凶事は、江戸城の内、本丸御殿から二の丸御殿へと続く、急な坂で起きた。昼が夜に移り変わってゆく、逢魔が時の出来事であった。
 梅の古木が連なる道に、猫宿の長が立ち、信じられないという顔で目を見開いていた。長は猫又の中でも、名の知られた強者だ。なのに今、そんな長の腹に深々と、小刀が突き立てられていたからだ。
 襲ってきた男が刀を引き抜くと、血が噴き出し、辺りに匂いが満ちてゆく。一瞬で、もう助からないと承知したのか、長は相手の、笠に隠された顔を睨んだ。
「こんな事をして、何になる。私は怪異の一人、猫又なのだぞ。それは承知しておろう」
 そしてだ、長ほどの力がある猫又ならば、死後、早々に輪廻の輪に乗り、また生まれ変われる。再び猫又として、この江戸に戻ってくるのだ。
 すると、笠で目の辺りを隠している男が、口の両端を引き上げ、にたりと笑った。
「ああ、そういうものだと聞いておる。詳しくは知らぬが、猫宿の長は昔、猫君という、猫又一族一の者だったようだ。その力があれば、この世へ戻るくらい、やってのけようさ」
 しかしだ。長が猫君であったのは、今生の長に生まれ変わる前の話のようだと、男は続けた。
「猫君でいる時の方が、もう一段強かったのだろう」
 だから、油断をしていたとはいえ、自分に刺されてしまったのだろうと、男は言い切った。そしてだ。
「死して輪廻転生するとなれば、たとえ長だとて、明日生まれ変わる事は出来まい」
 どんな物事にも、順序というものがあるからだ。
「それにだ、猫又はまず猫として生まれてくるそうではないか。二十年の年月の後、妖となる運命を摑んだ者だけが、猫又になるのだとか」
 つまり、いかに早く生まれ変わろうとも、長は二十歳になるまで、猫又にすらなれない。長が今、備えているような力は、長く得られないわけだ。
「ならばこの後、長を失った猫又達は、力を落とし、ぐっと弱き妖に成り下がる。その間に、わしが猫又達を支配し、手下として使うことにしよう」
 猫又達は人でないのに、小賢しいゆえ、結構戦力になる。ならば使うまでだと、男は長へ告げた。
「猫又を支配する? 己の為に使う? お主、何をする気なのだ。どんな事を、望んでいるのか」
 問われたが、男は首を横に振った。
「もう死ぬ者が、そんな事を知って何になる。それに冥土の土産として、事情を語ってやるほど、わしは優しくない」
 さっさとあの世へ行けと、男は言ってくる。そして生まれ変わっても、自分は長のことを必ず見つけ出し、早々にまた、輪廻の輪に乗せると言ってきた。
「ただの猫なら、あの世へ送るのも容易かろう。何度でも葬ってやるわ」
 長が力尽きて、二度と生まれ変わる事が出来なくなるまで。つまり、こうして長を殺すのは、無駄ではないと男は語ったのだ。
 長が、傷口から出る血を押さえつつ、男を睨んだ。
「お主の企みは承知した。ならば今度は、私の言葉を聞かせてやろう」
 長は猫又として占術を得意とし、明日を語る。猫又が得る力は様々だが、一見派手ではないが、この力こそ、一部の猫又が持つ、桁の外れた能力であった。
「そうだな、お主は今日ここで私を殺す。ああ、私は助からないだろう」
 だが。長は、にっと笑った。
「その殺し故に、今度は己が殺される。意のままにするといった猫又に、反対に討ち取られるのだ」
「……ほう」
 長は血を流しつつ、己はかつての生で、確かに猫君と呼ばれていたと話しだした。しかしだ。
「私は猫又一族で、最初の猫君ではなかった。そして今生、猫君を名乗ってもおらぬ」
 長はここで、己の死という凶事が、ある明日を示してきたと、破顔一笑する。
