高速バスが出発してから二時間ばかり、寝るともなく目をつむっていた。こめかみがきゅうきゅうと軋む。乗車まえに飲んだロキソニンの効果が切れてきたみたいだ。それとも、また気圧が下がったのだろうか。私はスマホアプリ『頭痛ーる』を開いた。
「1002」
頭痛持ちの暇つぶし、気圧の予想をしてから画面に目を落とす。一時間ごとの気圧の折れ線グラフと、その高低差がひどい場所に表示された「警戒」と爆弾の絵文字。現在の気圧は1003ヘクトパスカル。惜しい。そんなことをしているあいだに、バスは地元駅のロータリーをぐるりと一周して停車した。
降り立った瞬間、うわ、と声がでそうになる。肩をすくめた。
日本海に面した町の真冬は、どうしてこんなに不機嫌なのだろう。十二月の冷気そのものに、白く濁った氷のような閉塞感があった。不動産管理会社の新卒一年目は色々いそがしいのだと理由をつけて、東京のアパートにこもったほうがよかったかもしれない。お盆は帰れなかったから、せめて年末くらいと思ったのだけど、いざ到着すると、実家で過ごす年末年始のイベントすべてがノルマのように思えてくる。親戚への挨拶も、恒例のお餅つきも。そして、卒業式以来の中学の同窓会も。航は来るだろうか。
歩くたび、実家へのお土産を入れた紙袋が膝にがさがさ当たる。
「きょん、こっち」
ロータリーに横づけされた、赤いミニクーパーの窓が下りた。その運転席から、風ちゃんが「ほれ、はよ」と人さし指をくいくいさせる。不織布マスクのうえで、すっぴんに浮いたまつエクがぱしぱしと瞬いている。私は手を振ってトランクを転がした。
「ブー! 答えは『もしも』でした」
そう言うなり、梨子が容赦なく背中へダイブしてきた。私はベッドにうつ伏せてスマホを触っていたので、うげっと蛙のような声がでた。
「いや、そっちかい。漢字の畏怖かと思ったわ。Ifな。さきに英語って言え」
「イフはなんて意味でしょうって言ったんだから、そんなの英語に決まってんじゃん」
梨子のきゃんきゃんと高い声が耳のすぐ裏側で響く。私と風ちゃんが家に戻るなり、部屋から駆けだしてきて、いきなり「きょんちゃん、クイズ!」と出題してきたのだ。ベッドの側面にもたれた風ちゃんが、スマホをいじりながら「ちょっとまえから英語ならいだしたのよ」と言った。
「え、小学一年で英語って早くない? そんなもん?」
母の代わりに、梨子が「そんなもーん」と私の頭をうしろからホールドする。いだーい、と声をあげると、おもしろがってさらに腕のちからを強めてきた。そのまま頰をすりつけてくる。一年ぶりに会う母親のいとこにもまったく人見知りをしない梨子は、それにしてもこんなに甘えん坊だったっけ。額に、小さなてのひらがぺたっと張りつく。
「きょんちゃん、ここから見たらおばちゃんにそっくり。ねえ、おばちゃんの栗きんとんめっちゃ美味しいの知ってる?」
幼い子どもの香ばしく甘いにおいが顔のまわりを漂う。
「知ってるよー、毎年食べてるもん」
私の部屋は二階だ。階下ではいま、梨子いわく「栗きんとん名人」らしいうちの母をはじめ、その姉である風ちゃんの母がおせちを作って分けあったり、伯父や叔父が年の瀬の酒を汲みかわしている。
話すともなく話すうち、三人でせまいベッドにならんで寝転んだ。壁際から、風ちゃん、梨子、私、窮屈な川の字だ。YouTubeを観たがる梨子にスマホを貸してやる。YouTuberの陽気な挨拶を聴きながら、私はふと、黒目を左上に動かした。反転した窓いっぱいに、あわく光った目の粗い雲があつまっている。積乱雲になりそうでなれない、すこし息苦しそうなうすい灰色の雲だった。
八年まえも、このベッドのうえだった。いまとおなじように、視界のなかで反転した窓ごしに空を見ていた。星や雲にくわしい航は、私が「あれはなに」と窓を指すたび、聞いたこともない星や雲の名前を口にした。中学の同窓会は明日だ。
