それはちいさな悲鳴だった。
土屋高志は手を止め、耳を澄ませた。
隣の敷地の方角、のような気がするが定かではない。ドウダンツツジの生け垣が途切れたところから、傾きかけた古い空き家と草ぼうぼうの庭が見える。
高志がいま一人で外構の工事をしているのは竣工間近の新築物件だから、その二軒を道路側から眺めた時の対比と言ったらかなりえげつない。数日前に進捗状況を確認に来たこちらの施主は眉をひそめ、放火でもされたら目も当てられない、誰も住まないのなら早く更地にしてほしいと愚痴っていた。そんなことはこの土地を買う前からわかっていたんじゃないのかと、思いはしたが言わなかった。
しばらく待ってみたものの、二度は聞こえない。
陽が傾き始めている。春とはまだ名ばかりで、日陰に風が吹けば背中の汗が冷えてゾクッとする。濡れた手も冷たくてかなわない。
さっさと片付けてしまおう。明日は日曜、ようやく身体を休めることができる。
再びかがみ込み、オイル缶の中で攪拌機を洗う。プロペラにセメントがこびりついているが、固まらないうちに水に浸けておいたので汚れは落ちやすい。
ブラシで隅々までこすり、続いて左官コテと目地コテを洗い終え、他にバケツや角スコや剣スコ、鏨にハンマー、延長コードなど、道具のすべてを整理して軽トラックの荷台の定位置に積み込んだ、その時、
――みう!
ふり返った。今度こそ聞き間違えようもない。あの声は子猫、それもおそらく乳吞み児だ。
みう。
み、みう。
みう。
かぼそい、小鳥の雛を思わせる声が、いくらかの間を置いては響く。
生け垣を迂回しかけた高志は、しかし、危うくこらえて踏みとどまった。
覗きに行って、それでどうしようというのだ。きっとあの古家には野良の母猫が棲みついているのだろう。その腹の下で今、兄弟姉妹の何匹かがひしめき合い、よく出る乳首を奪い合っているのだろう。そっとしておけばいい。自分にできることなど、どうせ何もない。
――みゅーう!
絶叫のような鋭い一声を最後に、鳴き声がぱたりと止んだ。
一分。
風が、荷台を覆うシートをふくらませる。
……二分。
垣根の向こう、忘れられた水仙が香る。
…………三分。
足を踏み出した。
◆
ウグイスはいつ鳴き始めるだろうか。頭上遥かな木々の梢越し、夕暮れの陽射しが柔らかく落ちてきて、長靴の足先を温めてくれる。
真田深雪は、手の甲で汗を拭った。
建物へと続く煉瓦のアプローチまわりの雪が、完全に溶けてなくなったのが先週のこと。重みで地面にへばりついた枯れ草や、去年の晩秋に掃ききれなかった落ち葉などを、竹の熊手でせっせと集めているうちに暑くなって、フリースのベストを脱ぎ、カーディガンを脱ぎ、シャツの袖をまくりあげたのだがまだ暑い。冬の間は陽が傾くととたんに耳が冷たくなったものだけれど、もうそんなことはないし、こうして作業中に息が切れても肺の中が痛くならない。半年ぶりに、ようやく寒さから解放されつつある。
信州でもとくに標高の高いこのあたりでは、九月の終わりになるとストーブを焚き、十一月のうちにはもう雪が舞う。年が明け、東京ほか各地で桜が咲いても、ここでは四月末にドカ雪が降り積もることもある。冬用タイヤは念のため、ゴールデンウィークが明けるまでは履いておくのが賢明だ。
それでも深雪は、四季の中で冬がいちばん好きだった。冬生まれだからというだけではない。一面の銀世界と、自分の息遣いしか聞こえないほどの静けさこそが、この土地で味わえる最高の贅沢だと感じる。
隣町の刈泉が有名な別荘地なので、とくに夏のシーズン中は全国から観光客が押し寄せ、とばっちりでこの付近の抜け道までが渋滞するほどだが、真冬になると一転、あたりは閑散とする。たまにスキー客のレンタカーが目につく程度で、ほかは地元の車だけになり、格段に過ごしやすくなるのだ。もとより人混みが得意ではない。春の暖かさは嬉しいけれど、またあの喧噪が戻ってくるのかと思うと、それだけは気鬱だった。