「見えたのだ。この危機の中、猫又一族を守る者、新たな猫君は、既にちゃんと生まれておるらしい。ああ、間違いないようだ」
 ならば猫又を狩ると言った男から、猫又達を守るのは、当代の猫君だと言った。
「江戸の町に生まれる、猫達をも守るだろう。生まれ変わった私も、守って貰えるやも知れんな」
 長はかすれ気味の、笑い声を立てた。そして新たな猫君の世代、今の猫又達は、長一人を失ったくらいで人に屈する程、弱くはないと続けたのだ。
「私一人を、ここでだまし討ちにしたところで、どうにもならぬと、直ぐに分かる筈だ。そうだろう?」
 長と男がにらみ合った、その時だ。長が一寸、戸惑うような顔で、男の上にある空を見上げたのだ。そして血にまみれた腹を押さえ、僅かによろめきつつ、つぶやく。
「はて、また何か見えるぞ。新しい数が、空の向こうにあらわれてきた。七? 何故だ、そんな事は考えていなかった」
「七? 何の事だ?」
 この言葉には戸惑い、男が問う。しかし長はよろめくばかりで、もう返事などしない。大きく身を傾けると、二歩、三歩と、今にも倒れそうな様子でふらつきだしている。
 そして。
 一瞬の後、長の首玉が錫杖に変わった。長は、男と激しく打ち合っていた。
 正面から錫杖を打ち込む。刀が足をなぎ払う。それを杖が受ける。今にも死にそうな様子が冗談であったかのように、立ち並ぶ梅の木の間で、二人は、恐ろしい速さの技を繰り広げた。
 長の錫杖は数多の輪を付けており、それが触れあうと、音は矢となって、相手の身に放たれていく。首玉が生み出す特別な武器は、生きるか死ぬかを賭けて戦っていた戦国の世、猫又達を守った強烈な品であった。
「くそっ、この化け物がっ」
 声が響いた途端、錫杖の一撃が、男の刀を折っていた。
 だが、それと同時に、長の首からも血が流れ出す。男は、己の小刀と折れた刀の二刀流で、長を斬りつけていたのだ。
 坂道と梅の木に血が飛び散り、今度こそ長の体が、大きく傾いてしまった。長は、鉄をはめ込んだ錫杖の柄で己を支えたが、大きく身が揺らぐ。ただ足で踏ん張り、かろうじて倒れはしなかった。
 だが、しかし。
 男がその体を、思い切り蹴飛ばした。長の腹からまた血が溢れ……ゆっくり、時が半分止まったかのように静かに、長は坂へ倒れていった。その口が、何かを言おうとしていたが、しかしもう声は出てこない。
「やったか」
 男は大きく肩で息をすると、暫くその場から動こうとしなかった。ただ、男の目は直ぐに、大きく見開かれる。
 白梅の木の根元に倒れると、驚くほど早く、長の、人としての形が失われていったのだ。いくらもしない内に、長は白い、毛足の長い猫となって、地面に転がった。
 だが、その姿すらこの世には留まらず、沸き立つような光と共に、早々に形が揺らぎ、姿が薄くなっていく。
「何と、消えるのか」
 男が白い猫へ手を伸ばしたその時、既に長の姿は、地面の上になかった。気がつけば、矢で傷だらけになった男のみが、梅の木の傍らに取り残されていたのだ。
 男は一寸、ぶるりと身を震わせる。
「斬り殺された途端、消えるのか」
 やはり猫又は妖だ。男は、顔つきを険しくすると、言葉を吐き出した。
「人と共に、この世にいるべき者ではない。断じて、勝手をさせてはならぬわ」
 滅ぼさねばならない。この猫又だけでなく、全ての怪異とその仲間を滅ぼすと、梅の脇に立つ男が、かすれる声でつぶやく。
 その時だ。
 近くの木々で鳥達が、かぁーっ、ちーっ、けーっと、鋭い声で鳴き立てた。そして驚いた男が目を向けた先、木々の枝から鳥達が、一斉に飛び立つ。そしてその姿は暗くなってきた空へ、あっという間に消えていった。





