この不思議な物語を語る前に、まずは彼女を紹介しなければならないだろう。
級長戸辺風架さんのことを。
僕の上司で雇い主。ついでに片想いの相手でもある。
彼女はとっても気まぐれで、予測不能な行動派。斜め上ゆく行動力には何度もヒヤヒヤさせられた。ハンバーガーとベレー帽が大好きで、レコード、ピアス、小説、食器、万年筆に各地の絵葉書、それからガラス細工に至るまで、あらゆるものを収集したがる。
チャームポイントはとにかく笑顔で、笑うと右のほっぺにえくぼができる。食事のときの幸せそうな笑顔なんて、見ているだけでこの世界から争いがなくなるほどだ。だけど単に顔が可愛いってワケじゃない。存在自体が可愛らしいのだ。
天真爛漫、天衣無縫、才色兼備で純真無垢。それはちょっと言いすぎかもな。依頼者のためなら一生懸命だけど、僕に対しては時々ちょっと意地悪だからだ。
僕はそんな彼女に淡い恋心を抱いていた。深く知りたいって思っていた。でも少しは理解できたかな? って嬉しくなったら、するりとこの手をすり抜ける。捉えどころがちっともないのだ。
そういう人のことをなんて表現したらいいんだろう?
ああ、そうだ……。
この言葉がぴったりだ。
そう、彼女はまるで――
風のような人だった。
プロローグ めくるめくファンタジーの世界へ
水槽の中をカラフルな熱帯魚たちが悠然と泳いでいる。ゆらゆら揺れる緑の水草。鹿の角を思わせる尖った流木。大小それぞれの風山石。珊瑚礁のオブジェもある。なんて立派なアクアリウムなのだろう。それなのに、設置場所が残念だ。仏壇の隣に置いてある。最適な場所がここしかなかったのかもしれないな。
この手の水槽は横幅六〇センチのものがオーソドックスなサイズらしい。でも我が家のそれは一回り大きい九〇センチだ。はっきり言って邪魔で仕方ない。ある日突然、居間にドンと置いてあったのだ。母が最近はじめた謎の趣味だ。
とはいえ、こうしてぼんやり眺めることは嫌いじゃなかった。熱帯魚は同じ種類でも一匹一匹に個性があって、泳ぎ方や縞や斑点、色の濃淡などが様々だ。見ていてちっとも飽きることはない。
その日も僕はポテトチップスを齧りながら、水槽の中を泳ぐ魚たちを見るともなく見ていた。母が仕事で外出している日中、こんなふうにアクアリウムを眺めることが日課になっていた。
大きなあくびをひとつ。さっき起きたばかりだから、まだかなり眠い。時刻は夕方少し前。庭に面したこの部屋は、西日が射して驚くくらいに暖かい。そのことがより一層、眠気を誘った。
日陰に置かれた水槽は、ライトによって紫がかった青い光に包まれている。点灯時間は一日八時間。夜になったら自動で消える。水槽内を綺麗に見せるためだけならば、電気代はかかるけど、ずっと点けておけばいいのにな……。そんなことを思って調べてみたら、どうやらこのライトはバイオリズムのためのものらしい。人間でいうところの太陽の役割をしているのだ。明るいときに行動して、暗くなったら眠る。魚たちの生活習慣を整えているようだ――それと、灯りを消すことで水草の繁殖を抑えているのだ――。じゃあ昼夜が逆転している僕は魚以下ってこと? そう思うとちょっとだけ、ううん、結構、かなり、悲しくなる。
ひやり……と冷たい空気が肌に触れた。どこからか風が入り込んできたようだ。玄関のドアが開いたのかもしれないな。お母さんがパートから帰ってきたんだ。顔を合わせる前に部屋に戻ろう。僕は腰を上げようとした─そのとき、
ドタドタドタ! とドアの向こうで足音が聞こえた。
アクアリウムの水面が揺れる。
魚たちも驚いている。
そして、扉は開かれた。
目の前の光景に驚いて、僕は文字どおり椅子から転げ落ちた。ポテチが床に散乱した。
な、なんで、おじさんが急に二人も入ってきたんだ!?