灰色がかった煉瓦がなだらかに湾曲していった先には、木製のベンチがあり、パンジーの植わった大きな樽鉢が左右シンメトリーに置かれ、そしてその向こうに、淡いセージグリーンに塗られた横板張りの建物がある。深雪の勤め先、『エルザ動物クリニック』――数千坪にも及ぶ周囲の森を含めて、院長である北川梓の持ちものだ。
子どもの頃から動物好きだった院長は中学時代、学校の図書館でジョイ・アダムソンが自らの体験をもとに書いた『野生のエルザ』を借りて読み、たちまち夢中になった。父親にせがんで同作の映画版VHSビデオを買ってもらったほどで、それらがのちに獣医師の道を志すきっかけになった――というのが、クリニックの名前の由来らしい。
深雪は、その本も映画も知らない。発売当初からベストセラーになり、映画の後にはテレビドラマ版まで作られて日本でも放送されたそうだ。なんでも、母親を亡くしたライオンの子を引き取って育てたアメリカ人の狩猟監査官夫妻が、成長したその牝ライオンを野生に戻そうとする道のりを描いた実話なのだという。
いつだったか院長は真顔で言った。
〈本当はアフリカでアダムソン夫妻みたいな仕事をしてみたかったんだけどね。よく考えたら狩猟監査官の夫なんてそうそう見つからないし、それより自分が獣医になるほうが早いかと思って〉
ちょうど一年前、つまり『エルザ動物クリニック』が隣の刈泉町からここへ移転してきたばかりの頃、〈経理事務・受付スタッフ募集〉の情報を見て面接を受けに来た深雪は、その日のうちに採用の連絡をもらい、就職を決めた。それまでの二十五年間の半生をふり返っても、あれほど迷いも曇りもなく、何かをきっぱりと決断したのは初めてだった
が、当時はまだ実家で暮らしていたこともあり、母親からはずいぶん心配された。
〈人間関係で失敗したから、今度は動物相手の仕事を選んだってわけ?〉
そんな単純なことではないのだと、言おうとしたが聞いてもらえなかった。
〈だいたいそんな山奥で動物病院なんて、商売として成り立つのかしら。すぐに潰れちゃったらどうするのよ〉
〈商売って……〉
〈あら何言ってるの、商売でしょう? 慈善事業じゃないんだから〉
それはそうだけど、と深雪は口ごもった。命相手の仕事を商売と言い切られることには違和感があった。
〈立地なんてあんまり関係ないと思う〉安心させようと、微笑んで答えた。〈院長先生を頼って、遠くからわざわざ通ってくる飼い主さんもいるくらいだし〉
〈そうみたいね。評判が悪くないのは知ってるわよ、母さん気になって、ネットの口コミとか調べたんだから。でも、前にいた雇われの先生が辞めちゃって、今じゃ獣医は院長先生だけだっていうじゃないの。ほかには助手が二人きり。そんなところに、たとえ事務職でも勤めたりして大丈夫なの? 毎日遅くまでこき使われて、またあなた、身体も心も壊れちゃうんじゃない? いい、よく考えなさいよ深雪。いくら人付き合いが苦手だからって、人が少なきゃうまくやれるわけじゃないんだからね。逆に少人数の職場のほうが人間関係はこじれやすいし、いざという時にも逃げ場がなくてしんどいのよ。ねえ、聞いてるの、深雪。深雪ったら〉
最初の給料を受け取ると同時に、母の制止を振り払うようにして実家を出た。部屋を借りるには前職で得た貯金を切り崩さなくてはならなかったが、もう耐えられなかった。ふだんほとんどものを言わない父親が、やはり黙って保証人になってくれた。