とくべつ会いたいわけではない。同窓会へ行くのは、純粋にクラスメイトたちに会いたいからだ。ただ来るなら来るで、あらかじめ靴紐を結び直しておくような、ささやかな心の準備がいる。
いつのまにか眠っていた。誰かさんに鼻をつままれ、呼吸ができなくなる。梨子、と咎める声が「りご」になり、やみくもに手を払うとやわらかな頰に触れた。
「きょんちゃん、公園行こうよ。もうお昼寝は終わり」
「わかったわかった」私に続いて、風ちゃんも「なに、公園?」
すると、梨子が太い眉毛をにゅっと歪め、「きょんちゃんと行くの!」と声を張った。風ちゃんは慣れているらしく、「はいはい、ママは留守番です」と面倒くさそうに負けた。
梨子は「すぐ来てよ」と私に念を押して、ひと足さきに一階へおりていった。
「私が寝てるあいだに親子喧嘩した?」
「いや違うのよ」風ちゃんがベッドから大儀そうに身を起こす。「下の子できてからずっとあんな感じ」と、トレーナー越しにもふっくらとしているのがわかるおなかを見下ろした。風ちゃんは私より五つ上の二十八歳、もうすぐ二児の母になる。
「ママとは行かない、ママとは半分こしないとか言って。あたしは変わらず接してるつもりなんだよ? でも、梨子的にはそうじゃないみたい」
風ちゃんがスマホを持った手をシーツに放りだし、ぽす、と頼りない音がする。大の字のまましばらく天井を見つめていた。
「本能的にわかるのかな。こう、いままで自分に注がれてたものが、おなかに向かってるのが。マジで急に怒りっぽくなったんだよ」
私はベッドから降りて、勉強机に置いていたマフラーとニット帽を手に取った。
「ま、梨子のことは任せてよ。風ちゃんは私のベッドで心ゆくまでごろごろしててくださいな。風邪ひかないようにね。あ、電気毛布は強くしすぎたらだめだよ、寝汗で冷えるから」
「おばちゃんとおなじこと言ってる」
眠気が襲ってきたのか、風ちゃんが目を瞑ったまま低く笑う。
「じゃあ、お世話になりますわ。悪いね、明後日の親子リレーも」
「お安い御用。体育館一周だけだし、余裕余裕、言うてまだ二十三歳よ」
同窓会の翌日に、市民体育館で子ども向けのお餅つき大会がある。この町の年末恒例イベントで、私や風ちゃんも小学生のころはよく参加した。学年ごとのレクリエーションもあり、一年生の種目は親子リレーだった。妊娠中の風ちゃんの代わりに、私が梨子の保護者として参加することになっている。ちょっと楽しみだった。
階段をおりたところに広がる玄関で、梨子は仁王立ちで私を待っていた。
「おそい! すぐ来てって言ったじゃん」
ぷんすかした顔は赤色のマフラーに半分埋もれている。コートと手袋ですっかり着ぶくれた姿に、くすりと笑みがもれた。母親に素直に甘えられないときは、いくらでもおばちゃんを使えばいい。愛おしさで胸がしくしくして、私は「ごめんごめん」と言いながら抱きあげる。梨子は「声が反省してない」と文句をこぼしつつ、私の両肩にちょこんと手を置いた。
玄関の引き戸を開ける。ひろがる冬のまぶしさに眼球の裏側がつきんとした。その反響はこめかみにも届いて、また頭痛がひどくなる。年末は気圧の急降下に警戒しないと。コートの内ポケットにしのばせていたロキソニンを口に入れた。水筒に入れたお湯を飲む。口から洩れた息の白さに、八年まえの冬の記憶が混じっていた。この時期だったと思いだす。子どもを殺したのだった。
「梨子、それ、マフラーちゃんと前で縛んな。首から寒いのが入ってくるよ」
「うん。風邪ひいたら、あさってのお餅つき大会出れなくなっちゃう」
おなかの底であわく光る、雪だまりを思い浮かべる。春さきの山の残雪のように、溶けかけることはあっても、一年をとおして完全に溶けきることは決してない。陽射しを浴びると、気まぐれに反射する。まばたきするほどではない。まつ毛がかるく震える程度の、あわい光だ。そんなものを八年も持てあましている。そしていま、どうにかそれを身体のそとへ逃がせないかと、私は梨子のちいさな手をわけもなく握りなおす。
「そうだね」
