払暁
一
風が変った。
いや、風が運んでくる匂いが変ったのか。
木立を抜け、クビライは馬上で心気を整えた。そうしなければならないものと、これからむかい合う。
眼前には、傾斜の緩い丘があった。
馬腹を軽く蹴り、横に並んできた阿朮を手で制した。
斜面を駈け登る。
摑みどころのない茫洋としたものが、クビライの視界に拡がった。それは宙にも似ていた。
これが、海か。
丘の頂で、クビライは低く呟いた。はじめて見るが、とてつもなく広いという予想は、あっさり毀れていた。途方がない。どんな想像も及ばない広さだった。
「海だぞ、阿朮」
「言葉が、出ませんでした、俺」
「広いという言葉は、草原にあて嵌ると思っていたが、たとえるものがなにも見つからないな」
ほかの者たちも、声ひとつあげず立ち尽しているようだ。
クビライは、海にむかって斜面を駈け降りた。地を這うような草があり、その先は砂だった。
どこにいたのか、男がひとり現われ、拝礼して迎えた。
「テムゲ・オッチギン家の、ザルギスと申します。このたびは、わが主の弔問においでいただき、恐悦至極に存じあげます」
クビライは、馬を降りた。
テムゲは、祖父チンギスの末弟である。五月に死んだということを、ヘルレン河沿いの軍営で聞いた。
六騎で移動していると、時折、軍に止められ取り調べられる。クビライだとわかると恐懼するが、その時、テムゲ・オッチギン家への弔問かと言われたのだ。
テムゲの本営に寄ることは、旅の予定には入っていなかった。街道をそのまま進めば、テムゲ家の領地であるフルンボイルに入る。結局、そのまま進み、テムゲ家の夏の営地である北山に達した。
大叔父のテムゲには、幼いころアウラガで会ったことがある。テムゲより先に死んだ長男のジブゲンや孫のタガチャルとも、カラコルムの宮営で一度会った。
その時のことを、タガチャルは憶えているようだった。五年ほど前で、ジブゲンの死の前年だった。
「幕舎を用意しております。まず、そこでおくつろぎを」
暮れなずんでいる。それももうかそけく、すぐに暗くなるだろう。
「俺は、コルコスンに船を頼んだのだが」
「夜が明けた時、三艘がこの沖におります。とにかく、お休みを」
ザルギスが案内したのは、丘の陸側にある木立の中だった。幕舎が二つすでに組み立てられ、篝や焚火の用意もなされている。
コルコスンはテムゲ家の家令で、すでに六十を超えているようだった。
屈託を抱えているように見え、それは家督の問題だろう、とクビライは思った。タガチャルが若すぎるからと、一族の有力者がとって代りそうな勢いを見せているのだ。
噂にすぎないが、ありそうなことでもあった。
アレイが、人の多いところでは先行し、情報を集めてくる。代々、そういう仕事をしている家の者だ。
祖父の足跡を辿る旅を望み、母のソルコクタニ・ベキにそれを許された時、アレイをつけられたのだ。スブタイ大将軍の幕営にいることが多かったので、祖父の話を細かく聞くことができた。
旅をはじめて何年か過ぎ、西のエミルという城郭でたまたまスブタイ大将軍と会った。
スブタイは、部下を百騎ほど伴った調練を兼ねた旅の途次で、その中に孫の阿朮がいた。
そこで、預けられたのだ。十五歳だったが、ずっと大人びて見えた。祖父のそばなので、そんなふうになったのかもしれない。
ともに旅をはじめると、愉しいという思いを隠そうとしなかった。
アジュに阿朮という漢の字をあてているのは、スブタイが決めたことのようだが、理由は語らなかった。
スブタイは、大モンゴル国の伝説の武人である。祖父の信頼が最も厚かったと言われている。本人は、長く生き過ぎていると悔んでいるように、クビライには見えていた。
燧石を遣う音がして、焚火が燃えはじめた。
「ここは海辺で、魚が獲れます。もちろん肉も用意しておりますが、どちらにいたしましょうか?」
「魚を食ってみたい」
「では、塩をつけて焼かせます」
