沖縄の生暖かい空気と、放置された生ゴミの臭いが、作業する部屋に充満していた。
 床どころか壁の一部さえも埋めるようにゴミが積み上げられていて、ここに人が住んでいるというのが信じ難い。部屋に入った瞬間、素直に依頼者の精神状態や健康を案じた。
「あっきさみよ、でーじだな」
 通販の段ボールや酒類の空き缶で塞がった玄関を見て、砂川さんが心の底から驚きの声を漏らす。奥を覗くと、一目では間取りが分からないほど部屋を埋め尽くすゴミに啞然とした。そこから二時間は黙々と作業をし続けただろうか。
 那覇市指定のゴミ袋に、手当たり次第周囲の物を搔き入れる。先陣を切って部屋の奥に進む先輩の金城さんが、仕分けたゴミを俺の居る玄関先に置いていく。紙ゴミに、汚れた衣類に、段ボール。俺は満杯になったゴミ袋の口を縛って、外の廊下で待機している砂川さんに渡した。この時点で可燃ゴミを二十袋以上は出しただろうか。もう一々数えていないので正確な数は覚えていない。
 袖で顔の汗を拭おうとすると、軍手にこびりついた異臭が二重のマスク越しにする。こういう現場を見越してゴム素材の軍手を装着しているものの、流石に腐った生モノや飲み物を何時間と触り続ければ素手と変わらない気持ちにもなる。
「零司、一度休憩しよう」
 外の廊下から砂川さんが声を掛けてきたので、奥の部屋にいる金城さんにも休憩だと告げる。金城さんは未だに床が見えない足元を転ばないよう気を付けながら、のそのそと俺の居る玄関の方へ戻って来た。作業をしている三人の中でも金城さんは一番太い。社名のロゴが左胸に印刷されたポロシャツはいつも通りぱつぱつで、顎髭がマスクの限られた面積では隠せずに漏れている。気を抜くとすぐ顎髭ともみあげが繫がる。
「軽トラの荷台がいっぱいになりそうだから、一回捨てて来ようね。二人とも休憩挟んで、作業は俺が居なくても始めていいからね」
 頭にバンダナを巻いた砂川さんはそう言い残し、駐車場に停めてあった軽トラに乗り込む。初夏の昼下がり、外の日差しは暑い。衛生的にも部屋の中では休めないので、俺と金城さんは駐車場の日陰に入って、砂川さんにもらった缶コーヒーを開ける。普段から愛飲しているジョージアのオリジナル缶だった。本来なら生ゴミの臭いで疲弊して気分じゃないが、キンキンに冷えていたら不思議と飲める。なんだかんだ飲み終える頃にはコーヒーの味に気分が上書きされていた。
「作業って今日だけっすよね? 全部終わりますかね」
 隣の金城さんに聞くと、金城さんは缶のプルタブを眺めながら首を傾げた。
「終わらんだろ。終わらすけど」
 依頼の内容は部屋の清掃で、今回は部屋に溜まったゴミを捨てるだけでいいと言われていた。朝の十時から作業を始めて、終了予定が十八時。ゴミ捨てだけで八時間を使う現場はあまり経験が無く、この先の作業工程に不安を覚える。俺達は沖縄に本店がある便利屋で、ゴミ屋敷の整理清掃を専門にしているわけじゃない。普段はエアコンの清掃や草刈り、引っ越しの手伝いや手の届かない場所のクリーニングなんかを行っている。ゴミ部屋の清掃は久々の依頼で、作業時間の目安も若干想像しづらい。遺品整理の依頼と似ていて、気を遣う部分も案外多い。
 部屋の住人は俺と同じ二十九歳の男性らしい。良い企業に勤めているのか、住んでいるマンションも金払いも良い方だった。ゴミの仕分け中に俺でも知ってる企業ロゴが入った書類と封筒が出て来たので、そこに勤めているなら給料はだいぶ良いだろう。ただ、その分ストレスも多いのか、私生活はボロボロの状態だった。部屋には未使用の物が多く、店舗の袋に入れられたままの新品の服の塊や、カセットコンロが無いのにカセットボンベだけが何本か転がっていたり、パソコンの周辺機器類が散らばっていたりと、衝動に任せて買ったような物が多く見受けられる。一応、それらも不要な物のリストに入っていて、こちらで買い取ったあと清掃代から差し引く予定になっていた。
 もちろん捨ててはいけない物もある。家具や、企業の書類や手帳なんかがそう。個人情報に気を遣いながら、俺と金城さんは作業を再開する。
「……金城さん。卒業証書見つけました」
 俺がゴミの隙間から引っこ抜いたそれを掲げると、隣の部屋に居た金城さんが顔を覗かせる。幸いにも見開き型の布張りのファイルには目立った傷はなく、中に入っていた卒業証書にも汚れはない。貴重品を一箇所に集めていた金城さんに渡すと、金城さんは「だぁ、内地の有名なところさ」と証書を見て声を漏らした。
「あれよ、京都大学ってよ」
「どこの京都大学ですか?」
「どこのって、京都は京都にあるさ。やーなに言ってるば」
「いや、京都なんちゃらー大学みたいな。……いや、もういいや」
「あぁ、どうかな。やっぱ俺も分からんさ。でも名前は聞いたことあるよ。できやーの学校じゃないか?」