住宅街は年の瀬の静けさにみちていた。自分たちの足音がよくきこえる。梨子がふいっと私を見あげ、「きょんちゃんの手、ママよりうすくて大きいんだね」と報告してきた。
同窓会の会場は、町にひとつしかないボウリング場の横にあるイタリアンレストランだった。ほの暗いオレンジ色に照らされた店内は、すでに各テーブルから同窓生の談笑が漂っている。私は道中で出くわしたまーやんと店に入った。
「きょん、あんた字うまいから書いてよ」
受付で白いネームプレートをもらい、三年次のクラスと名前を書く。
「えー意味ないじゃん。ほら、自分で書きなさいってば」
店内を奥へすすむごとに、フォカッチャやチーズの焼けるにおいが食欲をくすぐった。
「テーブルってクラスごとかな。それとも部活?」
でも私たちの年は囲碁将棋部が私たちだけだったからな、と話しながら店内を見まわすうち、おなじ三年二組の女子数人が「きょん、まーやん!」と奥のテーブル席から激しく手を振った。笑ってしまう。みんな雰囲気は変わっているのに、名札を見なくても誰が誰か一発でわかる。二席ぶん詰めてくれた子たちに礼を言って席に着いた。
八年ぶりに会う同級生と談笑しながら、私はそれとなく店内に視線をめぐらせた。
「ええっと、じゃあ、幹事代表ということで」
マイクがハウリングする。店の奥を見ると、おおぜいの頭のむこうに、ライトに照らされた顔がひとつ。数センチ高くなったミニステージに、体格のいい短髪の男が立っていた。
あ、と間抜けな声が口のなかで溶けた。
近くのテーブルから、「しゃきっと喋れぃ」「わたるちゃーん!」と、彼とおなじ元野球部員から酒の入ったガヤが飛ぶ。航はハンカチで額をあたふたと拭い、「俺こういうの苦手だってば」と早口に言う。屈強そうな大男がそうするものだから、会場は和やかな笑いにつつまれた。私も場にあわせて微笑んだ。
「思ったより沢山の方にお集まりいただいて、一幹事として嬉しいかぎりです。みなさん、今日はおおいに楽しんでください」
彼らしい真面目な挨拶を終えた航が、「かんぱい!」と低く吠える。あちこちで声とグラスの音が重なる。拍手で店の壁がびりびりした。航がにこやかにステージを降りる、その一瞬、こちらを振り返ったことに私はなんの準備もしていなかった。
長く続く拍手と歓声のなか、たがいに表情もなくしばらく見つめあっていた。
早くしないと取られるよ、とまーやんに背を押され、私が動いたのは中学二年の冬。野球部の活動が終わるのを、裏門の石柱にもたれて待っていた。ブレザーのポケットに両手をつっこみ、そこに忍ばせた「飛車」と「角」の駒を汗ばんだ手でいじる。直前で腰が引けぬよう、お守り代わりに忍ばせたのだ。
はたして顔を真っ赤にした航は「こ、こちらこそよろしくっす」と、謝罪と見まがうほど深く頭を下げた。顔にぶわりと風がくる。男子の汗と砂のまじった匂いだった。
とはいえ、手をつなぐだけで顔を真っ赤にするようなふたりだ。どちらかの部屋でゲームをしたり、門限までお喋りをしたりと、最初の数か月はほほえましい交際だった。
航の部屋の本棚には、漫画のほかに天文系の図鑑や写真集がならんでいる。
「おれ、星とか雲とか、撮る人になりたくて」
照れくささを隠すように「笑っちゃうだろ、ゴリラみたいな球児のくせに」とつけ足す。そんなことない、私も知りたいと、あるときふたりで電車に乗って隣町のプラネタリウムを観に行った。その帰りの電車のなかで、
「このまま、もっと遠くに行きたいね」
トンネルに入って黒くなった車窓に、横長のシートにならんで座る姿が映っている。航が窓に映る私と、となりにいる実物の私を、不思議そうに見比べた。
「なに?」
「いや……なんか、違う女に見えた」
「違う女かもしれないよ」私が悪戯っぽく笑うと、航はガラス越しに「は?」と呆れたように笑い返したあと、ふっと真顔になってキスをしてきた。その夜が初めてだったと思う。避妊具がコンビニに売っていることさえ知らなかった私を、航は長いこと茶化した。
(続きは本誌でお楽しみください。)