ナノブロックみたいな歯だな、と海斗は思った。
形も大きさも均一な真っ白い四角たちがお行儀よく整列している。虫歯もなければ永久歯への生え変わりの経過すら見られなくて、組立説明書ラストに載っている完成図のような口内だ。
海斗は先日抜けたばかりの上の臼歯の空洞を舌先でいじりながら、目の前でされるがままにぽっかりと口を開けている少年の顎を左手で軽く支えた。少年は目を見開いたまま肩を小刻みに震わせていて、得体の知れない体験を目前に緊張しているのがわかる。まるで初めて歯医者に来た子供のようで海斗は少し気の毒に思う。
「やっぱやめとく? 無理しなくていいよ」
少年はふるふると首を横に振り、「はいほうふ」とかろうじて口を動かし、海斗の右手に視線を送って先を促した。
「じゃあ入れるからね」
袋から星形のビスケットを一つ取り出し海斗は少年の舌の上にそっと置いた。閉じた口の脇からつと漏れ伝う唾液を拭うこともなく、少年は体を硬くしたまま黙って海斗を凝視している。次の工程を、不安ながらも急かすように唇を突き出して。
「ほら、上と下を動かして、嚙まないと。もぐもぐって」
〝もぐもぐ〟はさすがに幼稚すぎたかな、そもそも〝もぐもぐ〟って何、なんて一人おかしく思いながら、海斗は空の口を上下に動かして咀嚼の真似をしてみせた。少年もそれに倣い不器用に口元を変形させる。せっかくの整った顔が教科書で見たピカソの絵画みたいに崩れて、吹き出しそうになるのをどうにか堪える。
「ぐっと飲み込んで。小さく軟らかくなるまでそうやって、よく嚙んでから。できてる?」
ビスケット特有のサクサクとした咀嚼音が一向に聞こえてこないことを不思議に思い、海斗は少年の口を開けさせ中を覗き込んだ。つるりとした薄紅色の舌の上で、五芒の形のままのビスケットが濡れてその角を丸くふやけさせている。
「嚙んでないじゃん」
「えー、わかんないよ」
ぺ、と少年は草っ原にビスケットの成れの果てを吐き出した。
「ちゃんと飲み込まないと」
「やってみて」
「またー?」
ハート、星、星、丸、星、六枚目の今回はハート。ばあちゃんの家から持ってきた何の変哲もないハードタイプのビスケットは海斗の喉を殺人的に乾かして今にも干上がりそうなのに、水筒の中身はとっくに空っぽだった。早くこの〝練習〟を終わらせなければ体中の水分が小麦の塊に吸収されてしまう。
「こうやって、上の歯と下の歯で、嚙み砕くの。ちゃんと見ててよ」
口を「い」と横いっぱいに広げてはっきり見えるようにビスケットを歯で挟み、真ん中で思い切り割る。パキリ、と気持ちのいい音が鳴る。そのハートの片割れも口に放り込んで大げさに咀嚼のジェスチャーをしてみせる、両頰を膨らませる、と両目もつられてかっぴらいてしまう。これならいかにも〝もぐもぐ〟っぽい顔だろう。
「こんな感じ」
「ちょっと今、口開けてみて」
「え、嫌だよ。行儀悪いし汚いじゃん」
「いいから! ね」
食い入るように顔を寄せて見つめてくる少年の熱意に負けて、海斗はしぶしぶ咀嚼途中の口を半開きしてみせた。
「もっと。それじゃ見えないよ」
「えー」
何の罰ゲームだと思いながら半ばヤケクソで大口を開ける。これほど不本意で不名誉なことをさせられるなんて、生きてきた十年で思い出せる限り初めてではないだろうか。そんな海斗の赤恥とは裏腹に、少年は刺すような真剣さの中にもうっとりと甘みを含んだ、あまりにも対象にそぐわない眼差しをまっすぐ海斗の口腔に向けていた。そして感慨深く喉を鳴らし、
「もう一回やってみるよ」
少年は海斗の手から袋を取り上げた。ハートを選びとり、慎重に歯に挟む。パ、キリ。
「そうそう、それを何回も繰り返す」
「ん」
ようやくサクサクと小気味のいい音が少年の口内から聞こえだした。咀嚼している顔つきがみるみる変わり、今にも飛び出そうな目が輝きだす。その表情が、成功体験からか初の味覚からか別の何かからくるものなのか海斗にはわからなかったが、彼と出会ったこの数日の中でも一段と〝人〟らしく、生き生きとして見える。
「そうそう、そしたら飲み込むの。ぐって、喉の奥に」
頑張れ! いつしか海斗は両手の拳を握りしめて少年にエールを送っていた。あと一息、さあ。足元にも力が入る。
ごくり、と喉元がわずかに波打ち、少年は大口を開けて空っぽになった桃色の洞窟を得意げに海斗に見せた。
