たぶん、そうじゃなかったら、遼太郎と遊ぶことはなかったと思う。遼太郎は四年生だったし、俺はもう卒業間近で、一リットルの牛乳パックに口を直につけて飲むことが恰好いいことだと思っていた。弟でもない年下と遊ぶなんて、友達がいない奴みたいで恥ずかしい。
クラスの中の自分というものを意識し始めていたから、ダサいところは見られたくなかったし、誰からもいい感じの奴だと思われたかった。得意なスポーツはなかったけれど、その代わりに勉強はできた。名のある塾に通っていたから、友達もそのつながりがメインになる。グループ内でいじられるようなキャラでもなかったし、ポジションは固まっていた。最難関校を目指すような秀才くんではなかったけれど、それなりに自分に自信はあった。モチベーションを高めるためにも明確なビジョンを持つことは有効、みたいなことを刷り込まれてきたから、志望校のグラウンドを駆けている自分の姿を何度でも想像した。それが絶対に本当になって、すべてがうまくいくはずだと信じていた。
中学受験ですべてに落ちてから、俺の人生は急転した。
「ヒロト。お母さん、ちょっと出掛けてくるから。六時くらいには終わるみたいだけど、お腹空いたらなんか食べてて。カップ麵なら戸棚にあるし、アプリでピザ頼んでてもいいから」
ミロの粉こぼしたらしっかり拭いてね、と言いながら、お母さんが階段を駆け下りてくる。昔、仕事をしていた時みたいな服だ。スーツとは違うのだけれど、とにかくしゃっきりしている恰好だった。最寄りのコンビニに行く時の雰囲気ではない。
「今日、なんかあんの?」
「文化センターに顔出してくるだけ。お花の撤収のお手伝い」
「ふーん……」
志望校すべてに不合格だったことが確定した日、お母さんはちょっとだけ泣いて、次の日からは明るくなった。明るくなったというか、外に出掛けることが増えたのだ。何かのモードが切り替わったみたいに、家にいるのをやめてしまった。今日はどこそこに行ってきた、みたいな報告ばかり俺にされても、どう答えたらいいのかわからない。反対に、お父さんは俺の中受に関心が薄かったので、別に公立があるだろ、というような感じで素っ気なかった。ショックを受けられすぎても困るし、ショックでなさそうすぎても困る。ほかの家ってどうなってんのかな、と思ったけれど、俺が仲良くしている奴らはみんな、どこかに合格してしまった。お祭り騒ぎの最中に、こっちのショボい話なんて聞かせられない。ツッチーは合格祝いで、新しいスマホを買ってもらえるんだそうだ。そういうのがミシミシ心を揺らすから、学校に行くのもだるくなる。俺って友達いないのかな、と思い始めると、どこに居たって面白くない。
家も学校も塾も、いっぺんに微妙になるってどうかしてる。
「じゃあ、行ってくるからね。帰る前に連絡するから」
お母さんが玄関の鍵を締めてしまうと、途端に家の中が静かになった。リビングの出窓から、西日が強く差している。レースのカーテンのこちら側には、合格祈願のダルマがいた。あれからしばらく経っているのに、どうして捨ててしまわないんだろう。
平日の放課後、どう過ごせばいいのかを、いまだに摑めていなかった。塾がないと、何もない。受験が終わったら絶対にゲームをやりまくろうと思っていたのに、いざやってみたらつまらなかった。塾の友達とばかりフレンド登録しているせいで、ログインするのにも気が引ける。あいつ、どこにも受からなかったくせにゲームばっかやってるんだってさ。そういう底意地の悪い声が、誰かから投げつけられるような気がしてしまう。
実際、塾のメッセージグループは毎日盛り上がっていた。そのテンションについていけないから、スマホを見るのもだるくなる。
ソファから起き上がってキッチンに向かうと、フローリングの床が素足につめたかった。なんとなく冷蔵庫を開けてみたって、めぼしいものは見つからない。ちょっと前まで、俺の家の冷蔵庫には必ずヤクルトの買い置きがあった。体調管理のためにと、毎日飲むよう言われていたヤクルト。その体調管理の習慣も、不合格通知が出ると同時に何故だか失われてしまった。受験に落ちてしまったら、俺の体調なんてどうでもいいものになったのかもしれない。