初めての独り暮らしは慣れないことばかりで、各種手続きのためにそれこそ大勢の人と関わらなくてはならなかったものの、精神的には格段に楽になった。誰にも干渉されずに食事をし、気の向いたタイミングで入浴し、眠くなるまで好きな本を読んで起きていられるという、ただそれだけでこんなに気持ちが安定するとは知らなかった。
以来、今に至るまで、『エルザ動物クリニック』のスタッフはずっと四人のまま、メンバーも変わらない。全員が女性で、二十六になった深雪がいちばん年下だ。
週のうち土日を含む三日が休診日、それ以外の日も午後は手術などの必要な処置に充てている。獣医師は院長一人、ほかに動物看護師二人、事務方一人という少人数で切り回してゆくにはそれでぎりぎりだった。
まくりあげたシャツの袖をおろし、熊手を片付けて、かき集めた落ち葉と枯れ草を袋に詰め、軽トラックの荷台に積みあげる。燃えるゴミになど出さない。これらはすべて、斜面下の畑へ運んでいって堆肥作りに役立てる。
汗が冷えるとさすがに少し寒くなってきた。今日はこれくらいにしておこうと、ベンチの上に脱いであった上着類をかかえて入口のドアを開けた、ちょうどその時だ。
電話のベルが鳴った。深雪がドアを後ろ手に閉めている間に二度鳴って、自動で留守番電話に切り替わる。
〈はい、こちら『エルザ動物クリニック』です。水曜、土曜、日曜は休診日。診療は、それ以外の平日の午前中に行っています。御用のある方は、ピーッという音の後にお話し下さい〉
信号音が鳴り終わるなり、
(もしもし)
鼻にかかった女性の声が言った。
(ねえ、休診日だからってほんとに誰もいないの? こちら緊急なんですけど。もしもし?)
年の頃は四、五十代だろうか。不機嫌な声がクリニック内に響き渡り、入院中の犬たちが吠え始めると、奥の処置室から看護師の柳沢雅美が出てきた。こちらの視線を受け止め、ひとつ頷いてよこす。
深雪は電話を取った。雅美にも内容が伝わるよう、スピーカー通話をオンにする。
「お待たせしました、『エルザ動物クリニック』受付の真田です。いかがされましたか?」
(いるなら早く出なさいよ)
「すみません」逆らわずに謝る。「それで、緊急とおっしゃいますのは、」
(ミーナちゃんが急にちっとも食べなくなっちゃったの)
自分は名乗りもしないまま、マダムが続けた。
「ワンちゃんですか、猫ちゃんですか」
(ミニチュアダックス、三歳。昨日東京から車で来て、いま刈泉の別荘にいるんだけど)
「食べなくなったのはいつからですか?」
(ついさっきよ。だからこうやって慌てて電話してるんじゃないの)
そうでしたか、すぐ気づかれてよかったですね、と調子を合わせながら、ちょっと大変そうな飼い主さんだな、と深雪は思う。
「今朝はどんな様子でした?」
(いつもどおり起きてお散歩にも行ったし、元気そうだった。でもそのあとは日向で寝そべってばっかりで、せっかくあたしが呼んでも無視するのよ)
「朝はふだんのとおりに食べたんですね?」
(朝も昼もふつうに食べたわよ。でも、いつもだったら三時頃には、おやつをちょうだいちょうだいって自分からおねだりするほどなのに、呼んでもろくに返事しないで寝てばっかりなんて、おかしいと思わない?)
つまり、急にちっとも食べなくなっちゃった、というのはおやつのことか。
(ねえ、どこが悪いのかあなたでわかる? ああ、受付の人じゃ無理よね、早いとこ獣医に代わってくれない?)
「……申し訳ありませんが、」
深雪は、言葉を句切って言った。
「本日、院長は不在でして」
(なんですって?)
マダムの声が怒気を帯びる。
(どうしてこんな大事な時にいないのよ)
「すみません、今朝から東京での学会に出席しておりまして……留守電でもお伝えしましたとおり、土曜は休診日ですので」
(ちょっと待ちなさいよ。だって、病院でしょ? 急患が出たらどうする気?)
