――〈ふくろうハイム〉に女の幽霊が出る。怖いから何とかしてほしい。
 定例朝礼のあと、そんなクレームをエリア長から直接伝えられた。
 央次郎はアルバイト先の住宅管理会社〈ウエコーハウズイング〉横に停めたスクーターにまたがる。姿勢を正してスタータースイッチを押したら、すぐにエンジンがかかった。最近すこぶる調子の悪い中古スクーターのエンジンが一発でかかれば〈大吉〉、と今日一日の仕事運を託すバイク占い。自分で考案しておきながら、央次郎はむかっ腹を立てる。
 ――なわけないじゃん。面倒くさそうなクレームが入ってんのに。
 一日八時間ずつ週五日、ほぼフルタイムでマンションの巡回型管理員のアルバイトをはじめたのは二十一歳の冬だったから、もうじき一年になる。当初から担当していたマンション〈松浪レジデンス〉と〈レスポワール漣〉に新たに〈ふくろうハイム〉が加わったのは、わずか二ヶ月前だ。担当マンションの増加は働きぶりを認められたとも言えるが、央次郎はちっとも嬉しくない。家からなるべく近く、バイク通勤が可能で、一人でマイペースにできるアルバイトを求人情報サイトで探し、一番ホワイトそうな会社を選んだだけなので、管理員という職自体には何の思い入れもなくやりがいも感じていなかった。
 ――怪談は夏だろ。地球温暖化のせいで、幽霊まで季節感がなくなったか。
 央次郎はまともに恐怖を感じないよう冗談めかし、マウンテンパーカーのジッパーを首元まできっちり上げて発進した。十月のはじめはまだ本気の暑さが残っていたのに、中旬の今はもう風が冷たい。
 鍵堂駅の南側にある海を背にして、踏切を越え、北口に出る。駅前の大型ショッピングモールはまだ開店前だ。雲の薄い青空の下、央次郎のスクーターはショッピングモールを横目にどんどん北へ進み、まっすぐな坂道をのぼっていく。ちょうど朝の通勤通学時間なので、駅を目指してくだっていく対向車線のほうが圧倒的に混んでいた。最後にわりと長めのトンネルを抜けると、戸建てと集合住宅がバランスよく並んだ住宅地が視界いっぱいに広がる。ここは、漣ニュータウン。元々は山林だった土地を昭和の時代に切り拓き、整備された町だ。
 央次郎が担当する三つのマンションは、どれもこの漣ニュータウン内にあった。それらを午前と午後に分けて巡回し、清掃や点検を行っている。ちなみに央次郎が両親と暮らす自宅もこのニュータウンにあるため、駅の南口側の本社で定例朝礼がある木曜以外は、直行直帰、ニュータウンから一歩も出ずに央次郎の生活は成り立っていた。
 謎の裏道も趣のある小道も存在しない、ただひたすらまっすぐに延びる綺麗に舗装された道路を走っていると、央次郎の頭にいつもある英語が浮かぶ。
 ――Midnight Express
 直訳すれば『深夜特急』で、央次郎の愛読書のタイトルだ。二十代の日本人青年が香港を起点に路線バスを乗り継いでロンドンを目指そうと思いつくも、実際の旅がはじまると予定は未定の連続で、青年は異文化と外国人にまみれ、突き転がされていく。その劇的な展開はフィクションではなく、著者の若かりし頃の旅をありのままに綴った紀行文というから驚いた。海外に出るのが今よりずっと難しかった時代に日本を飛び出し、広い世界を体で感じ、年齢も人種も境遇も異なる人々と触れ合った青年の生き様に憧れる。同時に、今の自分には到底できないし、どれだけ齢を重ねようと結局できないだろうとも思った。以来、読むたび形にならない焦りが生まれることがわかっていても、青年の冒険をいっしょに味わう魅力に抗えず、本をひらいてしまう。もう何度読み返したかわからない。そんな本の序文で、著者はみずから「Midnight Expressに乗る」が「脱獄する」ことの隠語であると明かしていた。
 名前こそ「ニュータウン」だが、開発されてからずいぶん時が経ち、あちこち古びて、住人たちも軒並み高齢化し、成長を止めた町。そんな小さな町の、未知の場所には一切通じていない道をぐるぐるまわっているだけの自分にもいつか、「Midnight Expressに乗る」日が訪れるだろうか。央次郎は思わずため息をついていた。
 ニュータウンの中心地に来ると、ウィンカーを出して右折し、最後の坂をあがりきる。ニュータウンを一望できるこの高台が、まるまる〈ふくろうハイム〉の敷地だ。昔はここから直線距離で二キロほどの海もちゃんと見えたらしいが、駅前に巨大なショッピングモールや高層マンションが建ち並んだ今、海は気配すら感じられない。