一人は、ごま塩頭で怒り肩。もう一人は、耳が餃子みたいに膨らんだダウンベストの男。その気になれば、僕の首なんて七面鳥みたいに一瞬で締め上げることができるような大男だ。
「だ、だ、誰ですか!?」と僕は叫んだ。
「突然、ごめんなさいね。私は岩戸といいます」
怒り肩の男が言った。声がめっちゃでっかい男だ。
「えーっと、野々村帆高さん?」
どうして僕の名前を? 慎重に頷いた。
「我々は引きこもりやニートの方の自立支援を目的とした会社の者です」
なるほど……。所謂『引き出し屋』というやつか。前にネットで見たことがある。突然乗り込んできて無理矢理部屋から引き出そうとする連中だ。一度外に出たら最後。遠くの施設での集団生活を強要してくる。もちろん良心的な会社や団体もたくさんあるだろう。しかし目の前の二人はどう見たって悪党だ。筋骨隆々なところを見ると、格闘技の心得もあるようだ――耳だって餃子だし――。格闘家の連中は「いざとなったら殴った方が話が早い」の精神だから、どうにもタチが悪い。
これはマズいぞ。僕の人生最大のピンチだ……。
「私たちは、ご家族からの依頼を受けてここに来ました。帆高さんがもう一年半も引きこもっているから、なんとか自立させてほしいって頼まれましてね。とりあえず外へ――」
「誤解なきように言っておきます!」
男の話を遮った。引き出されてなるものか。
「僕は引きこもりではありません。ご覧のとおり自分の部屋からは普通に出ますし、今日みたいな天気の良い日はお散歩にだって出かけます。近所の人とすれ違ったら挨拶だって欠かしません。そりゃあ、今は働いてはいませんが、それは母のためでもあるんです。母は膝が悪くて買い物とかも大変なんです。ほら、ここは横須賀でも屈指の高台にありますし、道が細くて車も入れませんからね。膝の悪い母親に重たい買い物袋を運ばせるわけにはいきませんでしょう?」
理路整然と、早口で、この家にいる正当性を訴えた。しかし引き出し屋の連中には一ミリだって響いていない。餃子耳の男なんて暇そうにスマホをいじっている。くそ、この野郎……。
「わ、分かった! あなたたちは兄の差し金ですね!? あいつは僕の存在を快く思っていないんです。自分が公務員になれたのをいいことに、僕を見下してるんですよ。これは兄の嫌がらせです。それに、勝手に僕を連れ出したら母がなんて言うか――」
「依頼主は、お母さんですよ」
「え……?」
「今すごく怖いと思います。でもね、ここから一歩、勇気を出して踏み出してみませんか?」と岩戸と名乗る男が不気味に笑った。日焼けした真っ黒な肌とは対照的に、恐ろしいほど歯が白かった。
「い、いやだ! 僕は出ません! 絶対に出ません! お母さんを呼んでください! お母さん! お母さん!? お母さんってば!!」
二十二歳にもなって情けない話だけど、僕は「お母さん」と連呼した。近所の人がびっくりして警察を呼んでくれたらむしろ好都合だ。問題を大きくして、この二人を追い払ってやる。
「ちょっとぉ、ほっくん!」と廊下の方で声が聞こえた。「ご近所迷惑だから大声は出さないでよ」
母・野々村波江が戸口から困った顔を覗かせた。
お母さんは、ほとんど僕と同じ顔をしている。遺伝子とは恐ろしいものだ。僕を上からぎゅっと潰して、老けさせたらお母さんの出来上がり……って、今はそんなことはどうだっていい。
「もぉ、お母さん! どうしてこんなことするのさ!」
「だってほっくん、いつまで経っても働かないんだもん。それでお兄ちゃんと相談して……」
「僕がいなくなってもいいの!? お母さん一人暮らしになるんだよ!?」
「そしたらお兄ちゃんが時々会いに来てくれるって」
「来るわけないじゃん! あいつが冷たい男だって、お母さんも分かってるでしょ!?」
「そうかしら? クールだけど優しい子よ」
「クールぅ!? どこが! それに、弟にこんな仕打ちをするなんて全然優しくないよ! 僕がいなくなったら苦労するのはお母さんなんだよ!?」
「でもぉ、お母さんはほっくんに働いてほしいの。だから――」
と、母は男たちに笑顔を向けて、
「この愚息、さっさと引き出しちゃってください」
「わ、分かったよ! 働く! 働くから! この人たちは帰らせてよ!」
「そう言ってもう一年半よ?」
「誓う! 誓うよ! 誓うって! 今度こそ本気で仕事を見つけますから!」
「でも勝手に許したらお兄ちゃんに怒られちゃうし……」
「じゃあこうしようよ! 一週間以内に仕事を見つけられなかったら、この人たちのお世話になる! 誓約書を書いたって構わない! だから頼むよ! 僕に猶予を与えてください!」
無様を通り越して、清々しいほど床に頭をこすりつけた。
かくして、僕の人生を懸けた職探しがはじまったのだった……。
あくる日、寝起き最悪の僕はムスッとした顔で居間へと向かった。母は仕事が休みだったようで、朝からアクアリウムの改造をしている。春をイメージして水槽内に桜の木を植えているらしい。もちろん作り物の木だ。というか、なんで急にアクアリウムなんてはじめたんだろう?
