第一章 CSP
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地下鉄の車内は蒸し暑かった。まだ三月は十日だというのに、二月の終わりから異様に暖かい日が続いている。今日も外気は二十五度を超えた。桜なんかとっくに散ってしまって、花見をする暇もなかった。初夏と言ってもいいようなバカ陽気が続いているが、四月は二月並みにまた寒くなるという予報のせいで、冬服を仕舞うこともできず、これまでとは違う春だと誰もが訝っていた。
コハクは暑さに耐えかねて、パーカーを脱いだ。が、下に着たTシャツを誰にも見せたくなかった。どうせパーカーの下だからと適当に選んだのだが、そのTシャツは体育祭の時にクラスで作った代物だった。黒地に蛍光グリーンで、高校の名と「ISSHO」という文字がでかでかと書いてある。「ISSHO」とは「一緒」のことだ。
CSPが始まってから、とかく「団結」だの「絆」だの「愛校心」だのが強調されるようになった。コハクにはぴんとこない言葉だから、Tシャツも家の中でしか着ないようにしていたのに、うっかり外に着てきてしまった。
再びパーカーを羽織って隠すのも面倒で、コハクはロゴを見られないように、膝の上に置いたリュックで胸元を隠すようにした。リュックの中の包みが、かさりと音を立てる。明日の卒業式で別れる友人たちに、プレゼントを買ってきた帰りだった。買ったのは、皆がよく鞄に付けている、キャラクターのチャームだ。
三月に入ってから、高校三年生は授業も終わってほとんど休みになる。卒業式に出た後は、CSPと呼ばれる国家のプログラムに参加しなければならないから、友人たちともしばらく会えなくなる。誰もが別れを惜しんで、ささやかなプレゼントを用意していることだろう。多分、明日はその交換会になる。そして終わった後は、仲間同士で卒業パーティをする。コハクも友達と食事をした後、カラオケに行くことになっていた。
隣席の若い男の肘が脇腹に当たった。男は素知らぬ顔をしている。仲間との絆や団結精神は大事にするのに、赤の他人には無神経でいいのが最近の傾向だ。どうやら、男も暑さに我慢できなくなったので、長袖のトレーナーを脱ぎたいのだろう。体を窮屈そうによじっているので、コハクは自衛のために少し間隔を開けた。前の席では、太った中年女が手で顔を扇いでいる。
地下鉄の車内が暑いのは、いまだ暖房を点けているせいだ。切ればいいのに、三月いっぱいは暖房を点ける規則だからだとか。規則でがんじがらめにして、融通が利かないのはどうしてだろう。学校もそうだし、この国もそうだ。
コハクは高三だが、昨年の十一月で十九歳になった。同学年の友人より一歳年上だから、クラスメートのほとんどが幼く見える。そのせいか、クラスでも浮いていた。でも、フウカやシュアたちは違う。賢いし、一人だけ年上のコハクにも優しい。コハクは、彼女たちがCSPで辛い目に遭わないように、心から願っていた。
コハクは、小学校二年の時に大病をした。発熱を繰り返し、最初は風邪と思われたが、そのうち高熱が下がらなくなった。血液検査をしたところ、深刻な病気が判明した。「コハクちゃんの病名は、B細胞性急性リンパ性白血病というんだよ」と医者に言われた時は、あまりに長い病名なので全然覚えられなかった。単に「白血病」と聞いた祖母は絶望して泣いたそうだが、コハクの両親は冷静だった。「B細胞性急性リンパ性白血病」は、小児の場合五年生存率が九十%以上だと聞いて、安堵したのだとか。
コハクは半年間の入院を余儀なくされ、入院期間はずっと点滴で投薬を受けていた。副作用に苦しめられた入院期間は、やはり辛いものだった。退院後は、自宅から通院して投薬は続けられた。一年半後にようやく寛解したが、二年生はやり直すことになった。
その時、コハクはつくづく思ったものだ。自分は病床でも勉強を続けたし、病気をしたからこそ我慢強くなった。外に出られない分、本も飽きるほど読んだし、パソコンも使いこなせるようになった。だから、同年のガキなんかよりはるかに賢くなったというのに、なぜ飛び級ではなく、もう一回同じ勉強を幼い連中としろ、というのだろう。理不尽ではないか。