〈ふくろうハイム〉の建物は細長く、正面に潜水艦のような丸窓が並んでいた。屋上に置かれた給水タンクは円柱型で、フクロウに見立ててペイントされている。「給水タンクのフクロウを撫でると、しあわせになれるそうだ。〝福来朗〟だけに」と央次郎に冗談めかして教えてくれたのは、前任の管理員だ。どこかの企業を定年退職後、〈ウエコーハウズイング〉に再雇用され、管理員として十五年過ごしたベテランだった。漣ニュータウンの開発初期に建った賃貸マンションで、築四十年は過ぎていると教えてくれたのも、その人だ。「よく知ってますね」と央次郎が驚いたら、新婚当時の数年間住人だったと妙にしんみり打ち明けられ、相槌に困った覚えがある。
 央次郎自身は〈ふくろうハイム〉に個人的な思い入れはないが、たしかに自分の担当する三つの賃貸マンションの中でもダントツに古くて小規模、そしてマンション名も外観も個性的だとは感じていた。レトロやヴィンテージといった言葉で括りきれない独自性ゆえ、実際マンションの下見に来て一発で気に入る人と二の足を踏む人にはっきり分かれるそうだ。気に入る人はとことん愛着を持つようで、総戸数わずか六戸の住人の中には、新築当時から住みつづけている者が存在するという。
 央次郎はマンション横に併設された屋根付き駐輪場から少し離れた場所までスクーターで一気に乗り入れ、エンジンを切った。そういえば今朝、エリア長がこのマンションは解体されるかもしれないと話していた。マンションのオーナーから直々に聞かされた計画らしい。戸数分の青空駐車場や共用の芝生広場などが揃った広い敷地やオートロックが導入されたエントランスフロアの小綺麗な印象から、とっさに「もったいない」と思ってしまった央次郎だが、屋上や共用階段など何度かリフォームされてもなお老朽化の止まらない部分が、日々の業務中に目につくことも事実だ。築年数とメンテナンス費用を考えたら、解体が妥当な選択かもしれない。
 ふいに、後ろで子どもたちの奇声に近い声があがる。央次郎が振り返る前に、三人の子ども――中学生くらいの男子と小学生くらいの女児と幼稚園生くらいの男児がぶつかり合い、弾みながらマンションへ駆け込んでいった。普段からなるべく住人との接触を避けて仕事している央次郎は、いずれもはじめて見る顔だ。幼稚園生から受け取った鍵を中学生が差し込み、オートロックを解除する。その慣れた連携プレーを見て〈ふくろうハイム〉に住むきょうだいだろうと当たりを付けた。
「あ」と央次郎の声が漏れたのは、幽霊クレームの件を思い出したからだ。エリア長からクレーム主の声は子どものようだとも聞かされていた。「いたずらじゃねぇかな」とエリア長は様子見をすすめてくれたが、いたずらなのか本気のクレームなのか、早めにはっきりさせて気持ちを軽くしたい。
 ――聞きたいことがあるんだけど。
 とっさに声をかけようとして、舌がこわばる。最初の「き」が出てこなくて、喉が締まっていく。体のほうが先に動いた。央次郎はオレンジ色のつなぎの腰に巻いたキーチェーンを引っ張り、マスターキーを正面玄関の鍵穴に突っ込む。
 扉がひらくと、エントランスフロアに子どもたちの姿はもうなかった。央次郎は正面に設置された共用階段を駆け上がる。ふくろうハイムは四階建てだが、エレベーターがない。階段を踏み越えるたび腰にぶらさげたたくさんの鍵がぶつかり、カチャカチャと音を立てた。
 三階へ上がる階段の途中で、上方からドアの閉まる音がした。子どもたちは部屋に入ってしまったようだ。央次郎は丸い手すりを摑み、がっくり腰を折って息を整える。「ちょっと待って」と今さらのように言葉が転がり出てきた。これだ。この一言ならカ行がなくてスムーズに発声できたのに、と歯嚙みする。ひとまず三階以上の住人であることはわかったから、あとは居住者名簿で探してみようと身を翻しかけたところ、202号室のドアがいきなりひらいた。不意を突かれ、央次郎は「イッ」と変な声をあげて固まってしまう。ドアの陰から、丸い顔がひょこっとのぞいた。
「あら。あなた、管理人さん?」
 きっちりメイクが施された顔は年齢不詳だったが、目尻の皺と頭の高い位置でお団子ヘアを作った真っ白な髪、声と喋り方から、かなりの年長者であることがうかがえる。
「あ、はい。正式な職名はかかっ管理員、ですけど」
「よかった。やっと会えた。金髪がよくお似合いの管理人さんですこと」
