プロローグ


 地下鉄駅の改札を出ると、目の前の壁にポスターが貼ってあった。
「爆・速・回・転」「真夏の氷上決戦」などという文字が並んでいる。八人の、宝塚みたいな化粧をした男たちが様々なポーズでヨーヨーと思しきものを持ち、この作品のトレードマーク(?)らしい渦巻きみたいなマークの周囲に、放射状に配置されている。
 僕はしばらくそれを眺めて――関心を持ったわけではなく、このあと少しは話題にしなければならないだろうから――、そのあと、構内のトイレに入った。用は足さずに、鏡で自分の姿をチェックした。三十三歳、身長百六十九センチ、痩せ型の、地味な顔立ちの男の姿が映る。金曜日の仕事帰りなので紺のスーツ姿だ。額の生え際が少し後退しているように見え、いや気のせいだ、と焦りながら髪をいじる。最後に、鞄を開けて、鮮やかなブルーの小箱がちゃんと入っていることをたしかめた。今夜は特別な夜になる。
 地上に出た。午後八時過ぎ、街にはすでに灯りが瞬いている。九月の半ばで日中は三十度近くまで気温が上がり、夜になっても蒸し暑い。僕は上着を脱いで脇に抱え、数歩歩いてから、やっぱりそうしたほうがいいような気がして、上着を羽織った。
 美幸は今、駅のポスターの出し物を劇場で観ている。だが、終演後の混雑の中でお互いを見つけるのは困難だから、少し離れた場所にある美術館の前で落ち合うことになっている。
 劇場もそうだが、美術館もはじめて行く場所だった。芸術には興味はなく、もっとはっきり言うなら、演劇も小説も映画もテレビドラマもゲームの類にも、人におかしく思われない程度に、多少は関心があるふりをしている、というのが僕の実情だ。
 美術館はもう閉まっていた。が、奇抜なデザインの、妙に圧迫感がある建物の前に、僕と同じくらいの年回りの男がふたり、距離を置いて立っていた。やはり待ち合わせをしているのだろう。この時間にここにいるのだから、美幸と同じ場所からやってくる女たちを待っているのかもしれない。きっとそうだ。
 YO!YO!学園。
 ヨーヨー(そう、子供のおもちゃのあのヨーヨーだ)でバトルを繰り広げる男たちの物語。最初はコミックで、それが評判になってアニメ化され、実写版の映画になり、今、美幸たちが観ているのは「2・5次元」と呼ばれているミュージカルだ。人気のあるコンテンツは、そんなふうにして進化(?)を遂げていく。広告代理店の営業という仕事柄、僕にもその程度の知識はある。美幸の「推し」は、「聖ユニコーン学園高等部一年の、霧谷ビョルン永劫」というキャラクターだ。この男たちが待っている女たち(YO!YO!学園のファンは九割が女だ)にも、それぞれの「推し」がいることだろう。そういう女を待っているという点で、僕らは共通している。
 それで、僕ら三人はなんとなく互いを盗み見ることになる。同じくらいの年回りと言ったが、男のうちのひとりは僕より年上で、もうひとりは年下だろう。スーツ姿であるところは三人とも同じ。服や靴のグレードも似たような感じだから、年収も大差ないだろう。ただ僕は今日、持っているものの中ではいちばん上等なスーツを着てきたので、それはいちばんぱりっとしている。しかしあの若いやつは、背丈が百八十近くはありそうだし、年上のほうは何か妙な落ち着きがあるというか、女を待つことにも、美術館の前に立っていることにも、慣れきっている感じがある。あいつらからは僕はどう見えているのか――自分がそのことを気にしていないような表情を、僕は作る。
 最初にあらわれたのは、年上の男の待ち人だった。女を見ると、男は見た目よりさらに年を食っているのだろうと思えた。男の妻は、もう若くない女がめかし込むときによく着ているような、細かいプリーツが入ったえんじ色のロングワンピースに、水玉模様のストールを首元に巻いていた。ごめんなさい、アンコールが長くって。駆け寄ってきた女を、男は鷹揚な笑顔で迎えた。このふたりは間違いなく夫婦だろう。ああいう雰囲気になるわけだ。というか、ならなければならない。僕は畏敬と、小さくない不安にとらわれながら、ふたりを見送った。
