四月



 お前たちはいつか離れ離れになる。
 来年にはクラスが替わっているし、再来年には通う学校すら違う。卒業すると、二度と会わなくなるやつもたくさん出てくる。だから、たった一年の交友関係なんてそんなに重要なものじゃないんだ。
 でも、重要じゃないもの、無意味なものを、無価値だとは思わないでほしい。
 みんなの人生だって、一個一個見てみたら、大して重要じゃない日もあるだろ? そんな日も、みんなを構成する一部になってるわけだ。
 その上でさ、ちょっとデカい話になるけど、人生の結論って、なんだと思う?
 これはきっと、死だよ。
 死ぬことは、全員に平等に用意されているエンディングだ。死に方に多少の違いはあるかもしれないけど、死ぬこと自体は変わらないわけだ。
 でも、そんなつまらない結論のために生きるのは、勿体無いだろ?
 だから、つまりな。
 結局、俺たちの人生において重要なのは、結論ではなく、経過なんだ。
 経過とはつまり、この瞬間であり、今日であり、この一年なんだ。重要ではないと思っていた一年が、一ヶ月が、一週間が、一日が、実は、無意味でありながら、無価値じゃないんだ。
 俺は、みんなのこの一年が、どれだけ退屈であっても、少しでも輝かしいものになることを願ってる。
 無理に友達を作れとは言わない。夢を見つけろとか、勉強や部活にひたすら打ち込めとかも、言う気はない。
 そりゃあ、できれば赤点は避けてほしいし、受験を考えるならスタートを切らなきゃいけないだろう。働くなら、就活のことも考えなきゃいけない時期だ。
 でも、誰がなんと言おうと、お前たちの人生は、お前たちだけのものなんだよ。親のものでも、先生や学校のものでも、社会や世界のものでもないんだ。
 だから、他人の目を気にせず、SNSなんかに流されず、自分の芯に向き合って、高校二年という、人生で一度きりの時間をどう使うか。考えながら、行動しながら、無意味でも無価値じゃない日々を生きてみてほしい。
 親に刃向かいたいなら相談に乗る。学校に飽きたなら相手になる。何があっても、自ら死ぬな。手首を切る前に、自分を縛るその鎖を切れ。俺を頼れ。できるだけのことはする。できないなら、できないなりのこともする。
 一年間、頼ってもらえるように頑張るから。何かあったら、いつでも言ってください。
 以上。これから一年、よろしくな。

 教壇に立つ地道先生が話を終えると、新学期初日なりに騒がしかったはずの教室は、心地よい緊張と高揚に包まれていた。四月の陽に暖められた風だけが楽しげに躍っていて、やや黄ばんでいるカーテンがその風を飲み込み、大きく膨らんだ。ロングスカートが捲れたように揺れるカーテンの先で、畑と遠くの山々が覗いた。去年からワンフロアぶん教室の位置が高くなっただけなのに、その景色はこれまでとまるで違って見えた。
 草木の青いにおいが届く。クラスメイトとして括られたばかりの同級生たちの背中から、期待や不安が滲み出ている。
 地道先生は、親しげな様子も、楽しげな様子も、前向きな様子も見せずに話した。フレームの細い眼鏡の奥に見える瞳は何も語っておらず、全てに飽きてしまったようにも思えた。そんな表情から発せられた言葉は、情熱的に語られるよりもよっぽどまっすぐ、僕に届いた。大切なことを、勢いで誤魔化したりしない、誠実な大人に感じられた。
 日々は常に連続していて、学年が変わった程度では、何かが切り替わるわけでもない。さっきまでそう思っていたはずだったのに、僕は、先生の話を聞いた瞬間、新たな一年が確かに始まった気がした。