 202号室の住人は警戒心ゼロの人懐こさを発揮し、朗らかかつマイペースに話しつづけた。央次郎は戸惑い、頭を搔く。話しかけづらい外見を目指して金髪にしているのだが、この住人には無効らしい。
 住人はドアからちょこちょこと出てきて、丁寧に頭をさげた。ストラップでぶらさげた眼鏡が胸元で揺れ、幾何学模様の真っ赤なスカートが央次郎の目を刺す。
「はじめまして。先月こちらへ引っ越してきた上田千依です。ご挨拶が遅くなってごめんなさい。これから色々よろしくお願いしますね」
「……っく」
「え?」
 千依は耳に手をあてて首をかしげる。央次郎はつなぎの胸につけた名札を、あわてて引っ張った。
「椚? くぬぎ、さんでいいの?」と千依はストラップをたぐり眼鏡をかけて、読み上げる。央次郎は深くうなずき、「央次郎です」と名札には書かれていない名前を伝えた。すんなり名乗れなかったことへの申しわけなさからこぼれた言葉だったが、千依は違う受け取り方をしたらしい。パッと顔をかがやかせて眼鏡をはずし、身振り手振りを交えて楽しそうに話しだす。
「あら。名前で呼んでほしいのね。たしかに、そのほうが親しみやすいわ。〝央次郎くん〟でいいかしら? じゃあわたくしは〝千依さん〟でお願い」
 誤解を訂正する暇もなくできあがった取り決めに困惑しながら、央次郎は幼い頃に読んだ『小さなスプーンおばさん』の本の表紙を思い出した。お団子ヘアといい、茶さじほど小さくはないが小柄な体つきといい、カラフルなスカートといい、千依はあそこに描かれていた〈スプーンおばさん〉にそっくりだ。年齢的には〈スプーンおばあさん〉だろうが、と少々失礼なことを考える。
 千依はドアに鍵をかけて、央次郎の隣にいそいそ並んだ。背中の大きなリュックは何も入っていないのか、ぺしゃんこだ。千依はリュックの肩紐を握ったまま央次郎がおりてきた階段を見上げ、首をかしげた。
「上の階にご用事でも?」
「お子さんの姿を、見かけたので」
 央次郎はスムーズに喋れそうな言葉を選びながら、慎重に話す。発声が途切れ途切れになり、我ながらまだるっこしい喋り方だと思うが、千依は上機嫌に会話をつづけた。
「ああ。402号室の小峯さんの三きょうだいね。全員いたの? 学校はお休みかしら」
 その言葉ではじめて、央次郎は今が平日の午前中であることを意識する。きょうだい揃ってサボりか、親は知ってるのか、などと考えていると、千依はパチンと音を立てて小さな手を合わせ、「きっと創立記念日か何かね」と片付けた。そして好奇心の光を目に宿し、央次郎に聞いてくる。
「彼らに何かご用事?」
「……いえ」
 首を横に振りかけ、央次郎はこのままだと自分が用もないのに子どもたちを追いかけまわした不審な管理員になりかねないと思い直す。肩を引き上げてからフッと力を抜き、口をひらいた。
「住人のどなたかが、弊社に電話をされたんです。その内容について、詳細が知りたくて」
「あら。クレーム? 三きょうだいに聞きたいってことは、電話の声が子どもだったの?」
 察しのいい千依からぽんぽん飛び出す質問に閉口し、央次郎はいやあと言葉を濁す。千依は腕を組み、いたずらっぽく微笑んだ。
「もしかして、〝〈ふくろうハイム〉に女の幽霊が出る〟ってクレームとか?」
 ズバリと見抜かれすぎて、央次郎は動揺する。「な、な、な、なんで?」と意識せずに声をあげていた。
「先週くらいから住人のみなさんがぽつぽつ目撃してるのよ。なかでもわたくしの知るかぎり、小峯三きょうだいが一番大騒ぎして怖がってたから」
「あなたも」と央次郎が言いかけると、千依はすぐに「千依さん、も」と言い直す。
「千依さんも、見たんですか?」
「ええ」と千依はどこか得意げにうなずいた。住人の目撃者多数となれば、いたずらとして片付けられそうにない。幽霊が本物かどうかの審議はさておき、早めに対応の必要がありそうだ。央次郎はスマートフォンで時刻をたしかめた。
「千依さん。今、お時間ありますか?」
「ありますとも。わたくしの今日の予定は、買い物くらいよ」
 千依は央次郎にリュックを向けて、揺らしてみせる。エコバッグ代わりらしい。
「下で、ちょっとお話を伺わせてほしいです」
「ええ。参りましょう」
 千依は真っ赤なスカートをつまんで少し持ち上げ、従者を引き連れたプリンセスさながら優雅に共用階段をおりていった。

(続きは本誌でお楽しみください。)