この落胆と憤慨は長く尾を引き、コハクを懐疑的かつ哲学的な少女にした。コハクは幼くして、国の教育制度に疑問を抱いたのだった。つまり、この国の本質は悪平等である、と。抜きん出た者は叩かれて、低いレベルに揃えられる。臨機応変の能力を嫌い、ひとつの型に落とし込めるのは管理が楽だからだ。地下鉄の暖房という規則の遵守だとて、実は悪平等の発露ではないか、と。
たまたま地下鉄内のモニターが、ニュースを映し出していた。カンバヤシ首相が手を挙げて立ち上がったところだった。カンバヤシ首相は、女性で史上二人目の宰相だ。三人の子持ちが売りで、見た目は優しげな母親と言ったところだが、やることは苛烈で激しかった。CSPの発案者も彼女だ。
CSPが始まったのは三年前。その二年前には、自衛隊の極度の人員不足により、男子の徴兵制が復活していた。その見返りに、女子にも強制的なプログラムが実施されることになったのだ。男子は一年半だが、女子は一年間である。CSPとは、Cultural Support Programの略である。つまり、女子を文化的にサポートするプログラムということらしいが、実質的には男子の徴兵制とそう変わらないのだった。
野党からは、せめて半年にすべきだ、という意見が出たらしいが、カンバヤシ首相は強固に一年と主張した。その時の言い分は、「妊娠すると十月十日。だから女子は妊娠期間と同じにする。しかし、時間的に中途半端だとの声があるので、一年にします」だ。女子は妊娠期間と同じ、という発想がそもそも性別役割分担を意識しているから差別的だ、という抗議運動が起きたが、あまり盛り上がらなかった。
というのも、カンバヤシ首相自身が、ちょうど高校を卒業する長女のプログラム参加を発表したからだった。長女の「長い人生ですから、学業を離れて違うプログラムに参加することには大きな意義があると思います。どんな経験ができるか楽しみです」という談話が発表されたことも大きかった。
SNSで「十月十日賛成」「自然は素晴らしい」などの声が起きて、全国的なムーブメントになった。SNSを使って印象操作どころか、世論形成まで持っていくのは、与党のいつものパターンだが、カンバヤシ首相はとりわけ、その手管に長けているという噂があった。
地下鉄のモニターの中で、カンバヤシ首相は首を傾げながら顎に手を置き、何か考えているような表情で相手を見ている。今日のスーツは甘いベビーピンクだった。カンバヤシ首相は、いつもピンクのスーツを着ているために、ピンクレディという綽名があるのだ。下に着ているのはUネックの黒いドレスらしく、スーツ姿の男たちの中にあって、艶やかだった。
「てめっ、コノヤロー」
突然、地下鉄の轟音を揺るがすような大声が響き渡った。甲高い若い女性の声なので、誰もが声のする方を振り向く。コハクもモニターから目を離し、騒ぎのもとを探した。
「コノヤロー、何すんだよ。スケベ! 触んじゃねーよ」
車両の真ん中辺りで若い女が二人、男を挟んで怒鳴っていた。一人は長い髪を赤茶に染めて、目の周囲も同色にしているギャル風。短いプリーツスカートからは尻が見えそうだ。酔っているのか、足元が少しふらついている。もう一人は金髪をベリーショートにしている。カモ柄のショートパンツにコンバットブーツ。
「そんなに女のケツに触りたいか、このクソ」と、ショートパンツ。
「何か言えよ、てめーっ。謝れ、この痴漢野郎が」
口汚く罵るギャルが、男の肩を乱暴に押した。男は少しよろめいたが、女たちを無視してやり過ごそうとしたのか無表情だ。おかしな女たちに因縁を付けられて不快だ、という風を装って眉間に皺を寄せている。
「警察に電話してやる」
ギャルがスマホを手にして、驚異的な速さで操作した。さすがに、それを見た男は逃げ腰になる。若白髪が目立つ男は黒っぽいスーツ姿で、ださい鞄を斜め掛けしている。どこにでもいる、くたびれたサラリーマン風だ。すると、コンバットブーツの女が、いきなり男の太腿のあたりを蹴った。男はよろけたが、それでもまだ無言だ。
「何とか言えよ、アホ」
「逃げんじゃねーよ、コノヤロー」
女たちが男を小突き回し始めた時、電車が駅のホームに滑り込んだ。途端に、男が開いたドアから逃げようとして身を翻したが、ギャルが逃すまいと男の上着を摑む。
「逃げんなよ。警察呼んだから」