「これからハローワーク?」とお母さんが首だけで振り返った。
「……うん、まぁ」
「険しい顔してどうしたの? 下痢でもしてるの?」
「してないよ。無理矢理追い出そうとするなんて酷い親だなぁって思ってさ」
「なに言ってんの。良いきっかけでしょ? あ、じゃあ、そんなほっくんに良いものをあげよう!」
「お金?」
「バカ。ついていらっしゃい」
意気揚々と玄関へ向かう母。僕はため息を漏らして、仕方なくそのあとに続いた。
「――なにこれ?」
我が家には長い間使われていない倉庫がある。その前に埃を被った黄色いバイクが置いてある。ベスパという車種で、レトロでイタリアンな雰囲気のある黄色――ポジターノ・イエロ――の車体が印象的だった。
「お兄ちゃんが学生時代に乗ってたバイクなの。まだ動くみたいだから足として使ったら――
「誰があいつのお下がりなんて」
「文句言わないの。ほっくんも中型免許持ってたわよね? これ150ccなのよ」
「持ってるけど……。あのさぁ、やっぱりお母さんの膝のこともあるし仕事はもう少し先でも――」
「大丈夫。お母さん、グルコサミン飲んでるから」
「いや、でも」
「今から呼ぼうか? 引き出し屋さん」
「わ、分かったよ。ちゃんと探すって」
「じゃあ、約束ね」と母は微笑み、小指をすっと差し出した。
ゆ、指切り? いい歳こいた母と息子が?
でもお母さんは真剣だ。だから渋々小指を絡めた。五十も半ばの還暦予備軍の母親と無職の息子のゆびきりげんまん。誰かに見られたら恥ずかしくて死にたくなる。
「ほっくんならできる! 絶対にできる! さぁ、あなたも繰り返しなさい。僕ならできる!」
「い、嫌だよ、恥ずかしい」
「言いなさい。でなきゃ呼ぶわよ? 引き出し屋さん」
「僕ならできる! 絶対できる! 頑張るよ、お母さんのために!」
我ながら吐き気がするおべんちゃらだ。でも母は満足げに笑っている。そして、
「ゆびきりげんま~ん、噓ついたら針千本飲~ます。指切~った」
今日、関東では春一番が吹いた。その風に乗ってご近所さんまで届いてしまいそうな大声だった。
「それからもういっこ。お兄ちゃんからの伝言よ」
「伝言?」
「あの日の約束、ちゃんと守れってさ」
うるさいよ……。心の中で吐き捨てて、僕はその場から逃げ出した。
結局、ハローワークで仕事は見つからなかった。いや、正確に言うと、僕は職探しから逃げ出したんだ。面談をしてくれた職員さんに「今までなにをしてたんだい?」と苦笑いで訊ねられ、恥ずかしくなって席を立ってしまったのだ。以来四日間、母には「仕事探してくる」と噓を言って、日がな一日、公園でぼーっと時間を潰している。約束のタイムリミットまであと二日と迫っていた。
そりゃあ、僕だって思ってるよ。今までなにしてたんだ……ってさ。
横須賀本港を一望できるヴェルニー公園からは今日も護衛艦がよく見える。それをぼんやり眺めながら、もう何度目か忘れてしまったため息をまた漏らした。
僕がダメ人間になったのは高校三年生の夏だ。あの頃、自慢じゃないけど長距離ランナーとして大活躍していた。陸上部創設以来、初の全国大会出場も確実視されていたし、自己ベストだって連発していた。でも、夏の県大会決勝で盛大にやらかしてしまった。レース序盤で転倒したのだ。立ち上がれずにその場で棄権。落胆する母と兄、陸上部の仲間たち、監督の顔を今でもよく覚えている。
それに、悲しそうだったあかりの顔も……。
僕は陸上から逃げ出した。それからは呆れるような学校生活。カラオケ、ゲーセン、ダーツにビリヤード。自堕落で生ぬるい地獄をのうのうと生きた。将来の夢もなかったし、見つけようともしなかった。陸上以上に打ち込めるものなんて、なんにもないって思っていた。じゃあもう一度、走ればいいじゃないか。みんな揃ってそう言った。でも遅い。遅すぎた。走る理由は、もうなくなってしまっていた。
