序章 劫火


早鐘の音が町を奔った。
「おっ、火元は近えのか」
「未申の方角らしいな」
 暖気に空を仰ぐ町人に体当たりを食らわせながら、刺子半纏に手甲、草鞋履きの火事装束をまとった零次と龍が、通りを駆け抜ける。
「おらおら、どけどけっ。若頭のお通りだ」
「てめえら、邪魔なんだよっ」
 口々に喚きながら、二人の後を『を組』と染め抜かれた半纏をまとった若衆が続く。零次と龍の刺子半纏の背には『を組』に加え、鮮やかな纏持ちの姿が描かれている。
「兄貴、火元は海禅寺の裏手だそうですぜ」
 半鐘を鳴らす番屋の番人から、いち早く沙汰を得た龍が告げる。その忌々しそうな表情は、すぐと零次に伝染った。
「火除地のすぐ先に、立花家下屋敷があるってことか」
「下谷車坂町の先、下谷七軒町には上屋敷もありまさ。よりによって」
 零次は駆けながら若衆を振り返った。
「てめえら、遅えぞっ。浅草奥山は『を組』の縄張だろう。俺の後ろを、ちんたら従いて来りゃあいいってもんじゃねえと、いつも言ってんだろうがっ」
 手に手に火消道具を握った平人火消の背後を、町人駕籠に似た竜吐水を担ぐ一団が懸命に走る。
 全力で駆けながらも、平らな声で龍が指示を飛ばす。
「どこの組よりも先に屋根に上がって纏を振ってこその、消口一番だ。纏持ちと団扇持ちをまず行かせろ。『を組』の消札を必ず立てさせろ。わかったな」
 消口争いに勝てば、組の名を記した消札を残せる。
「へえ、合点承知っ」
 皆が息を切らせながら、次々と零次と龍を追い越してゆく。
 同時に喧しい声が迫り上がった。
「さっさとどきやがれっ。腰抜けの『を組』なんざ、お呼びじゃねえぞっ」
 振り向かずともわかる。やはり、立花家お抱えの大名火消が追い上げてきた。
 火除地が幸いし、まともに浅草奥山に火龍が押す気配はない。だが、海禅寺の周囲には、一つの辻の間に小さな寺が押し込めたように建っている。風向きの塩梅では、あっという間に焰に舐め尽くされる。
「火はここで『を組』が食い止めろ」
 零次の檄に、若衆が勇ましく吠える。
 夕刻もとうに過ぎた寺町に、人気はないはずだ。だが、付近の百姓小屋に勝手に入り込み、煮炊きをする無宿者は後を絶たない。
「莫迦野郎どもが、また碌に火の始末もしねえで、とんずらしやがったか」
 零次が吐き捨てると、龍が首を傾げた。
「薩摩御用盗の連中かも知れやせんね。罰当たりなあいつらなら、やりかねやせんぜ」
 不審な火が出ると、必ず江戸雀が口にする名だ。だが政が絡む思惑だろうが、無宿者の仕業だろうが、零次にはどうでもいい。
 燃え盛る小屋は、海禅寺のすぐ手前だ。零次は声を張り上げた。
「さっさと屋根に上がれっ。立花火消に先を越されたら、ぶっ殺すからな」
 芥子に甲羅流しの意匠が『を組』の纏だ。長さ八尺、重さ五貫二斤を超す纏を抱えた一人が、梯子を駆け上がる。二人が長柄を担ぎながら続く。水を含んだ纏の馬簾が、飛沫とともに暴れ始めた。
 火の粉を払うための大団扇を担いだ者も、梯子を駆け上がる。竜吐水を受け持つ者らは次々と、天水桶から水を汲んでは溜めてゆく。
 火が移った後方の百姓小屋も、骨組を透かせながら崩れ始めていた。
「こっちの小屋も取り壊せっ。寺に火を移すなっ」
 零次に続き、若衆が鳶口や刺又で、次々と小屋を打ち壊す。驟雨のごとく火の粉が降りかかるが、怯む者はいない。
 立花火消も続々と駆け付けながら、野次を飛ばす。
「おうおう『を組』は若頭さん御自ら、取り壊しをなさるたあね。けなげだねえ」
 大橘を模した纏を担いだ立花火消が『を組』に続き、素早く屋根に飛び移った。纏持ち同士の罵声が飛び交う。
「立花なんざ、すっこんでろい。また滅多打ちにされてえか」
「何だと、どん尻の十番組が格好つけやがってっ」