深雪は、腕組みをして聞いている雅美と、黙って視線を交わした。
たとえばふだんから『エルザ』で診ている患畜の容態が急変したとあれば、院長は携帯に直接連絡をもらい、できる限りの対処をしている。
しかし、ここばかりでなくどこの動物病院も、いつ運び込まれるかわからない急患に備えて二十四時間ずっと待機しているわけではない。休息と睡眠は、獣医師にも看護スタッフにも、そして〈受付の人〉にも必要だ、という当たり前のことがわかってもらえないケースがたまにある。たまに、ではないかもしれない。
「ミーナちゃんのこと、ご心配ですよね」できるだけカドが立たないよう、穏やかな物言いを心がける。「診療時間内であれば院長が診させていただきますし、どうしても今日これからということであれば、別の病院をご紹介することもできますが……」
いかがされますか、と訊くより先に、
(なんなのそれ、ふざけてるの?)
先方の鼻声が裏返り、跳ね上がった。
(おたくの対応が最悪だったって、ネットの口コミに書いてやるから!)
ぎゅうっ、と心臓の縮む心地がした。
まただ。ネットの口コミ。なんて嫌な言葉だろう。
「ご要望に沿えなくて申し訳ありません」伝えるべきことだけは伝えておかなくてはならない。「週明け月曜日でしたら朝九時から診療していますので、もしミーナちゃんの食欲不振が続くようでしたら、どうぞお連れ下さい。予約もお取りいただけますけれど、いかがいたしましょうか」
(もう結構よ! 失礼な!)
ブツッ! と通話が切られた。
深雪も、のろのろと子機を耳から離し、台に戻す。
「お疲れさま」
と、雅美がため息まじりに言った。
「なかなかの飼い主さんだったねえ」
「……はい」
「深雪ちゃん、なんにも気にする必要ないからね。よくやってくれたよ」
足もとに寄っていった、入院中の太った三毛猫〈お嬢〉を抱きあげた雅美が、ひょいと足先を伸ばして灯油ファンヒーターのスイッチを入れる。この時間になると屋内もさすがに冷えてくる。
「東京からこっちへ来たの、つい昨日だって言うんでしょ? 人間だって二百キロも車で移動すれば疲れるのに、ちっちゃな子はなおさらだよ。日向ぼっこでウトウトしてるとこ呼ばれたって、そりゃ知らんぷりもするよ、ねえ?」
「ですよね」ようやく深雪も返す。
「……よかった」
「何が?」
「雅美さんが同じ考えで。ホッとしました」
「院長だって同じこと言うって。いや、はるかに容赦ないと思うね」
とはいえ、生きもの相手に絶対と言い切れることはない。万一、月曜日に今の飼い主が現れた場合に備え、深雪は伝達用のメモを書きつけ、書類棚に囲まれたスタッフルームの連絡板に貼った。出勤してきた者は必ずここを確認することになっている。
セキセイインコをかたどったマグネットでメモを留めながら、深雪は思わず目を眇めた。今日の終わりを彩る陽射しが西側の窓から入ってきて、強烈にまぶしい。
クリニック全体は東西に長い建物で、南向きの窓が広い。中央の入口を入ってすぐが受付カウンター、その左手が待合室と小さなドッグラン、その奥が入院室。
反対側、受付の右手には通路をはさんで手術室と診察室が並んでおり、スタッフルームは受付カウンターの真後ろ、建物の中心にあって入院室とは続き間のようになっている。
まるまる肥えた〈お嬢〉を床に下ろした雅美が、缶詰を開けてやる。血糖値の急上昇を抑えるよう配慮されたウェットフードだ。陽に灼けた手がてきぱきと動くのを眺めているのは気持ちがいい。三毛猫は待ちきれずにその場で足踏みをしながら手もとを見上げて鳴き、雅美もいちいち返事をしながら、ステンレスのボウルに移したフードを置いてやる。たちまち顔をつっこんで食べ始めた。
「そういえば梓さん、帰りにこっち寄るんだっけ?」
「はい、書類とか戻すついでに様子を見に来るって」