高校卒業後は仕方なく横浜のWeb広告を手がける企業に入った。志望動機は特にない。強いて言うなら、芸能人に会えそうだからだ。だけど、そこはゴリゴリのブラック企業だった。連日連夜の激務と想像を絶する過酷なノルマ。怒鳴られすぎて心はボロボロ。僕は会社からも逃げ出した。
転職先を探したけれど、やる気も覇気も根性もない、こんなクソガキの僕のことなど誰も雇ってはくれなかった。結局フリーターになって、カラオケ、ゲーセン、ダーツにビリヤードと職を転々とした。でも全部やりたいことじゃない。こんなことをしていてもなんの意味もない。やがてすべてが嫌になって、自分からも逃げ出した。立派なニートの出来上がりだ。
そんな僕が職探し……。そんなの無理に決まってるよな。
またまた大きなため息が漏れると、春の風がそのため息をさらっていった。
風は公園内をぐるりと回って遠い空へと帰ってゆく。すごい風だな……と、ぼんやり空を見上げていると、右足になにかが引っかかっている感触を覚えた。
A4用紙が足に纏わりついている。
なんだろう? と拾い上げると、それはとある店のチラシだった。
「かぜよみどう……?」
『ガラス雑貨専門店・風読堂』と書いてある。
変な名前のお店だな……ん!? チラシに顔をぬっと近づけた。
『アシスタントさん大募集!』とあるではないか。
時給 一二〇〇円
雇用形態 アルバイト
勤務時間 十時~十八時まで(若干の残業あり)
お母さんとの約束は一週間以内に仕事を見つけること。正社員という決まりはない。アルバイトなら今からだって受かるかもしれない!
興奮しながら募集条件に目を移した。
募集条件① 普通自動車免許、または普通自動二輪免許以上を所持
普通自動二輪? バイクの中型免許ってこと?
それなら持ってる! 大チャンスだ!
もしかしたら、さっきの風が幸運を運んできてくれたのかもしれないぞ!
募集条件② 車かバイクを所有していること バイクの場合、二人乗りが可能なこと
どういうこと?
ガラス細工の配達ってこと?
だけど、どうして二人乗り?
それに、最後のこの条件は……?
最後に書かれた一文に、僕はぎゅっと眉をひそめた。
そこには、『絶対条件』として、こう書いてあった。
ファンタジーを信じられる方!
*
ぶっちゃけちょっと、いや、かなぁーり怪しいバイトだと思っている。
なんなんだ? ファンタジーを信じられる方って。
でも背に腹は代えられないよな……。
その翌日、僕は『風読堂』に面接を受けに行くことにした。
それにしても面接なんて久しぶりだ。スーツは随分前に捨ててしまった。だから白いワイシャツに紺のネクタイを巻いて、黒いデニムジャケットで行くことにした。下はブラウンのカーゴパンツ。およそ社会人らしくない格好だけど、まぁ、アルバイトだし……なんて、社会性のないことを考えながら、僕はベスパに跨がり横須賀の中心地を目指した。
軍港の街で知られる横須賀─。その名を聞けばアウトローな印象を抱く人も少なくないだろう。でも実際はかなり落ち着いている。年に数件くらいは血なまぐさい事件も起きているようだが、普通に暮らしていれば身の危険を感じることは一切ない。横浜や神戸のような派手さもなければ、長崎や函館のようなレトロな空気も漂ってない。寂れた田舎の軍港の街、それが横須賀だ。
それでもベース――米軍基地の通称だ――周辺はアメリカの空気を感じることができる。英語だけで書かれた看板、ホテルの屋上の自由の女神、歩道に置かれた車の窓にはペンキで大きくドルで値段が書いてある。米軍関係者向けに販売している中古車だ。物件情報は全部英語だし、タトゥーショップもとにかく多い。そんなアメリカナイズされた街の中心が『ドブ板通り』だ。スカジャンやミリタリー系のショップが軒を連ねて、ハンバーガーショップも充実している。それに夜になるとバーやライブハウスが賑わいを見せ、怪しげな雰囲気に姿を変える。ちなみに、ドブ板通りでは今も普通にドルが使える店もある。渋いアメリカの港町のような空気が漂う独特な場所だ。