ギャルの手を振り切ってドアの方に向かおうとする男を、ギャルが後ろから突き飛ばし、ショートパンツが素早く走って、ドアの前で仁王立ちになった。発車のアナウンスが響く。立ち上がった男が、追いすがるギャルを押しのけて降りようとしたが、ショートパンツの女が閉まりかけるドアを両手で押し返して、男を外に出すまいとした。
「何すんだ、そこどけ」
初めて男が声をあげた。
「どかねーよ、バカ。もうじき警察が来るまで、おまえを絶対にこっから出さねえからな。覚悟してろ」
何度もドアが閉まりかけるが、ショートパンツの女が両手両足を使って止めているせいで、電車は発車できない。男は降りようと試みるも、背後からギャルに襟首を摑まれて仰向けに引き倒された。
「ざまあ」
ドアを止めている女がせせら笑う。乗客は二人の女の迫力に気圧されて、誰も何も言わない。無理にそのドアから降りようとする者もいない。何度も閉まりかけては開くドアを見つめている。
「ピンキーが暴れています。このおっさんはいずれ捕まるでしょうが、ちょっと派手なやり方なので、ご注目」
隣の男がスマホを掲げて録画しながら、小さな声で喋っている。動画はすぐに上げられて、瞬く間に拡散されるだろう。「ピンキー」とは、軍隊帰りの、言葉も態度も荒ぶった若い女たちのことを指す。ちなみに、「ピンキー」の呼び方は、「ヤンキー」と同じ発音だ。意味も同じである。喧嘩っぱやくて、やさぐれた兵役帰りの女。最近とみに増えたためか、社会問題になっていた。
「ピンキー」。明日は我が身だ。コハクは、ドアを塞いで薄ら笑いを浮かべているショートパンツの彼女を観察した。頰に長い傷がある。おそらく「P」だろう。やさぐれているところを見ると、どうやら「P」では、ろくな目に遭わなかったと見える。その時、駅員と車掌が駆け付けた。男はギャルとショートパンツに両脇から腕をしっかり抱えられて、電車から降りて行った。
「痴漢した相手が悪過ぎましたねえ。何せピンキー軍団ですからね。私の知ってるピンキーは、いつもペンチを持って歩いてて、喧嘩ふっかけては、生爪剝がすらしいです。そんなんでなくて、まだよかったんじゃないすか」
隣の男が楽しそうに喋っている。少しトーンが上がったので、周囲の人間も、男が実況中継していることに気が付いたようだ。男の動画に映り込みたくない人は、別の車両に移ってゆく。
コハクのスマホが手の中で震えた。グループLINEだ。
「桃、とうとう来た草」
フウカから、封筒の写真がアップされていた。桃とは、「桃紙」のことだ。中に入っている実物は、ピンクのつるつるした用紙にQRコードが印刷されているらしい。そのコードを読み込むと、集合場所や時間などが記されているという。が、誰も本物の桃紙はアップしていない。すれば、誰にでもQRコードを読めることになるので罪に問われる。
もちろん、蛮勇をふるうアホはどこにでもいて、以前は「CSP QRコード」と打つと、もろ本物のQRコードが映ったりしていたが、全部、期限切れで読み取れなくなっていた。アップしたおバカさんは厳しい取り調べを受けて訴えられ、前科者になったとか、刑務所に入れられたとか、笑えない噂がある。真偽のほどはわからないが、何らかの罪に問われるのは間違いない。スパイ防止法とか秘密保護法とかの応用はいくらでもできるからだ。
「QRコード見せて」
シュアがふざけると、フウカがすかさず打ってきた。
「自分のを見なよ」
「まだ、来てないもん」
「フウカ、ご愁傷様です」
トドがお辞儀しているスタンプはリリから。リリは昨日届いた、とLINEで報告があった。
「コハクはまだ来ないの?」と、フウカ。
「来てるかも。外にいるからわからん」
コハクはそう打ってから。果たして自分は、CSPでどういう待遇になるのだろうと考えていた。
「そっか、コハクはわたしらより年上だもんね。本来なら去年だから、あっちも待ってたんだね」と、フウカ。
「高校を卒業したら、同時に来るんだよ」
コハクが返すと、シュアもレスする。
「私たちは在学中だから、卒業式の時だね。働いていたり、何もしてなかったら、十八歳の誕生日だってさ」
「なるほど」と、フウカ。「だけど、フライングだよね。まだ卒業式前だもん」
「帰って家にあったら、私もLINEする」
コハクはそう打ってから、急いでパーカーを羽織り、ファスナーを上げた。Tシャツを見られたくなかったから、暑いけど仕方がない。ちょうど、乗換駅のホームに電車が滑り込んだところだった。
(続きは本誌でお楽しみください。)