 次にやってきたのが美幸だった。美幸は身長がほとんど僕と同じくらいあり、女としては背が高い。体質だそうでとくにダイエットなどすることもなく痩せているが、スマートとかスレンダーとかいうよりは、貧相、という感じだ。着ているもののせいもあるかもしれない。裾に刺繡が入ったインドふうの赤いワンピースに、棒のような足を際立たせるスリムなデニム、銀色のバレエシューズ。本人としてはお洒落をしているつもりなのだろうが、どうにも垢抜けていない、ということが、ファッションに疎い僕にもわかる。ワンピースは膝下まであるのだから、デニムなんか穿かないで素足でちょっとヒールが高いサンダルでも履けばいいのに。それが僕の好みだが、もちろん、そんなことを美幸に言ったりはしない。他人に自分の好みを押しつけるなんてことを、僕はしたくない。それにファッションが垢抜けていないのは、奇抜であるよりずっといい。見た目が今ひとつでも、美幸にはほかにいいところがいくつもある。僕は美幸を気に入っているし、ちょうど同じくらい、彼女も僕を気に入っているはずだ。それが大事なことだ。
「ごめーん! お待たせ!」
「楽しかった?」
「うん、サイコーだった! 今回、席もよかったし」
「ならよかった」
 いい感じの会話を交わしながら、僕らはその場を離れる。スマートフォンをいじりながら歩いてきた女とぶつかりそうになり、思わず振り返ると、その女があの背の高い男の相手らしかった。目が大きくて髪をくるくる巻いていて、抽象柄のタイトなワンピースの胸はDカップはありそうで、あの男にとっては自慢の恋人なんだろうなと僕は思う。だが、羨ましくはならない。あの女は、僕向きじゃない(それにあのふたりは、長続きはしないだろう、という気がする)。
 僕らは歩いて、僕が予約しておいたイタリアンへ向かった。半地下にあるその店は、僕らがこれまで行ったことがある店とは段違いの洒落た佇まいで、美幸はびっくりしていた。それに僕は予約するときに、半個室のスペースのテーブル席を確保していた。ネットで調べまくり、人にも聞いて、準備をしたのだ。
「こんなお店だって知ってたら、もっとお洒落してきたのに」
「大丈夫、お洒落だよ」
「卓郎に保証されてもねえ」
「まあ、そうだな」
「なにかいいことでもあったの? それとも急にお洒落でグルメな人になったの?」
 ウェイターがやってきたので、僕らの会話は中断した。コースはお任せの一種類しかないから、悩まなくてすんだ(それもこの店を選んだ理由のひとつだった)。飲みものを聞かれ、僕は「スプマンテ」をグラスで二杯注文した。そのことにも美幸は驚いたようだった。普段なら、相談してから決めるし、たいていの場合はビールを飲むからだ。僕らふたりは酒が強くない。というか、それほど好きでもない。
 泡立つ液体が入った細いグラスがふたつ、細々したものを並べた「アミューズ」の皿とともに運ばれてきて、僕らは乾杯した。
「で、どうだったの? 今日は」
 まず僕はそう言った。
「前の役者から替わったんだろ。その……永劫役の人って」
「月岡千景くんね。うん、私は結構いいと思ったな。雰囲気出てたし、体の動きがすごくきれいで。香穂はブツブツ言っていたけど」
 香穂というのは美幸の短大時代の友人で、美幸をYO!YO!学園の世界に引き摺り込んだ張本人だ。と言っても美幸は香穂ほどにはYO!YO!学園にはまりこんでいないので、一緒に観劇しても、帰りは僕と待ち合わせすることのほうが多かった。
「香穂ちゃんの推しは、べつにいるんだろ」