 徳川の世、江戸城の中には、妖として人にも名が知られる、猫又達が暮らしていた。
 御殿の天井や床下に、こっそり潜んでいるのではない。江戸城の主の許しを得て、人では入る事の出来ない場所に、猫宿という学び舎を建てていたのだ。
 ただ江戸城は、全ての猫又達にとって学ぶ場であるだけでなく、卒業していく場所でもあった。
 猫宿に住み着いている一人前の猫又は、猫宿の長をはじめ、十二人ほどの師匠と、宿を支える裏方達だけなのだ。ほとんどの猫又達は、生徒として猫宿で学び、猫又として暮らす力を得ると、それぞれの里である陣へ戻っていった。
 金目銀目のみかんは、友で長毛のぽん太と共に、祭陣から来ている。白花の花陣、鞠姫の姫陣、武陣、黄金陣、学陣など、猫又には六つの陣があった。そして師匠達は学び舎で、当然のこととして、ある秘密を語った。
「猫又の陣は、一見仲良くはしているものの、人材と領地の奪い合いを、常に続けてきた。だから猫又の陣は、以前は五つだったのが、今は一つ増えているんだ」
 猫術の師、和楽師匠によると、陣同士は今も奪い合いをする故、領地の大きさと猫又の数は、変わっているという。
「猫又達は仲が良くなったり、争ったりしているわけだ。化ける事が出来るゆえ、人とも近しい。姫陣が出来た時など、人がその誕生に、一枚嚙んでいたな」
 ただ今は人との間に、大きな揉め事などないと、和楽は言い切る。
「我らのことは、絵物語に出てくる空言だと思っている人も、多いくらいだ」
 そして和楽は生徒らへ、こうも語った。
「だが陣同士に争いがあるからこそ、猫又になったばかりの時期に、全ての猫又達が揃う学び舎で学ぶ事は大事なんだ。要らぬ考えを吹き込まれる前に、猫宿の内で六陣の猫又達が親しみ、友を見つけることが出来るからね」
 この猫宿があるゆえに、長年、陣を越えた猫又の付き合いが続いてきた。そして猫又として、その名が高い猫宿の長は、争いは猫又を滅ぼすだけだと考えている。
「長の考えを、忘れないで欲しい」
 その伝統の言葉によって、猫又達は長く、守られてきたのだ。
 ところが。
 ある早朝のこと。みかんとぽん太が話していると、そんな付き合いが、あっさり吹っ飛んでしまった。
 夜明けと共に、学んでいた若い猫又達が、一斉に荷物をまとめ、猫宿から出はじめた。六つあるそれぞれの陣へ、急ぎ帰れという命が、学び舎の生徒達へ届いたのだ。
 猫宿の内に噂話が広がり、猫又の生徒達が事情を確かめあっている。
「みゃんっ、何で陣は、生徒達を呼び戻すの?」
 みかんが、廊下で知った顔に問うたが、その事情は生徒も分かっていない。とにかく帰ってこいと、里にいる一番近い縁者の、兄者から文が来たらしい。
「話は、陣へ帰ってからするって事だった。舟を城の周りの堀川へ回すから、猫宿の生徒達は、乗り遅れないようにしろと言われてるんだ。どの陣も、同じだと思ってたけど」
 祭陣のみかん達は、その知らせを受け取っていないのかと、反対に問われてしまった。
「うん、うちの陣からも知らせがあったな。ただ……」
 みかん達の元へは、他の知らせも届いてたのだ。だが、それを言えずにいる間に、知り合いは、舟を待たせているからと言って離れていった。猫宿の内に留まっている生徒達は、どんどんと数を減らしていたのだ。
 ただ、こういう時ですら、ぽん太の話し方は、のんびりとしている。
「みかん、皆が、大きな荷を抱えて行くよ。あんなに荷を載せたら、舟が沈みそうだ」
 するとその時、おなご達の部屋の方から、同じ二年生の白花や鞠姫が、大きな風呂敷包みを抱え走ってきた。
