(だれなんだ峰ちゃん……)
 助けを求めたかったけれど、聡子は指示出しに忙しそうで、花のピンチに気づかない。仕方なく花は「三千円」とつぶやいた。大人の服の値段なんてわからないから、お正月にもらったお年玉の額を言った。三年生だから三千円。
「ファイナルアンサーか」
「ファイナルアンサー」
 おじいさんは、どぅるるるるると口でドラムロールを鳴らしはじめた。つばが飛ぶのが見えて、(げっ)と後じさる。
 ドラムロールを奏でた後、数秒間をあけて、おじいさんは「千円」と自慢げに笑った。
 金歯が丸出しになる。歯の隙間にネギがついていた。


 ああその人、長谷川さんだよ。これは二階でいいか、花ちゃんカッター取ってー。はい、ありがとう。え? そうそう、ここの大家さん。はいこれ、二階に持って上がって。うん、いったんどこでもいいから。階段気をつけてねー。あ、待って。これも持っていって。庭? ああそうそう、庭は共有なの。うん、長谷川さん、真ん中に住んでるから。じゃ、よろしく。
「今日からいっしょに暮らすとかじゃなくてよかった」
 階段を下りながら、花はそっとつぶやいた。
 さっきのおじいさん――大家の長谷川さんは悪い人ではなさそうだけど、ちょっとへんな人なのは間違いない。ちょっとへんな人は、聡子ひとりでじゅうぶんだ。
「なんか言った?」
 リビングから聡子が出てきた。トイレットペーパーの袋を抱えている。
「言ってなーい。次はどこ?」
「トイレ! 下に戸棚ついてるから、これ入れといてほしい。場所わかる?」
「よゆー」
 家のあちこちに荷物を運んだおかげで、新しい家のつくりはだいたいおぼえた。
 階段を下りきって、トイレットペーパーの袋を受け取る。意外と重い。玄関から廊下をまっすぐ進んで洗面所へ。トイレはその左どなりだ。
 トイレの電気を点けて、ドアを開ける。ビニール袋に人さし指を突っ込んでやぶり、トイレットペーパーを取り出す。ひとつずつ戸棚に積み入れる。すごい。トイレに棚がある。トイレが洗面所と分かれている!
 ここは前に住んでいたアパートとはくらべものにならないぐらい広い。家の中に階段があるのも新鮮だ。今も、頭の上で聡子の足音が響いている。とんとんとん、と階段を上りきって……あ、右に曲がった。手を止めて、目をつむり、イメージする。つるつる床の部屋に入って、左はしにあるみじかい階段を上る。暗い屋根裏部屋に上がって、窓を開け放つ。勢いよく風が吹き込んできて、カーテンがはためく。目をほそめて、きらきら光る川を見る。


 十八時。ブーッというブザーのような音が家じゅうにこだました。
「きたきた」と言いながら、聡子が二階からどたどた下りてきた。花もリビングから出て玄関に向かう。
 スニーカーをつっかけた聡子が「はいはーい」とノブをひねってドアを押し開けると、ドアの向こうに、背の高い派手な女の人が見えた。
 女の人のみじかい髪は金に近い茶色で、前髪の隙間から見える細い眉は怒っているみたいにつり上がっている。目も鼻も口も大きいけれど、顔は小さくて、首は細長い。
 芸能人みたい、と見とれていたら、ぱっと目が合った。
「花ちゃん? 花ちゃんだよね?」
 うなずくと、女の人は「うわー、女の子だ」と腰をまげて視線を合わせてきた。
「すんごっ、想像の百倍くらい女の子。ていうか髪超まっすぐだね。さらっさら。おめめもくりっくりお人形さんみたい。むちゃんこかわいいね!」
 知らない人でも、まくし立てられるようにほめられたら悪い気はしない。
 小首をかしげてにっこり笑ってみせる。
 女の人は一瞬きょとんとしたけれど、次の瞬間ぶははっと大笑いした。
「すっげ、その年でそんな笑い方できんだ! さっすが聡子さんの娘」
「そーそー、私によく似てるでしょ。かわゆいムスメですよ」
「うん、ほんとかわいい。ゆくすえ楽しみですなあ」
 どんな女になるのやら、と目をのぞきこんでくる。
 このかわいいは、なんかあんまり、うれしくない。
「あっ、むってしたな、むっ、て。かわいー」
 女の人がからかうように口の右はしを上げた。
 ちょっと苦手かも、と花は聡子の後ろに隠れた。聡子はかまわず女の人と笑い合っている。
「荷ほどきって終わった? まだなら手伝うよ。うちと間取り同じだから、だいたいの場所わかるし。ほんとはもっと早く仕事抜けてきたかったんだけどさ、今日にかぎって予約入っちって」
「大丈夫。あらかた終わったから」
「そ? じゃあさっそくだけど、今晩うち来なよ。さっき然も帰ってきたし」
「ああ、然くん。じゃ、いよいよだ、みゆきちゃん」
「そう、いよいよだよ、聡子さん」
 ふたりが、ふふふ、と気味の悪い笑い声を立てる。
 何がいよいよなのかまったくわからなかったけれど、その後の話の流れから、今日の夕飯はみゆきの家でとるのだけはわかった。