自販機でポカリでも買おうと思って、薄手のフリースのアウターを羽織る。交通系ICカードの入っているカードケースを首から下げてスニーカーを履くと、どうしてか身体が軽くなった気がした。ランドセルも、塾のリュックも、いつでも俺の荷物は重たすぎる。
家を出て鍵を締めていると、キャンキャンと犬の声が聞こえた。向かいの家のトイプードルだ。さっき、学校から帰ってきた時は何も思わなかったのに、急に外気の匂いを感じた。
三月のつめたい風が、ぎゅっと身体を縮こまらせる。
俺が歩いている道の前方を、黄色い帽子の一年生や知らないじいさんが歩いていた。誰かに会わなきゃいいな、と思う。
いつもの自販機コーナーに向かってしまっていることに気づいたのは、目の前まで近づいてからだった。ツッチーたちが住んでいる大きなマンション前の自販機コーナーは、ここらで一番充実している。俺らがなんとなくダラダラするのは、ここの自販機前だった。去年の夏、何かの時に、みんなで騒いだことを思い出す。
ツッチーも義昭も、さおりも裕太も志望校に受かってしまった。
学校で話すことはあっても、最近、何かが嚙み合わない。
「あ、ヒロトだ」
向こうの自販機のポカリにしよう、と踵を返そうとした瞬間に、そう呼び止められてどきっとした。マンション前の植え込みのところに座り込んでいる子どもが俺に手を振っている。
どきっと驚いたのも束の間、誰だっけ、と頭を過った。
久しぶりに会うような奴だと、ぱっと見ではわからない。
「何やってんの、ヒロト」
遼太郎か、と思い出した瞬間、学童の記憶がよみがえってきた。俺が三年生の時に、一年生として入ってきたのが遼太郎だ。うちの学童は三年生までだから、一年間だけの付き合いだった。たまに校内で見かけることはあっても、特別遊ぶ仲じゃない。
いま、俺が六年だから、遼太郎は四年のはずだ。
遼太郎は何故かこんな季節に、セミ捕り網を持っていた。
「いや、おまえが何やってんだって。なんだよそれ」
「これ、サビちゃったのかもしれない。棒が伸びなくなっちゃった」
二段階式なのに伸びなくなった、とセミ捕り網を差し出されたので、しょうがないから近寄ってやった。ぺたんこの中綿ジャケットを着ているのに、下はハーフパンツで寒そうだ。特にでかくもない四年生だから、俺からしたらかなり小さく見える。
「なんでこんなの持ってんだよ?」
「必要なんだよ。いいからやってよ」
セミ捕り網を受け取ると、アルミ製の持ち手で軽かった。パキッと回せそうな部分を動かせば、長さが調整できるらしい。
ちょっと力を入れてみたけれど、思ったよりも硬かった。
「……これ、硬くね?」
「子どもの力だと無理なんだけど」
「俺だって子どもだよ」
「六年生じゃん、頑張ったらいける」
早くしないと日が暮れちゃうよ、と急かされて、黙ってろよ、と俺はぼやいた。随分使われていなかったのか、何かが中で固まっている。朝食のジャム瓶が開かなくなった時みたいだ。ぐっと力を込めたところで、タイミングが悪ければ開いてくれない。
「なんか、ゴム手袋みたいのないの?」
「ない」
「ないじゃないだろ。手が痛くなってきた。どっちにしろ、こんな季節にセミなんていないから諦めとけよ」
「え、春にセミなんているわけないじゃん」
何言ってんだよヒロト~、と煽られて、年上だけどイラッとした。こういうクソガキ的なノリに、いま付き合える気分じゃない。
「……じゃあ、これ伸ばすのやめるわ」
「やだよ、伸ばしてよ」
「セミ捕らないなら必要ないだろ」
「セミなんかより、もっとすごいのを捕まえるんだよ!」
「なんだよそれ」
「ギュイギュイ鳥だよ、知らないの?」
知らないんだ~六年生なのに~、とまた遼太郎が煽ってきたので、やっぱり俺はムカついた。こういう奴はクラスにもいるけど、下の学年だとより腹が立つ。ガキの相手をするのはだるい。
まぼろしの鳥がいるんだよ、と遼太郎が得意気に言った。
「オレ、こないだ見ちゃったんだよね。ギュイギュイギュイって声で鳴く、派手な緑色の珍しい鳥。かがやき公園の木の上にいたんだ。絶対に野生の鳥じゃないから、どっかの家から逃げ出したんだと思う。もしかしたらペットショップから逃げ出したのかも。だから、オレが捕まえて、すごい奴だなって表彰されたい!」
「誰から表彰されるんだよ」