雅美だけは、周りにスタッフしかいない時に限ってだが、院長のことを下の名前で呼ぶことがある。古くからの知り合いと聞いているだけで、深雪はあまり詳しい経緯までは知らない。
「何時頃だか聞いてる?」
「新幹線が五時半に笹平に着くので、たぶんもうそろそろ……」
「ま、あの人がちゃんと乗れてたら、の話だけどね」
二人して笑った。
「お茶淹れますね」
「いいんだよ、深雪ちゃん、待ってなくたって」
「いえ、まだちょっとやることありますから」
「そう? じゃ、私も梓さんの顔見てから帰ろっかな。ハーブティーが飲みたい」
魚臭くなった手を壁際のシンクで洗った雅美は、肩までの髪をゴムで一つに縛り直した。物ごころついて以来ずっとショートヘアの深雪を除いて、他の三人が似たりよったりの髪型なのは、もちろんおしゃれのためではない。少し長めのほうが美容院へ通う手間を省けるからだ。
「ねえ、疲れとか、溜めちゃってない?」
ふいに言われて、深雪はティーバッグをぶら下げたままふり向いた。
「明日の日曜は家でゆっくり休みな。こっちは梓さんと私でやるから」
「……ありがとうございます」
「なにせ四人しかいないんだからさ、自由のきく人間が動けばいいんだよ」
院長の北川梓が三十九歳。自宅はこの森のいちばん奥まった場所にあるので、愛車のジープチェロキーで〈通勤〉している。
二人いる動物看護師のうち、年長の柳沢雅美が三十七歳。ふだんの会話に、その時々で付き合っている恋人が登場することもあるが、本人に言わせれば、「独り身に慣れちゃうと他人となんか暮らせない」のだそうだ。深雪にとっても他人事ではない。
いっぽう、もう一人の看護師・萩原絵里香は三十一歳。共働きで、幼稚園に通う息子がいるため午後四時には帰らなくてはならないし、週末の休診日は基本的に休みだ。絵里香は時々すまなそうにするけれども、そんなことに不満を持つ者は誰もいない。
「絵里ちゃんとこの子どもだって、いつまでも幼稚園児じゃないんだしさ」雅美がさばさばと言う。「その時その時、できる者が臨機応変に動けばいいの。そう思わない?」
「思います」
診療日にはBGMを小さく流しているが、今日などは外の風の音しか聞こえない。梢の高いところをごうごうと揺らして吹く風だ。
それ以外はひどく静か……などと感じるのは、患畜たちのたてる物音や吠え声に耳がばかになっているからであって、実際のクリニック内はたいていおそろしくにぎやかだ。休診日であろうと、入院中の患畜をいちいち自宅に帰すわけにはいかない。一頭でもいれば誰かが面倒を見に来なくてはならない。先ほどあのマダムが留守番電話に向かって、本当に誰もいないのかとわめいたのもあながち的はずれではなかったということだ。
各ケージの底に敷いたシートを取り換え、排泄物を確認し、水を新鮮なものに替え、それぞれの体格や症状に合わせたフードをやり、容態や怪我の治り具合を見て薬を飲ませ、塗り、包帯を替えたり、必要ならば麻痺した四肢のマッサージをしたり、毛刈りをしたり、血中酸素濃度を高めるため酸素室に入れたり、超音波式のネブライザーで霧状にした薬液を吸入させたりなどする。元気のある子は適度な運動が必要なので、軽く散歩させたり遊んでやったりもする。そうしてそのすべてを記録に残す。間違いのない診療をするために必要なことだった。
熱いマグカップを、雅美が「ありがと」と受け取る。
「だけどさ、深雪ちゃん」
「はい」
「頑張るのはいいけど、限界を超えてまで頑張り過ぎちゃ駄目だからね」
ぎょっとなった。自分の来し方など、院長にさえ詳しくは打ち明けていないのに、言い当てられたような心地がする。
「私も、無理な時は無理ぃーって正直に言うからさ。そういう時は深雪ちゃんのこと頼るから、深雪ちゃんも気にしないで頼ってよね」
「……はい」
「ほんとだよ。わかった?」
まっすぐ目を見て言われた。
「はい、わかりました」