「うん、それはそうなんだけど、千景くんだと世界観が違ってきちゃうとかって。前の人はハーフだったんだけど、千景くんは思いっきり日本人だしね」
「ははは」
 それからしばらく、美幸はミュージカルの感想を喋る。僕にはほとんど相槌を打つことしかできないが、目をキラキラさせていかにも楽しげな美幸を、可愛いなと思う。そう思えることは僕を安心させ、幸せにする。大ぶりに切った玉ねぎのローストや、詰め物をしたズッキーニなどの前菜が次々と運ばれてきて、僕らは、食事を楽しむことに集中する。スプマンテのグラスが空いた。
「こういうお店って、ワインはボトルで頼まなきゃだめなんじゃない?」
 美幸がひそひそと言った。
「じゃあ、そうしようよ」
「卓郎?」
 僕はソムリエと相談して――というか、ほとんど彼の言いなりになって――めちゃくちゃ高くはないが安くもない赤ワインを一本選んだ。それが僕らのグラスに注がれ、次の料理が運ばれてくると、僕はもう待てなくなった。緊張が続かなくなったとも言える。
「美幸」
 それで、僕は彼女の名前を呼んだ。
「今日がなんの日か、覚えてる?」
「え? 今日? えーと、九月八日だよね? え? わかんない。なんの日?」
「僕らがはじめて会った日」
「えーっ、そうだっけ。九月だったのは覚えてるけど……八日だっけ、そうだっけ」
 慌ててスマートフォンのカレンダーを見たりしている美幸に微笑みかけて、僕は席を立ち、ウェイターに話して、クロークから自分の鞄を持ってきた。そして鞄の中から小箱を取り出した。テーブルの上には刻んだ青い野菜を混ぜ込んだパスタの皿、水のグラス、ワイングラスがふたりぶん置かれていて、小箱をどこに置けばいいのかわからなかった。結局、僕は空中でそれを美幸のほうへ差し出した。
「受け取ってほしいんだ」
「え?」
 美幸は受け取って箱を開け、そこに収まっている指輪を見た。予算的に、ダイヤのカラットはシリーズ中一番小さいものだが、とにかくティファニーのリングだ。美幸の左手の薬指のサイズは、これもネットで調べて、眠っているときに糸を巻いて印をつけるという方法で確認した。
「え? これって……」
「結婚してほしいんだ」
 美幸は目を丸くして僕を見た。僕らは付き合って三年目だった。そろそろそういう話が出てもいい頃だと、彼女も期待していただろう。逆に言えば、僕のほうにいっこうにその気配が感じられなければ、べつの確実な相手を探す方向へと、美幸は舵を切るかもしれない。有体に言えば、美幸がYO!YO!学園に興味を持ちはじめたときから、僕の中で彼女との結婚は具体化されていった。彼女はまだ、いわゆる「推し活」にはいたっていない。ときどき舞台を観に行くだけで、僕が知るかぎりグッズを買ったり握手会に行ったりするということもない。それでも、あたらしい世界に足を踏み入れれば、あたらしい出会いだってあるだろう。YO!YO!学園に群れ集まるのは女性がほとんどだと言っても、男の姿がまったくないというわけではないし、観劇で知り合った女性を通して、男と知り合うということだって起きるだろう。僕はそれを恐れた。そして行動を早めた。
「ビックリ」
 と呟いた美幸は、僕の心理をどこまで推察しているだろうか。しかしその表情は輝いているように見えた。
「ティファニーまで行ってくれたんだあ」
「うん、がんばった」
 実際にはネットで買ったのだが、僕は頷いた。
「これ、卓郎がはめてくれる?」
「いいけど、そうしたら、美幸は俺と結婚するんだよ。そういうことにしちゃうよ」
「いいよ!」
 美幸の笑顔に、僕は嬉しくなった。そしていっそう幸福になった。結婚は、断られなかった。美幸は僕を待っていてくれた。僕らは順当に幸福になっていくのだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)