 みゆきの家まで、廊下を十歩。
「道野」という表札の下にあるブザーを押すと、みゆきが出てきた。いっしょに、干し草のようなにおいと、カレーのスパイシーな香りがまざって押しよせてくる。
 聡子にならって運動靴をぬぎ、はじっこで揃える。おうちに上がると、リビングの入口に立っている男子と目が合った。
 たぶん、「然」だ。
 然は「こんばんは」とよく通る声ではっきりと言った。人前で大きな声を出すことに慣れているかんじがする。ちょっともてそうだ。みゆきに似て目が大きいけれど、目じりが上がっているから、すっきりした顔立ちに見える。よく日に焼けていて、運動も得意そう。クラスの中心グループにいる雰囲気の男の子だ。
 リビングに通され、四人がけのテーブルに聡子と向かい合う形で座る。
「ほいほい、おまたせ」
 みゆきと然が両手にカレー皿を持ってやってきた。みゆきが聡子の前に、然が花の前に皿を置く。
(こいつ……)
 わざとなのか、たまたまなのか。皿のはじっこがルーで汚れているほうを花の前に置いた気がする。
 ルーが少ないほうをよこすならまだ食いしんぼう的なかわいげがあるけれど、汚い皿を渡してくるのは性根がひん曲がっている。
 然が「いただきます」と手を合わせた。すずしい横顔だ。たまたまだと言い聞かせて、花も手を合わせる。
 それにしても、カレーならカレーだと前もって言ってほしかった。今日は髪の毛をくくるゴムを持ってきていない。花の髪はするんとしているから、いくら耳にかけても、顔を下に向けた拍子にルーがついてしまいそうだ。
 おまけに然と花のカレーは聡子たちにくらべて黄土っぽい色で、子どもだからと問答無用で甘口にされたのかと思うとむっとくる(カレーは辛ければ辛いほどいいのに)。まったく、なめられたものだ。
 二杯めを食べ終え、げっぷをこらえながらお茶のコップに手を伸ばしたところで、みゆきと目が合った。「ごちそうさまでした」と言おうとしたけれど、なんだか様子がおかしい。
 みゆきだけではない、聡子も、横並びに座った花と然をおもしろそうに見ている。
 視線に気づいたのか、然もスプーンを皿に置いた。
「聡子さん、例のブツ、そろそろいこうかと思うんだけど、どうかな」
「うむ、いきましょうや」
「ではでは」
 みゆきが席を立った。
 何だ。一体、何が始まるのだ。
 聡子とみゆきを交互に見る。然も知らないようで、同じように頭を左右に振り続けている。
 キッチンに戻ったみゆきが冷蔵庫を開け、何かを取り出した。肩で冷蔵庫を閉め、パパパパーンと、おめでたそうなメロディーを歌いながらやってくる。ひゅーっ、と聡子がはやし立てる。一瞬、然の誕生日なのかと思ったけれど、然もいぶかしげにこちらを見ている。
(おまえ誕生日?)
(ちがう)
 花の十歳の誕生日は四月に終わったばかりだ。
 カウンターキッチンの角を曲がり、みゆきが持ってきたのは生クリームでコーティングされたホールケーキだった。
(やっぱ誕生日じゃん)
(ちがうって)
 ケーキの真ん中にのったチョコプレートには文字が書かれている。花は然といっしょに腰を浮かせて、プレートをのぞき込んだ。
 プレートには『花ちゃん 然くん きょうだい記念日』と書かれていた。


「つまり、然と花ちゃんは異母きょうだいってこと。あ、意味わかる? お母さんは違うけど、お父さんが同じって意味。ふたりには血のつながりがあんの。あんたたちはきょうだいで……きょうだいなんだよ、とにかく」
 みゆきが強引にまとめ、うんうん、とひとりでうなずいた。
 そのまま、口が開きっぱなしになっている花たちにかまうことなく、話を進めていく。
「もともと、ふたりが十歳になったら会わせようと思ってたんだけど、タイミングよく右はしの部屋が空いたからさ、思い切って聡子さんに声かけたんだ。ご近所さんになってみない?って」
 ねっ、とみゆきが聡子の肩を叩く。聡子は「そおそお」とゆるくうなずいた。
「な」
 然がかぼそいうめき声を上げた。
「何年生? この……この人」
「四年生、だよね? 花ちゃん」
「……はい」
「同い年じゃん」
 然の目にめんどうそうな色が浮かんだのを、花は見逃さなかった。
「学校一緒?」
「そう。クラスも同じにしてもらったんだから。花ちゃん、転校してしばらくは大変だろうから、然、助けてやんのよ」
「えっ、むりむりむり」
 然がおおげさに手を振った。
「なんでよ」
「俺いそがしいし。女子のことは女子がどうにかするし」
「冷たくない? きょうだいだよ?」
「いや、きょうだいとか知らねーし……」
「そんなこと言わない。花ちゃん、困ってんじゃん」
 花はぶんぶん首を横に振った。
 困っていない。いや、困っているけれど、それは親たちのとんでもない思いつきのせいだ。
 だるそうな物言いはむかつくが、この場にかぎっては、然のほうが正しい。ケーキまで用意している親たちのほうが絶対におかしい。
 学校はしょうがないにしても、せめてクラスは別にしてほしかった。双子でもないのに、同い年のきょうだいなんてヘンだ。名字もちがうし、顔も似ていない。
「ひとりで大丈夫です」
 花は胸をはって言った。
「わたし、前の学校では副委員長やってたから」
「ほらほらほら、副委員長やってたんなら大丈夫だよ」
 副委員長をやっていたから何がどう大丈夫なのか、花は(おそらく然も)わかっていなかったけれど、とにかく、世話をするのもされるのもごめんだという強い意思だけは、確かめ合わなくても一致していた。
「きょうだい」だから助け合えなんて。大人たちはなんて純粋なんだろう。そんなことをしたら、どんなひやかしに遭うかわかったものじゃない。
 大丈夫だから、ともう一度言ったのに、聡子もみゆきもあいまいに笑うだけだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)