「そいつ、悪役みたいな顔してるんだ! オウムみたいな大きさで、とにかくなんかすごいんだよ」
「おまえ、話盛ってない?」
「盛ってない! 本当にニワトリくらいの大きさだから」
オウムとニワトリじゃ結構サイズが違うだろ、と突っ込んでやろうと思った瞬間、ばきっと音を立ててセミ捕り網の留め具が外れた。雨水でも溜まって錆びていたのか、粉状の赤い錆がはらはらと落ちてくる。
くるくると柄を回してやると、セミ捕り網の柄は大きく伸びた。
「やった! これでギュイギュイ鳥だ!」
「ありがとうとか、なんかあるだろ……」
「サンキュー最高学年!」
痺れた右手を振るっていると、ツッチーたちのマンションに人の出入りがあることに気がついた。ツッチーのお母さんとか、義昭のお母さんから声を掛けられたら面倒くさい。そう考えると、本当にどこにも居場所がないような気がしてしまう。
自販機でポカリを買うと、途端に現実が戻ってきた。
「じゃあ、俺帰るから」
「え、一緒に行こうよ。かがやき公園」
ギュイギュイ鳥ももうすぐ来るよ、と遼太郎がウソか本当かわからないようなことを言う。実際、これくらいの年齢のやつは、いろんなことがまだ曖昧なのだ。俺だって、きっとそうだった。ひょっとしたら、この世のどこかには魔法ってものがあるのかもと信じていた。
「行こうよ~ヒロトのほうがオレより身長高いじゃん!」
「それは学年違うからだろ」
「違くて、オレが背伸びして届かないような枝の上でも、ヒロトがいたら届くかもしれないってこと!」
つーか自分だけポカリ飲むなよ、と指をさされたので、しょうがないからひと口やった。遼太郎のひと口はちょっと量が多すぎる。
たしかに家に帰ったところで、やりたいことは何もなかった。
「行ってもいいけど、かがやき公園」
その変な踊りをやめろ、と俺が両手でストップをかけると、遼太郎のくねくねは高速になった。そういえば、この意味不明な踊りを学童の時もやっていたような気がする。
「ここ、人通るから。行くならさっさと行こうぜ」
「オレ、最近こっちの手だけグニャグニャにするのを会得して……」
「いいから早くしろって」
マンションの前を先に歩くと、おい待てよ、と遼太郎が走って俺を追い越した。大きく伸びているセミ捕り網が、この寒空でアホみたいだ。
短い橋を渡ってしまえば、かがやき公園まではすぐだった。ひっそりと都会を流れる川が、西日を浴びて光っている。
こっちの方面まで歩いて行くのは、結構久しぶりだった。
「あ、サギ」
あれサギだよね、と遼太郎が橋の欄干から身を乗り出す。指さすほうを覗いてみると、白くて細長い鳥がいた。かがやき公園のひょうたん池から、ちょっと飛んで来たのかもしれない。
住宅街の中にあるにしては、かがやき公園はとても広かった。
「すげ、本当だ」
「『サギに注意』だ。警視庁からのお知らせです」
「そっちのサギとは違うだろ」
「知ってるよ、ジョーシキじゃん」
遼太郎がまた前を歩き始めると、ずっずと地面を擦る音が聞こえた。セミ捕り網の柄の先が、アスファルトの硬さに削れていく。
夕方に向かう太陽が、一瞬、強く大きくなった。
「遼太郎、サギって漢字で書けるか?」
「なにそれ」
「犯罪のサギと鳥のサギ」
「まだ習ってない」
「学校じゃたぶんやんねえよ」
「オレ、別に受験しないし」
しない奴って全然いるし、と遼太郎がまたくねくねと踊り出す。
うちの学校はほとんどの奴が、中学受験を経験する。する組、しない組に分かれていくのは中学年の初めの頃だ。
四年生の終わり頃、俺には自由な時間なんてあまりなかった。
「……まあ、サギって書けてもしょうがないしな」
ギュイギュイ鳥、そろそろ来るかな、と遼太郎が空を見上げる。
「こないだはこれくらいの時間に見かけたんだ。ひょうたん池のほとりだよ。あそこの大きな木の上で、ギュイギュイって鳴いたから気がついたんだ。怖い目をしている鳥なんだよ。もしかしたらセミ捕り網に入りきらないくらいにでかいかもしれない」
どうせ、いないんだろうけど、そいつが本当にいればいいのにと俺は思った。
決まりきっている現実を無理やりに捻じ曲げてくれるような、ファンキーでハチャメチャな何かがこの世のどこかにいればいいのに。
(続きは本誌でお楽しみください。)