「よし」
奥のケージから、吠え声が響く。柴犬の〈きなこ〉の声だ。
雅美が飲みかけのカップを置いて見に行き、
「わー、でっかいウンチ出たねえ! えらい、えらい」
全身全霊で褒めちぎる。
やがてシートにきっちりくるんだ塊を持ってきて処理箱に捨てた彼女が、そこに立てかけてある箒に気づくなり、プッと噴き出した。
「どうしました?」
「いやさ、今朝のあれ、思い出しちゃって」
ああ、と応えるなり、深雪もたまらず噴き出す。
「あれは院長があんまりでしたよねえ」
「まったくだよ。言ってることとやってることが違うんだもん、酷いよね」
「化けて出ないといいですけど」
「何の話?」
急に声がして、二人はふり返った。
いつ入ってきたものか、薄手のコート姿の院長が立っている。猫のように足音をたてないのはいつものことだが、本人曰く、「他意はない」らしい。
「お帰りなさい」
「ただいま。ううう。外、さぶ」
ぼそっとこぼす背後で、西陽もとうに力を失っている。雅美が壁のスイッチに手を伸ばすと、天井の明かりが次々に灯ってゆく。
急いで立って、院長のぶんもハーブティーを淹れながら、
「そんな薄着だからですよ」
深雪は親身に諭した。いくらかましになったとはいえ、東京の気温より七、八度は低いはずだ。
「持ってったストールは?」
「……あー、あったな」
「『あったな』って、またどっかに忘れてきたんですか!」
雅美が素っ頓狂な声を出す。仕事の時は超然として見える院長だが、プライベートでは案外と脇が甘い。
「で、酷いって何が」マグカップを受け取り、ひとくち啜ると院長は言った。「私の噂してただろ」
地獄耳もどこか猫めいている。喋り方は、これがデフォルトだ。
「今朝のヘビですよ」
雅美が言った。
「あれか。けっこう大きかったな」
あんなところに長々と寝ないでもらいたいな、と言いながらファンヒーターのそばへ行き、かがんで手をかざす。コートの裾が床につくのもおかまいなしだ。
今朝、院長が、学会に必要だというファイルを取りにここへ立ち寄った時だ。玄関前の煉瓦のアプローチ、パンジーの植わった樽と樽の間をつなぐように、一メートルほどもある灰緑色のアオダイショウが横たわっていた。
深雪や雅美が出勤してきた時には影も形もなかったのだから、自力でここまで這ってきたのは間違いないのに、枝の先でつついてみても、凍えているのか緩慢にしか動かない。爬虫類嫌いの深雪と雅美が鳥肌を立てながら戦々恐々としていると、院長は庭用の大きな竹箒を持ってきて、その柄でヘビの胴体を真ん中からダラリとすくいあげ、まるでバットを振るかのような動きで遠くの草むらへと放り投げたのだった。
よそ行きのスーツに、足もとは安全運転のためのオニツカタイガー。力いっぱい振り抜いた竹箒と、見事な放物線を描いて飛んでいったヘビの残像。
「あんたたちが苦手だと言うから努力したのに……」まだ手をかざしながらブツブツ言う。「なんでそこまで言われなきゃいけないんだ」
「だって梓さん、ヘビ診るって」
「は?」
「ついこないだですよ。あの、フェレット連れてきた飼い主さん。帰り際に『もしかしてヘビも診てもらえますか』って訊かれた時、言ったじゃないですか。『専門ではないけど診ますよ』って」
「ああ……覚えてるけど、それが何」
「聞いてたんですよ、きっと」
「誰が」
「今朝のヘビですってば。そのへんの草むらで聞いてて、『具合悪かったけどこれで助かったぜ』とか思ってせっかく診てもらいに来たら、いきなり棒でひっかけて投げ飛ばされちゃって『あぁーれえぇぇーー』みたいな」
「……何だそりゃ」
「いや、絶対そうにきまってますって。ね、酷いよね深雪ちゃん」
「可哀想なヘビ」深雪も乗った。「あんなにきっぱり、診るっておっしゃったのにね」
「そんな……」
茫然と呟き、うつむいた院長が、ややあって「ぶふ」と噴き出した。喜怒哀楽の見えにくい彼女にしてはめずらしい。