「男子の宿の方は、結構な騒ぎになってたのね。もっと早く来られれば良かったけど、どうにも宿から出づらかったの」
 女子の宿は気味が悪いくらい静かで、皆と同じ振る舞いをしていないと、酷く目立ったらしい。
「だからあたし達、陣へ帰る子達が出て行くまで、宿で待ってたの。他の二年生の女の子は、先に行ってるわ」
 鞠姫は、どこへとは言わずに、みかんとぽん太に目配せをして、他の者がいなくなった近くの部屋へ入った。そこで四人は互いに、小さな書き付けを見せ合ったのだ。
〝二年生へ。陣から猫宿へ知らせが行ったようだが、二年生は陣へ帰る事、不可。他の生徒達が、各陣へ帰り始めたら、荷をまとめて直ぐ、富士見櫓の学び舎へ来ること〟
 文末に署名は無かったが、その見慣れた字は、猫術の師である和楽のものであった。
「これをもらったのは、やはり二年生だけみたいね。話が、思いも掛けない方へ、転がってるみたいだわ」
 四人は、静かに頷いた。


 猫又が寝泊まりする猫宿は、江戸城本丸御殿の近く、富士見多聞という長屋の内にあった。
 みかん達が、初めて猫又になって猫宿へ来た年、猫宿へ入る場所は、富士見多聞内に描かれていた絵であった。猫又達が首から下げている首玉、鍵の玉を使いその絵を開け、出入りする事が出来たのだ。
 しかし驚いた事に、猫宿への入り口は、その後時々、そろりと変わっていった。出入り口の絵は早々に消え、場所すら、勝手に移ってしまう。
 鍵の玉を使って開ける事だけは変わらなかったので、生徒達は出入り口が変わるたび、必死に探し回る事になった。妖者の猫又が集う猫宿とは、出入りする事すら修行になる場所だったのだ。
 そして今日、猫宿の出入り口から表へ出てみると、そこは何と、富士見多聞の中ですらなかった。蓮池濠沿いに立つ木の幹から、林の間へ出る格好になったみかん達は、変わりすぎる出入り口にため息をつきつつ、学び舎である富士見櫓へ急いだ。
 すると富士見櫓の入り口すら、今日は二階の屋根へ移っていて、猫又でもなければ、出入りすら難しい。それでも学び舎にある大部屋へ行くと、既に、二年生の猫又仲間、学陣の真金達や、武陣、黄金陣の黒若、吉助らの顔が揃っている。今日は皆、猫の格好のままで、二股の尻尾すら隠さずにいた。
「良かった。二年生二十人は帰らずに、皆、集まってるみたいだ」
 ぽん太がほっとした顔で言うと、学陣の真金が、不機嫌そうな顔でみかん達を見てくる。
「ここに集った事が、良い事かどうかは、分からんぞ。知ってるだろ、他の生徒達は、大急ぎで学び舎から逃れてるんだ」
 猫宿で、とんでもない事が起きているから。真金の言葉は、真実に違いなかった。
 その時だ。部屋の戸が開いて、学び舎の師匠達が、部屋へ入ってきた。みかんはその面々を見つめ、直ぐに顔を顰める。
(やっぱり、来ていない)
 すると、突然問答無用で集められたにもかかわらず、生徒達が無言で、自分達師匠へ目を向けてきたのが分かったのだろう。和楽が眉をひそめてから、一歩前へ歩み出る。そして二年生達を陣へ帰さず、学び舎へ集めた事情を、まず語った。
「猫宿の長が、亡くなった」
 衝撃の一言であった。だが二年生達は誰も、声を上げず、問いも返さない。大きくざわめいたのは師匠達で、和楽はすっと目を細め、自分達から二年生へ問いを向けた。
「長の死を、既に承知してたのか。何時、どうやって知った?」
 問われたので、ぽん太が首玉の力を、部屋の内へ放った。それは鳥の姿になると、昨夜二年生達が聞いた言葉を、天井近くで繰り返したのだ。
「長、殺された。輪廻の輪に乗った」
 殺されたのは城中と、声が続いた。

(続きは本誌でお楽しみください。)