「俺中卒っすよ。大学とか知らねぇっす」
 一人暮らしなのになぜか不必要に多い傘を束ねる。部屋を埋める大半はコンビニのレジ袋に入れられたゴミで、異臭の原因の多くがその中の食べ残しだった。日毎に買った商品のゴミを、そのまま買った時の袋にまとめているのだろう。弁当の容器や菓子パンの袋には落ちない汚れが付いていた。リサイクルに回せるものも、時間短縮の為にほとんどを可燃ゴミとしてまとめて、空いたスペースに並べて置く。依頼人側でも市指定の袋に入れて積み上げているゴミはあったが、大抵が積み上げた重みで破れ、内側からのカビでゴミ袋が汚れて劣化していたり、持ち上げると理解出来ない重みだったりした。そういうのも片っ端から新品のゴミ袋に入れ直す。
「すごい溜めてますね。どのくらいの年月でこうなったんかな」
 ゴミ屋敷の専門じゃないとは言っても、汚れた部屋の清掃依頼はちょくちょく入る。その現場でゴミを放置している人は多い。例えばゴミの収集時間が自分の生活リズムに合っていないだとか、大家や近所の人にゴミを覗かれたことがあるなど、理由は様々で、特に家族が近くにいない独り身の顧客からの依頼が多い。でも、ここまで酷い現場は本当に久しかった。
 金城さんはどこでも搔く汗を拭うと、ゴミの中から菓子の袋を剝がし取り、俺の独り言に遅れて答える。
「二年以上は溜めたんじゃないかぁ? これとか見てみ、賞味期限去年の夏ど」
「ここまで酷いのって、三年くらい前の遺品整理以来じゃないですか?」
「糸満だったか? あったなぁ、なんか……あー、そうかもなぁ」
 稀に来る仕事の中には遺品整理や、身寄りのない人が他界した後の部屋の清掃もある。金城さんと以前一緒に赴いた現場は、自殺をした四十代の男性の部屋だった。その時の仕事も今日みたいな足の踏み場もない部屋の掃除で、時が止まったような密室のカビ臭い空気を今でも覚えている。
 依頼人は故人の兄弟だった。もう何年も疎遠だったらしい。依頼人曰く、住人は自殺するような性格ではなかったらしい。元々は、綺麗好きだったとも話していた。ただ、その人を取り巻く環境が変われば性格も変わる。残されたゴミや物である程度の人物像と半生を想像してしまいながら、その仕事は二日掛けて無事に終えた。
 草臥れた布団に染みついた人の形の痕跡には呆然としたが、部屋の悲惨さを目の当たりにすれば、故人が誰にも助けを求められなかった気持ちも十分に理解できた。そう簡単に私生活を晒すことはできない。ましてや他人に見せるのが恥ずかしいと思えば思うほど、悪循環から抜け出せなくなるものだ。部屋の住人はその不安定な生活が祟って、誰にも信号を出せず孤独にこの世を去った。
 俺らの仕事は便利屋だ。誰かの困り事を解消する普段の仕事とは違い、どこか無力感が延々と残っていたのをよく覚えている。
 だからこそ今回の依頼人の部屋の状態を見ていると、反射的に連想してしまう複雑な感情があった。ただ、以前の遺品整理と違って無力感を覚えないのは、依頼人がまだ生きていて、自分から俺達のような職種の人間を頼ってくれたからだろうか。
 作業を始めて五時間が経った頃には、だいぶ部屋の床も見えてきた。貴重品の整理もあらかた済ませ、終わりが見えてきた時点で気持ちは楽になった。軽いクリーニングも依頼されていたので最後の二時間は三人で拭き掃除を行い、予定の時間までになんとか部屋を見違えるような状態にした。壁のクロスとフローリングの一部に液体が染みた跡が残っていたが、こればっかりは補修するか、張り替えるしかない。砂川さんが帰ってきた依頼人にその報告をすると、依頼人は特に気にすることなく感謝しているようだった。
 依頼人の名前は高瀬さんといって、この時に初めて顔を見た。俺よりも六、七センチは身長が高く細長い。同い年と聞いていた割に第一印象は三十代後半に見えた。顔の造形がどうと言うよりも、疲弊して覇気が無い分だけ老けて見える。まだ挨拶程度しかしていないけど、何を話したって俺みたいな人間と会話が弾まないのは直感で分かった。
「おっけい。じゃあ帰りましょー」
 砂川さんに言われ、俺は軽トラのエンジンを掛ける。俺は割と今日の仕事に達成感を覚えながら、車を出した。今回の依頼人に対しては、数多くいる客の一人という認識だった。ただ、高学歴で有名企業に勤める同い年という点では、心のどこかで意識くらいはしていたのかも知れない。可燃ゴミの仕分け中に任天堂スイッチのモンハンのパッケージを見つけた。中身は空だったけど、そのシリーズは俺も遊んだことがある。ただそれだけのことが、一瞬だけ頭を過った。
 その後、高瀬さんは一ヶ月ごとに部屋の清掃を依頼するようになる。俺はなぜか縁を感じて、今後もなるべく彼の部屋の掃除をしたいと、砂川さんに申し出ていた。

(続きは本誌でお楽しみください。)