「ジミヘン、かなりアツかったな」
 ホームルームが終わり、リュックに荷物をしまっていると、低くこもった声が降りてきた。
 いつの間に近づいたのだろうか。
 岩のように大きな影が、僕を覆っている。
「……なんて?」
「ジミヘンだよ。地道辺哉なんて、ジミヘンと呼ばせたいがために親が強引に付けた名前だろう」
 クラス名簿に書かれていた担任のフルネームを確認する。確かに、略せばジミヘンになった。
「あ、ジミヘン、わかるか? ギタリストだよ。ほら」
 スマホを見せつけられる。鳥の巣のようにうねった髪をした細身の黒人が、画面の中でエレキギターを抱えていた。
「共通する要素なんて、髪型くらいだけどな」
 ふす、と鼻から息を吐き、巨大な男は口角を上げた。
 僕は地道先生の姿を頭に浮かべる。無難な白のワイシャツに無難な紺のベスト、無難なジャケットと無難なネクタイ、そして無難な眼鏡をかけた無難な顔。エレキギターを搔き鳴らす姿は確かに想像がつかない。
 しかし、それより、なにより、今は外国のギタリストのことなんて考えている場合ではないのだ。僕の目下の課題は、突然話しかけてきたこの大男・山内銀河をどう対処すべきかにあった。
「太陽、この後は?」
 下の名前を呼ばれ、体が跳ねそうになる。目の前の男とは、入学前の健康診断でたまたま話したきりだ。それももう一年以上前のことだし、わずか十分程度の雑談にも満たない会話だったはずなのに、どうしてこいつは僕を覚えているのか。まるで道端で熊を目撃したような驚きと恐怖。それを擬似体験している気がした。
「何もなければ、一緒に帰ろうぜ」
 銀河が学ランのカラーに両手を添えた。首が短いからか、カラーが顎の下の肉に触れるらしい。皮膚が赤くなっている。
 どう伝えればいいものか。予定はない。だが、君とは帰りたくない、とは言えない。
 なんとか一緒に帰らずに済む理由を探そうと、教室を見回した。だが、銀河の巨大な顔が、ずい、と目の前に迫る。
「お前、大丈夫か?」
「なにが……?」
「目、真っ赤だぞ」
「え?」
 まっすぐ見つめられ、プレッシャーに耐えられず、顔を背けた。
「あ。まさかお前」
 銀河の声が少し大きくなった。
「コンタクトにしたのか?」
「いや、べつに」
 図星だった。この三月まで眼鏡をかけていたが、二年になったことを機に、コンタクトレンズに挑戦したのだ。しかし、去年まで同じクラスだったやつに指摘されるならまだしも、一年ぶりに対面した男に気付かれるなんて想像もしていなかった。
「まさか、高二デビューとはな」
「違うって」
「いや、いいんだ。人生において今が一番若い。その挑戦を俺は肯定する」
「なんなの」
 思わずツッコミを入れてしまい、そこまで親しい仲ではなかったことに気まずさが跳ね上がる。銀河は口角をゆっくりと上げたが、しかし次の瞬間、もう一つの違和感に気付いたようだった。
「だが、そっちはさすがに、マズいだろう」
 今度は僕の机の端に、人差し指を向けている。
 リュックで隠していたつもりだったが、どうやら、目ざとく見つけられたらしい。
 今朝、黒板に貼られた座席表のとおりに席に着こうとして、驚いた。
 僕の周りの机はどれもやわらかなメープルカラーをしているのに、僕の机だけ、日焼けサロンに通い続けたギャルのように、天板が赤黒く変色していたのだ。
 なんだこれは、と落胆しながら椅子を引くと、今度は机の天板の右下に目がいった。
〈ウンコ〉
 強烈な三文字が、恐らく彫刻刀のような刃物で鋭く刻まれていた。
「それはお前、新学期初日から、さすがに攻めすぎだろ」
 低俗すぎる三文字を、銀河は少し震える声で読んだ。笑いを堪えているようだった。
「僕が書いたんじゃないから」
「太陽。犯人は皆、そう言うんだ」
「まじでやめてって」
 食い気味にツッコんでしまってから、我に返る。昔から仲の良い友達だと勘違いされたら、どうしたらいいんだ。慌てて教室を見回した。幸か不幸か、ほとんどの生徒がすでに廊下に出ており、席に座っているのは僕だけだった。
 銀河は親指を教室前方の入り口に向けた。
「帰ろうぜ」
 渋々、銀河と一緒に教室を出た。音楽室が近いせいか、吹奏楽部の管楽器の音が、ぷあん、と間抜けに響いた。