ザルギスは、最初の印象が太い眉、次に来るのが低い声だった。聞いていると、耳に快い感じがある。
「海まで行くと言ったら、コルコスンが船を勧めてきた。テムゲ家に、水軍があるとは思わなかったよ」
「水軍というほどでは。ただ、物流という点では、陸上よりいいところが多くあります」
陸の道と海の道を組み合わせる物流は、祖父のころに考え出されていた。祖父の死後、広大な大モンゴル国の中では、いくつもの有力な家が並び立つようになった。家が国を区分し、物流が停滞し、海の道は活発さを失った。
全土的な兵站の意味は小さくなっていて、それぞれの領内で繁栄を競うという縮小された物流になっている。
第二代の皇帝ウゲディが五年前に死に、それ以来、第三代皇帝が決まらないという混乱が続いていたが、大モンゴル国の骨格が崩れているわけではなかった。
ウゲディの妻のドレゲネが大きな力を持ち、混乱の中心にいた。
祖父の弟たちの流れである東方三王家も、テムゲの死以来、混乱の芽を抱えている。
祖父の息子たちの流れである西方三王家は、長男のジョチの息子であるバトゥが一大勢力である。四男であるクビライの父トルイの死後、トルイ家では母が兄のモンケの背後で隠然たる力を持ち続けていた。
第三代皇帝が誰になるか見えないが、皇后であったドレゲネの力は強く、無理を押し通しそうな気配がある。
「船隊を持つというのは、テムゲ殿の意思だったのか、ザルギス?」
「太祖の御意向があった、と聞いております」
祖父の心の中に、水軍というものもあったのだろうか。それが姿を現わす前に、祖父は死んだ。
水運と陸運の組み合わせに眼をむけると、ヤルダムという存在が浮かびあがってくる。十五年ほど前に亡くなったというが、祖父の外孫になる。母がコアジン・ベキといい、祖父の娘であり、つまりクビライの伯母になる。
カラコルムやアウラガの学問所では、そこまでの歴史は教えないが、調べる気になればたやすくできた。
燕京の西の大同府の郊外に、大きな文庫の建物が建設され、厖大な書が置かれている。そこで歴史なども調べられる。
大モンゴル国の歴史書そのものは少なく、祖父がカンに就いたころから文献は増えていく。
ヤルダムとは同じ祖父を持っているが、クビライは会ったことがない。伯母であるコアジン・ベキも、その名を知っているだけである。
兵站に関する話の中で、スブタイからヤルダムの名を聞いたが、生き延びて欲しかったのかどうか、その表情からは読みとれなかった。
「テムゲ家の船隊は、どんなふうな物流の担い方をしている?」
「交易でございます。こちらからは毛皮、麦、魚の干物、武具、貴石などを送っております。そして、南から甘蔗糖をこちらに運びます」
「南宋との交易か?」
「いえ、さらにその南の、暑い地方です」
クビライは、小さく頷いた。甘蔗糖の交易が、モンゴル軍の軍資の一部だったということは、知っている。
カラコルムにある学問所には、十五歳から十七歳まで通わされた。祖父のころはもっと学問が奨励されていたというが、伯父のウゲディは、人々を学ばせることにそれほど熱心ではなかった。
アウラガの学問所には、十二歳から十五歳まで通ったが、遊び友だちと一緒で、カラコルムよりは愉しかった。
十五歳で学問所通いを終え、クビライと気ままな旅を続けている阿朮が、しばしば羨ましくなる。
十七歳からは、クビライはアウラガのトルイ家の本営にいるか、スブタイの軍営に潜りこんでいるかだった。
時に、母が招いた講師の前に座らされたが、意外に話の内容は面白いものが多かった。父が学問についてどうだったか、あまり記憶はない。幼いころは、兄と一緒に武術をやらされた。
モンゴル族の歴史は古いが、草原を中心に一大国家を形成したのは、祖父の晩年である。その一大国家も、祖父がいなくなると、一族の連合体のようになりつつある。
西にむかっての進攻は、ウゲディの時まで続けられた。
ウゲディが死去してからは、第三代の皇帝が空位のままで、すでに五年、混乱が続いている。