 立花火消が纏を振り回し、『を組』を屋根の隅に追い詰めた。『を組』の大団扇持ちが団扇で叩き返し、立花火消を屋根から落とそうと応戦する。
 若衆が懸命に竜吐水の持ち手を上下に動かし、筒から水を噴き上げる。上手くいけば五間は飛ばせる力があるが、吐き出される水は細く、屋根の上で暴れる纏持ちに首尾よく届かない。盛大に巻き上がる火の粉を見て、零次は舌打ちをした。
「纏に火が移る。――おい、栄吉っ」
 黙々と打ち壊しをしている、古参の手下を呼んだ。
「お前も屋根に上がれ。立花火消が調子づいてやがる。奴らを蹴り落とせ」
 名指しをされた栄吉は数瞬とまどったものの、すぐにでかい図体には似合わぬ敏捷さで梯子を上った。すかさず立花火消が栄吉の足を摑み、引きずり下ろそうとする。
 零次はその立花火消の襟首を摑み、振り向かせた。同時に鳶口を放り投げ、己が背に右手を回す。瞬時に刺子半纏に隠し持っていた、三尺の長鳶を抜き上げた。職人に仕立てさせた、零次の得物だ。
 長鳶を立花火消の首に渾身の力で打ち下ろす。火消が昏倒し、崩れ落ちた。
「てめえ、性懲りもなく、また俺らとやろうってのか」
 いい加減に聞き飽きた声がした。背後に不穏な気配を纏った男が立っている。
「蛇ノ目、またてめえか。すっこんでろ」
「そうはいかねえよ。俺ぁ、立花火消の組頭だからな」
「しつけえぞ。いつまで因縁を吹っ掛けるつもりだ」
 へっ、と蛇ノ目が嗤う。蛇のような赤い舌を、ちろちろと出し入れして見せる。
「もとはと言やあ、そっちの親方が立花家お抱えの火消相手に喧嘩を売ってきたんだろうが。だがな、何より俺ぁ、若頭さんの取り澄ました面を見る度に、吐きそうになるんだよ」
『を組』の親方である新門辰五郎と立花火消の因縁は、四十六年前に遡る。
 発端は、消口一番を奪い合う小競り合いだった。己が組の纏を、命を懸けてでも一番乗りで町人に見せつけることが、火消の矜持だ。大名火消を相手に、死人まで出した辰五郎に、立花火消は代替わりをする度に怨嗟を受け継いでいる。
 龍が素早く二人の間に割って入った。火事場の喧騒の中でも、冷えた龍の声はよく届く。
「加賀鳶だろうが、有馬火消だろうが『を組』は、田舎大名の火消なんざ相手にしねえんでさ。まだおわかりになっていらっしゃらねえようですが、あんたらは、江戸中の嫌われ者なんですぜ。田舎者があっしらに絡むなんざ、お門違いもいいとこでしょう」
 蛇ノ目のこめかみに青筋が浮く。龍の慇懃な嫌味に心底、腹を立てている。零次は龍の肩を摑み、脇にのけた。
「龍は若え衆の指揮を執れ。こいつは俺がやる」
「けど兄貴――」
「行け」
 力任せに龍を突き飛ばし、前へ出た。
 蛇ノ目の手には刺又がある。零次の顔の前で、煽るかのように揺らし始めた。
 零次の目路の端では、紅蓮が揺れ踊っている。
「下がれっ」
 火消の誰かが叫んだ。打ち壊された小屋が崩壊し、爆ぜる火焰が耳をつんざく。熱風が零次と蛇ノ目を吹き飛ばそうとする。数瞬、火の粉に包まれ、互いの姿を失う。
「やる、って何をだよ。面白えじゃねえか、何をやるってんだよ」
 逆巻く火の粉をかい潜り、蛇ノ目が見えぬほどの速さで刺又を繰り出した。零次はとっさに背を反らせ、刺又を躱す。続けざまに打突を食らい、零次は数歩、後ずさった。相変わらず、蛇ノ目の突きには隙がない。
 蛇ノ目は嘲笑しながら、上下左右に刺又を突き出し、零次の動きを封じる。
「今日の若頭さんは、鈍いねえ。早くもヤキが回ったか」
 大きく踏み込んだ蛇ノ目が、零次の顔を目掛け、とどめの一撃を食らわす。この間合を零次は狙っていた。転瞬、身を低く構え、長鳶を振り上げる。蛇ノ目の腕を打つ、鈍い音が響く。弾かれた刺又が空を飛んだ。
 地面に突き刺さるように落ちてきた刺又を、零次は長鳶で弾き飛ばした。場違いな合いの手や、拍手が沸き上がる。逃げるより火消喧嘩の見物を決め込んだ町人連中だ。