「おー! できたじゃん!」
「もう一回やる!」
少年はたがが外れたようにビスケットを次から次へと口に放っては、小躍りしながら頭ごと上下に振って咀嚼を続けた。大昔の壁画をファンシーにアレンジしたらこんな感じだろうか。喉から手が出るほどを地で行くように、「もっと、もっと」といくつもの丸や星やハートがするする落ちていく。
この一連の儀式は他人から見れば奇妙で不可解極まりないのだろうけれど、海斗には少年が今まさに感じていることを手に取るように理解できた。
「おいしい?」
「おいしーって何?」
ビスケットの袋に顔を突っ込むかのような勢いで貪りながら、少年は星粒の散る目線を海斗に投げかけた。
「おいしいって……」
どう説明したらいいか咄嗟には浮かばず、海斗は口ごもる。おいしいはおいしいとしか言いようがない。いい感じ? 好ましい? 嬉しい? 幸せ? どれも当てはまるようで端的でもない。考えをめぐらすほんの数秒の間にもビスケットはブラックホールのように少年の口の中へ吸い込まれていく。
「たぶん、そういうことだよ」
「ん?」
「もっと食べたいって、もう一回ってなること、かな」
「そっかあ」
少年はぴたりと手を止め、感慨深げに目をしばたたかせた。
「なんか、すごい」
向かいの尾根に落ちかけた夕日が下方に広がる集落を薄紫に沈めていく。この山もすぐに暗くなるだろう。足元に並んだ同じ背格好の影が長く伸びた先で、草陰に潜む虫たちの風鈴のような声音が、涼やかに響きだしていた。
※
「これはねー、スモゲっていう草。こっちはユウスラって実」
蝶のように軽やかに身を舞わせながら少年は山を駆けのぼってゆく。その途中で手当たり次第に草花や木の実を毟り取っては口に放り込んで、「にじーってなってじゅっとなる」だとか「ぴょろぴょろ」「もむもむ」だとか食感か味らしきものを〝言語化〟していくのを海斗は逐一ノートに書き留めていく。
人の手が全く加わっていない斜面を、少年に置いていかれないスピードを保ち、かつ転んだりしないように気を配りつつ手元のノートに文字を書き記しながら進むという芸当を、海斗は一度にこなさなくてはならなかった。出っ張った木の根や蔦にも初めは逐一てこずっていたが、今となっては熟れたものだ。
東京に戻ったら、夏休みのたった一ヵ月半でインドア派から転向し、ほぼ手つかずの山でのサバイバル能力を得た自分にクラスメイトはきっと驚くだろう。顎の先端に集まっては滴り落ちる汗が、ただでさえブレて歪な文字をじわり灰色に滲ませてゆく。
少年がつま先で弾かれた小石を拾い上げ口に投げ込むと、嚙み合わせた途端に顔をわかりやすく歪め勢いよく地面に吐き出す。
「今のは?」
「ぎゃじぎゃじ、じゃちじゃち、で、じゅじぇー」
稚拙な表現に海斗は苦笑しながらも、石の硬く冷たい口当たりや苦み渋みが容易に想像できて、自分の口内に嫌な唾液が溢れだすのには感心した。聞こえたとおり、ノートに書き記す。
[小石:ぎゃじぎゃじ、じゃちじゃち、じゅじぇー]
あの日から、少年は食べるという行為に夢中になっていた。まるで赤ん坊みたいに目に入るものを見境なく口に入れてしまう。体に悪いものに当たってしまったりしないだろうかと海斗は冷や冷やしながら何度か注意したものの、当の本人は聞く耳を持つことはなかったし、現にこうしてピンピンしている。
ついに海斗も割り切って、せっかくのこの稀有な経験を、学校で宿題として出された自由研究に生かすことにした。題して「野生の味覚」。現代の東京で普通に暮らしていたら口にすることなどまずなさそうな自然の生息物の味がどんなものか、を研究するのが表向きではあるが、実はもう一つの意図がある。この山で生まれ暮らしてきた少年の、初めての「食」の体験記だ。彼の存在は他の誰にも明かしてはいけない─、海斗は少年と出会った時からそういった気配を直感的に感じ取っていたから、この記録はあくまでも裏設定ということになる。けれど海斗にとってはこちらのほうが遥かに重要な意味を持っていた。
「でもこのままじゃダメなんだよなー」
海斗はノートをぱらぱらとめくりながら唸った。
「何が?」
「僕が実際に食べるにも限界がある……というかほぼきついし、じゃあ誰が食べたの? ってことになるし。ぎゃじぎゃじとか一般に浸透してない表現で説明したところできっと理解されないじゃん。ワンチャン適当にやったと思われかねない。もっと身近なものと具体的に比較できる表現なり方法なりがあればいいんだけど……」