ザルギスの咳払いが聞えた。
老人が二人、焼いた魚を十尾ほど、大皿に載せて運んできた。
「酒はどういたしましょうか、クビライ様」
「いらぬよ。饅頭に魚の脂をしみこませて、食らうことにする」
「脂の多い魚は、次の十尾でございます」
クビライは、焼いた魚に手をのばした。頭から食らいつき、力を入れて咀嚼し、口に残った骨を焚火の中に吐き出した。河の魚より身がしっかりしている。骨ごと尻尾まで食らった。ほかの者たちも、そうしている。食らい方にかぎらず、大抵のことはクビライのやる通りだ。
「この魚は、河のものと同じように、釣るのですか、ザルギス殿?」
「網で獲るようです。今日の午後運ばれてきたもので、生きておりましたよ、阿朮殿」
「網の漁を見てみたいなあ」
「私は三年前にこちらに来て、やっと海の魚の味を知りました。キルギスの出身で、海のない土地で育ったのです」
「これから、水運を差配していかれるのですか、あるいは水軍を?」
阿朮は、知りたいことを率直に訊くところがある。クビライは、まず相手を測る。それが、軍人の家系と王族として生まれた者の、違いなのかもしれない。
「私は、テムゲ家の家臣です。命じられればなんでもやりますが、水軍や水運というのは私の思慮の外にありました。明日から船の旅をしていただきますが、同乗する私もまだ馴れておりません。普通に進んで十日、早くて八日で直沽(天津)に到着いたしますが」
「ザルギス、俺はコルコスンから、船旅の詳細を聞いていない。俺が気になるのは、十日も馬を船に乗せようとしているのかということだ」
「三日でも、お許しになりませんよね」
「二日でもだ」
馬は、毎日駈けさせた方がいい。少なくとも、二日に一度は駈ける必要がある。それ以上じっとさせていると、動かない馬になってしまうのだ。
「馬は陸上を移動させ、船が着く直沽で待たせます。日に三刻は、駈けさせます」
「わかった。預けよう」
草原で生きていると、馬と離れるのは不安のもとだった。阿朮などは、ひとりだと間違いなく拒絶するだろう。
また、大皿の魚が運ばれてきた。饅頭も湯気をあげている。
「皿の底に溜っているのは、脂か?」
「はい。海の深いところにいる魚を、漁師が一尾ずつ釣りあげるのです」
饅頭をとり、二つに割った。脂をしみこませ、塩をちょっと振って口に入れる。
「おう、これは」
「魚の脂は、羊の脂とはまるで違います。あまり腹にもたれたりしないのです」
「俺は、羊の脂でももたれないが」
しかし、羊の脂とは別物の味わいがあった。脂は魚の身からも抜けきっておらず、それを饅頭に載せて食うと、口の中に経験したことのない甘さに似たものが拡がった。
クビライは、束の間、眼を閉じた。
「お気に召していただいたようで」
ザルギスの声が、いくらか高くなった。
荒っぽい食い方をする魚ではない、とクビライは思った。身と饅頭を交互に食い、残った骨を丁寧にしゃぶった。骨まで、甘い味がする。
とうに陽は落ちているが、篝がいくつも焚かれているので、周囲は明るかった。
クビライは胡床から腰を上げ、闇の中に踏み出した。さりげなく阿朮が並んできて、ザルギスが後ろに続いた。
木立を抜け、緩い斜面を登った。頂上で、クビライは立ち止まった。どこまでも暗いだろうと思っていた海に、光があった。溢れるほどではないが、弱い光がかえって眼に鮮やかだった。光はどこまでも拡がっていて、海と空の境も見分けられるような気がする。
篝が多く明るかったのでわからなかったが、月が出ていた。くっきりした、上弦の月である。
「海の姿が、浮かびあがっている。そうさせる月の方が、不思議な気もするな」
「遥か遠くまで、風に靡く草を見ていて、海というのはこんなものだろう、と俺は考えたことがあります。海があると知っても、それ以上のことはなにも思い浮かばなかったのです」
「俺も似たようなものかもしれん、阿朮。俺たちの祖父さまたちも、そうだったと思う」
(続きは本誌でお楽しみください。)