 腕をさすりながら唸る蛇ノ目を横目に、零次は屋根を見上げた。栄吉が、立花火消の纏持ちの足を両腕で抱え込んでいる。
「この野郎っ、離しやがれ」
 纏を振り回しながら、立花火消が喚く。栄吉は懸命の形相で体を反転させた。纏持ちが横ざまに倒れる。
「離せったら。てめえも落っこちるのがわかんねえのかっ」
「構わねえよ。若頭の命は絶待なんだよっ」
 栄吉に抱き込まれるようにして、纏持ちが屋根を転がり始めた。立花火消の大団扇持ちが慌てて後ずさる。町人連中の喝采が、さらに勢いづく。
 零次は立花火消の一団に目を戻した。蛇ノ目から刺又を弾き飛ばした零次に、皆が愕然としている。
「来いよ」
 零次が囁く。皆が一斉に一歩、下がった。
「来いったら」
 零次が間合を詰める。立花火消は零次と蛇ノ目を交互に見ながら、また下がる。
 火龍が起こす風に煽られ、一人の半纏が大きく翻った。逃さず零次は長鳶を突き出し、半纏を絡めるように長鳶を回した。火消が顔を引き攣らせながら、大きくよろめく。
 地面に転がった火消に向けて長鳶を振り上げると同時に、蛇ノ目が横ざまから体当たりを食らわせた。互いに上下しながら、地面を転がる。
 零次は己が上になったところで片膝を立て、蛇ノ目を押さえ込んだ。膝と左腕で蛇ノ目を封じ、右手で長鳶を振り上げる。
 眦を吊り上げた蛇ノ目が、弾かれたように哄笑した。
「やれよ。やりやがれっ、だが立花家お抱えの火消を殺ったとありゃあ、てめえにも地獄の御沙汰が待ってるぜ」
 賑々しかった野次馬が、一斉に声を潜めた。
「まさか、本気でやるつもりかい」
「まずいよ。『を組』の若頭は、喧嘩の流儀を知らねえのか」
「いや、もうこれは喧嘩じゃねえよ」
 吠える蛇ノ目の脳天に、躊躇なく長鳶を振り下ろす。刹那、長鳶が止まった。
 龍が背後から、零次の長鳶の柄を両手で摑んでいる。
「兄貴、そこまでです」
「邪魔するな」
 だが龍は柄を離さない。
「蛇ノ目の野郎の言う通りでさ。何よりも親方までが、江戸払いを食らいやす。そしたら三千を超す新門一家の連中はどうなるんです」
 龍が目を、幽かに細くしている。龍がこの目をしたら、ここまでだ。零次は立ち上がり、長鳶を龍に預けたまま、背を向けた。
 立花火消連中の思いは定まったらしい。喚き散らす蛇ノ目と、転がったままの仲間の火消を立ち上がらせると、一斉に駆け出した。
 立花火消の纏持ちが栄吉と縺れ合いながら、屋根から落ちた。勝負は決まった。見上げると、類焼した百姓小屋も白い煙を上げるだけになっている。間もなく鎮火を知らせる半鐘が響くだろう。
 焼け残った百姓小屋の下で、栄吉が茫と座り込んでいる。顔は煤で真っ黒だ。
「よくやった」
 零次が声を掛けると、栄吉は慌てて立ち上がろうとして、尻餅を突いた。
「足をひねったか」
「じつはちっとばかし、おっかなかったんで腰が抜けちまったようでさ」
 龍の手を借りて立ち上がった栄吉は、照れ笑いをした。零次は纏を指した。
「次は栄吉が、消口一番を獲れ」
 栄吉がぽかんと口を開けた。
「若頭、次はって、火事を心待ちにしているみてえですぜ」
 応えずに零次は踵を返した。群がっていた野次馬は、わずかになっていた。火事と喧嘩が収まったから、ではないのだろう。
 零次が放つ殺気に、恐れをなしたのか、掛かり合いを避けたのか。
 どうでもいい。いつものことだ。
 目の前から火が消えて、ほんの少し心持が緩んだ。無事に鎮火したからではない。むしろ逆だ。火事の度に、同じことを希求する。常に身の内で燻る劫火が、火事場で爆ぜる。  
 零次の目に映るこの世に、色なんかない。すべてが冷えきった白と黒の濃淡だ。焰だけが色鮮やかに揺れ、きらめき、陶然とさえさせる。
 火消をしながら、零次の望むことは一つ。
 江戸なんかことごとく、燃え尽きちまえばいい。

(続きは本誌でお楽しみください。)