「この一年を、どう生きるか、とな」
 下駄箱へ向かう階段の途中、銀河がポツリと漏らした。
「さっきの、地道先生の?」
 銀河は黙ったまま頷く。
 人生は、結論よりも経過が大切。そして、経過とはつまり、この一年間をどのように過ごすかにかかっている。先生の話は、至極真っ当なものに思えた。
「太陽は、どう生きるんだ」
「そんな急に、ジブリみたいなこと聞かれても」
「あ、俺は原作派だぞ」
 そこはどうでもいいんだけど、と口に出したわけでもないのに、銀河が一方的に話し始めた。映画のほうは宮﨑駿が高畑勲に対しての個人的な思いを乗せすぎた内容になっていて原作のように貧困や社会との向き合い方に関する思考の純度を極限まで高めたようなぶつぶつ、と垂れ流された蘊蓄を半分以上無視しながら、僕は地道先生の言葉を反芻する。
「やりたいことも、なりたいものも、ないなあ」
 言葉にした途端、自分の人生がなんだかとても小さなものに思えてくる。
 もちろん、それなりの努力はしてきたつもりだ。だが、具体的に挙げようとすると、途端にどれも取るに足らないものに感じる。
 たとえばテストで赤点を取らないようにするとか、ゲームが買えるまでお金を貯めるとか、それは努力と呼べるのだろうか? 今日まで、何か一芸に秀でているわけでもなければ、とびきり勉強ができるわけでもなかった。問題ばかり起こす不良ではないが、率先して学校行事に参加するようなタイプでもなかった。毎年皆勤賞を取れるほど健康体ではないが、休みがちと思われるほど病弱なわけでもなかった。寝食を忘れるほど打ち込んだものもなければ、憧れるものもなかった。
 これを、ただのらりくらりと生きてきた人間の人生とみなされるのなら、僕はまさにそういうことになってしまう。先生の言う「無意味」の集合体が、自分なのかもしれなかった。
 もう、散々SNSで見てきたのだ。同世代の天才たちは、とっくに時代の波に乗って、輝き始めている。僕はテレビに出たいとかフォロワー数を増やしたいといった欲求がとくにないけれど、それでも天才たちの輝きを見れば、自分の平凡さには嫌でも気付くことができた。
 たぶん、今更この人生に劇的な展開が訪れることはないだろう。改めて、そんな気がした。
「まあ、見つからないなりに行動してみろ、という意味なのだろうな」
 横を歩く銀河が、僕を見下ろしながら言った。
 昇降口に近づくにつれ、喧騒が大きくなってゆく。一年のときのクラスが離れ離れになったことを今更惜しむ友人同士が、ホームルーム終わりに集まっているようだった。
 いくつかの小集団を遠目に見ながら、銀河が口を開いた。
「太陽が動くとき、地球もまた、動くかもしれないからな」
「……地球はもともと動いているし、僕だって今現在、自宅に向けて動いている最中だよ」
 ドヤ顔を見て思わず反論してしまったが、銀河はまたしても「ふす」と息を吐いて、口角を上げただけだった。
 自分の下駄箱の位置が変わったことに慣れない。しかし、それも一ヶ月もすれば日常になって、一年経つ前に飽きて、数年も経てば忘れてしまうだろう。
 靴を履き替えながら、壁に目をやる。指紋だらけの大きな鏡があり、その上に、額装された〈校長の格言〉が掛けられている。
〈友情〉
 はあ、そうですか。とため息が漏れる。
 校長は飽きっぽいのか、それとも自分の書いた字を見られたいという承認欲求が強いのか、毎月初めになると〈格言〉を新しいものに更新する。先月は〈卒業〉で、先々月は確か〈健康〉だった(実は、これを〈格言〉と呼んでいるのは校長と教頭だけで、他の先生たちが「あんなのはただの単語」と吐き捨てているところを僕は盗み聞いたことがある)。
 僕は〈友情〉を睨む。
 わざわざ昇降口に飾るだけあって、今回も自信に満ち溢れた、勢いのある筆の動きをしている。
 高校二年、初登校。充実した一年にすべく、新たな友人作りに向けてコンタクトレンズまで入れたのに、結局、山内銀河と一年ぶりに話しただけで終わってしまった。
「……ちょっとトイレに寄りたいから、ここで」
「ん? わかった。太陽、また明日な」
 銀河と別れた直後、近くのトイレまで走った。
 鏡を見ながら、眼球にべったり張り付いたコンタクトレンズを外そうと試みる。たっぷり五分かかって、ようやく外れた。
 真っ赤になった両目が、必死に呼吸を始める。無理しちゃいけないと、鏡に映る僕が、僕に訴えている。

(続きは本誌でお楽しみください。)