僕は目立たぬ場所にバイクを停めて、地図アプリを頼りに『風読堂』を目指した。
横須賀は坂の街でもある。車両が入れないような細い急坂や階段だらけだ。
ドブ板通りの裏手の階段を息を切らして上ってゆくと、やがて山のてっぺんに辿り着いた。運動不足には辛い道程だ。そこからは私有地になる。
『風読堂 あちら☟』の看板が見えた。
矢印の先では木々が怪しげなトンネルを作っている。風が吹き、木の葉がザワザワ不気味に啼いた。
なんだかファンタジーの世界への入口みたいだ……。
ごくりと息を飲み込んで、僕は緑のトンネルをくぐった。
その建物はかなりの年季が入っていた。築百年は経っているだろう。それでも外観の装飾は華やかで、オーニングの上の壁には大正時代を思わせるレトロなフォントで『風読堂』と書いてある。こういう建物のことを看板建築っていうんだっけな。
ドアも洒落ていて、風の絵が描かれたステンドグラスがはめてある。その横には大きな窓。そぉっと中を覗いてみると――暗くてよく見えないけど――店内はかなりの奥行きがありそうだった。
よし……と気合いをひとつ入れ、くすんだ真鍮のドアノブを回した。
今日のどんよりとした空模様もあってか、室内はかなり暗かった。床板を踏むと、ギシ……と不安な音が鳴った。微かに漂う埃の匂い。棚にはガラス細工が並んでいる。グラス、お猪口、花瓶に箸置き。種類は豊富だ。これは店主の手作りなのかな? でも工房は併設していないようだ。
店の奥にはレジカウンター。レトロなレジスターが置いてある。そのカウンターの向こうには六段ほどの大きな棚があって、大、中、小の瓶がそれぞれサイズごとにずらりと並んでいる。
あんな瓶、一体誰が買うんだろう……?
そんなことを考えていると、レジのところに人影を見つけた。
赤いベレー帽を被った女性がこちらに背を向け立っている。多分、僕よりちょっと年上だ。身長はそれほど高くはない。髪は内巻きのセミロング。古着っぽいチェックのジャケットを着ていた。
手には黒い円盤。LPレコードだ。
僕の来店には気づいておらず、レジの傍のレコードプレイヤーにそれをセットしていた。
声をかけなきゃ……と、息を吸い込むが、曲がはじまりタイミングを逃してしまった。気を取り直してもう一度――呼吸が止まった。
そして僕は、奇跡を目撃した。
音楽が空気に溶けてゆくように、辺りがふわりと明るくなった。雲が流れて太陽が顔を出し、背後の窓から光がすっと射し込んだのだ。その光は僕を越え、レジカウンターを越え、整然と並んだ棚の瓶を爽やかに照らしてゆく。緑がかった青色の瓶が一斉に輝くと、それに呼応するようにガラス細工たちも一斉に笑った。店内は、あっという間に光の世界へと様変わりした。
音楽はサビを迎え、女性ヴォーカルの歌声が軽やかに響く。
この曲、どこかで聴いたことがある。
そうだ、オリビア・ニュートン・ジョンの『そよ風の誘惑』だ。
透き通るような歌声と光が交じり合う店内は、奇跡のように華やかだ。その致景に誘われて、開けっぱなしのドアから風が遊びにやってきた。春を感じさせる優しいそよ風。くすぐったくて、暖かくて、思わずふっと笑みが宿った。
風に吹かれて光が揺れる。
キラキラと、ピカピカと、はしゃぐように揺れている。
風に肩を叩かれて、女性がゆっくり振り返る。
その瞬間、世界は一等、輝きを増した。
キラキラと、ピカピカと、キラリキラリと、サラサラと……。
「あ、面接の方ですか?」
彼女は人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「はじめまして。店主の級長戸辺風架です」
その声に触れ、笑顔に触れて、僕の心の真ん中を甘い風が吹き抜けてゆく。
「ようこそ、風読堂へ!」
それが風架さんとの出逢いだった。
そして、僕は誘われたんだ。
めくるめくファンタジーの世界へ。
(続きは本誌でお楽しみください。)