そもそも論だがこれは自由研究として成り立つのだろうか。ふつと膨らんだ一抹の不安を払うように海斗が顔を上げたのと、少年が小さな黒い影をひらりと捕まえて口に放ったのが同時だった。
「え、何食べてんのそれ。まさか虫?」
顔をこわばらせ、海斗がたじろぐ。
「うん」
目の前を飛んで過ぎてゆこうとする羽虫を少年がまた捕らえる。まるで引き寄せられるように少年の丸めた掌におさまっていく大小の虫たち。が、彼の桃色の窟に容赦なく送り込まれてゆく。
「うわー」
「あれから木の実とか皮とか花とかさ、いろんな卵なんかも試したんだけど、これが今のところいいんだよね」
「いい」
「おいし、いい?」
「おいしい、ね。はー、そうなんだ」
驚きと感慨深さとが入り混じって、海斗は腰から砕けるようにしゃがみ込んだ。汗をたっぷり吸い込んだシャツが背中にびたりと貼りついて、その冷たさに痙攣のような身震いをする。
「大丈夫?」
差し出された手はまっすぐ海斗に向かい――と思いきや、途中で気まぐれに方向を変えて足元の深緑の甲虫を捕らえた。少年の親指と人差し指に挟まれてしばらく六本の短い足をバタつかせていたが、その足搔きも空しく彼の口の中に消えていく。直前、風前の灯にありったけをぶつけるように、その緑の背が陽の光に反射して鋭く光った。
「それはおいしい?」
少年は咀嚼しながら首を縦に振る。
「でも海斗のくれるやつが一番いい。頭がふぁーってなる。こいつはそれに似てるかも」
「へえ……」
海斗はちょっとしたアイディアを思いついた。これまで少年に与えてきた何種類かのお菓子─ビスケット、チョコレート、グミ、マシュマロなど。今日リュックに入れてきたパイ菓子の存在を思い出してそれを取り出す。目を輝かせて飛びつこうとする少年を制して、
「僕のあげたどれに似てる? 硬いのとか、口に入れたらすぐなくなるのとか、嚙まなくても飲み込めるのとか、あったでしょ。乾いたの、水っぽいの、いろんな色のとか」
「外側は初めてもらったやつ。星とかの形の。中のほうはね、ちゅーってそのまま入ってく。透き通ったピンクのみたいな」
「ゼリーかな」
海斗はノートを開き、味や食感のベンチマークを加えていく。これなら第三者にもずっと伝わりやすくなる。今のは何という虫だろうか。コガネムシに似ているけれど、全く同じ色と形のものは東京でも見たことがない。呼び名も全然違うから、見当がつきそうになかった。
「食べてみれば?」
「え?」
「海斗も、これ。捕ってきてあげるよ」
「それは、僕にはちょっと」
「なんで?」
「なんでって……」
虫なんて、と言おうとして言葉に詰まった。ばあちゃんの家で夕飯に出されたイナゴの佃煮を先日嫌々食べたばかりだ。味や食感だけであれば目隠しをすれば小魚か何かだと思えたのかもしれないけれど、あのザ・虫という見た目が海斗にとっては苦痛で仕方なかった。けれどそんなことは彼にとって何の問題でもないわけだし、それ以上に食の師としてもっとごもっともな理屈が欲しかった。
「生きてるのは、無理かも」
「それは生きてないの?」
少年は海斗の手に持つパイ菓子の包みを指さした。
「生きてないよ」
「そっかあ」
と、二人の間を切り裂くような風が吹きつけた。
「でもそしたら、僕の周りにあるものはみんな生きてるからなあ」
容赦なく胸ぐらをつかまれ投げ飛ばされてしまいそうな勢いに負けじと足を踏ん張る。木々がざわつき、草が身を倒し、花弁が渦を巻いて宙を搔きまわす。突然現れた暴君に抗えなかった虫の腹が海斗の頰をぴしと打ち、瞬く間にどこかへ消えていった。
「ねえ、それ」
飛ばされまいとどうにか食らいついていた海斗の目に、無邪気な少年の顔が映り込んだ。
「それもう食べていい?」
無自覚に食いしばっていた歯をほどく。つられて緩んだ手元からお菓子の袋を少年がそっと抜き取り、作りものみたいな歯を見せて笑う。ナノブロックだ、と再び思う。
彼はパイ菓子を上下の歯で挟み、上手に半分に割った。パキリ。バターの甘い香り。もう半分を海斗の口に入れる。まぶしたザラメ糖の舌触り。
「死んでるほうがおいしい!」
少年は雲一つない真昼の青空みたいにあっけらかんと笑って、また山肌を駆けだしてゆく。
(続きは本誌でお楽しみください。)