嬉しくなった深雪がくすくす笑いだし、次いで雅美が盛大にげらげらと笑い転げる。女三人、可哀想だの、信じられないだの、悪気はなかっただのと言い合っているのを、奥のケージから〈きなこ〉が首をかしげながら見守り、〈お嬢〉はうさんくさそうな迷惑顔で眺めている。
――少人数の職場のほうが人間関係はこじれやすい。
今の自分を母に見せてやりたい、と深雪は思う。
――いざという時にも逃げ場がなくてしんどい。
あの時言われた言葉は、他の誰か、別のどこかには当てはまるかもしれないが、少なくとも〈今・ここ〉にいる自分には当てはまらない。そのことが、胸が苦しくなるほど嬉しい。
「ああ、もう」
笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を、親指の付け根で拭った拍子に、入口のドアの開く音がした。冷たい空気が束になって吹き込み、感知したファンヒーターの火力が勝手にゴォーッと強まる。
「ごめんください」
男の声だ。
「私、出ますね。……はぁーい」
深雪は、受付との間を仕切るタペストリーをくぐって応対に出た。
所在なげに立っていたのは、職人ふうの男だった。衿にボアのついた紺のジャンパー、下はグレーのだぶだぶのスボンを穿いて、足もとは地下足袋。
「すいません、いきなり」
ぼそぼそとした低い声で、男は言った。腹でも痛むのか、両手で抱えるように押さえている。
「予約とかしてないんスけど……。あ、自分、土屋といいます」
――土屋。
とたんに心臓がちぢこまった。
このへんには多い名前だ。よく会う飼い主さんの中にも二人いる。そんなことはわかっているのに、真正面に立つ男の目を見ながら、声が出ない。
固まってしまった深雪を、相手が怪訝そうに見る。あっさりした顔立ちの中で、太く濃い眉が目立つ。圧を感じるのは身体が大きいせいだ。それだけだ。
「きょ……今日は……」やっとのことで声を絞り出すと、深雪は吸えない息を懸命に吸い込んだ。「休診日で」
えっ、と男の眉が曇る。
「そうでしたか……。それは失礼しました」
うーん弱ったな、と唸った男が、それでもぺこりと頭を下げ、踵を返そうとする。
「あの、」思わず呼び止めた。「い……いかがされました?」
再びこちらを向いた彼は、わずかに迷ったのち、上着のジッパーをチリリと下ろした。お腹のあたりまで下ろしたところで、白っぽい綿毛のようなものが覗いて見えた。さらに注意深く、綿毛をはさまないようにして下ろしてゆく。
「やっ……ちっちゃ!」
深雪は目を瞠った。子猫だとわかったとたん、男に対して身構える気持ちが薄れた。
節の高い指が、冗談のように小さなその体をそっとつかみ出す。全身真っ白だが、片方のまぶたは黒っぽい目脂でくっつき、開いている側も瞳に膜がかかっていて薄青い。生まれてまだ一週間たつかどうか。それにしても動きが緩慢だ。
「さっき、ほんの一時間ばかり前に見つけたんです」
言いながら、土屋はジャンパーのポケットから缶コーヒーを取り出し、子猫の体にくっつけた。
「え、それ」
「〈あったか〜い〉やつ」
ここまでのカイロ代わりにしてきたようだ。
「母親はたぶん野良だと思うんスけど、自分が見つけた時にはもう冷たくなってて。他のきょうだい四匹も駄目で、なんとか息をしてたのはこいつだけで」
矢継ぎ早な説明を、
「ちょっといいですか」
と遮り、カウンターの外へ出ると、深雪は彼の差し出してよこす猫に触った。
毛は乾いているが、小鳥ほどの体は小刻みに震えている。耳の先も冷たいし、呼吸も遅い。低体温症だ。温めてもらっていたからこれくらいで済んでいるのだろうが、まだ全然足りない。このままではすぐ死んでしまう。
深雪は首を振り向け、奥へ向かって叫んだ。
「院長、お願いします!」
(続きは本誌でお楽しみください。)