春の道を歩いている、と思った。
 まだ桜には遠く、梅には少し遅いと感じられる季節なのに、私――浜辺真奈華は、この街の空気を「真っ盛りの春」であると感じていた。明るく、かすんだように見える視界。真新しい自転車が置かれた玄関先。一方通行の車道を窮屈そうに走り抜ける引っ越しのトラックと、何かを待っているかのような、民家の庭先のプランターの土。
 そしてこの胸を満たす、そわそわとして落ち着かない気持ち――平凡な言葉で言うならば、期待と不安。通い慣れた道がやけに長く感じられる。吸って、吐いてと意識的に深く呼吸をした。自分でも意外だ。神南木に「大事なこと」を報告しにいくのに、これほど緊張するなんて。
「神南木さんってさ」
 私の隣を歩く圓道が、いつもの調子で語りかけてきた。「春は切なくなる季節だ」なんて、彼にそんな言葉は似合わない。圓道はいつも同じ態度で生き続けている。 
 大学一年生からの腐れ縁ともいえる関係だが、付き合いが長いとそんな安定した性格に救われることも多い。実際、神南木とともに「人が死ぬ」事件に出くわした際には、彼の存在にずいぶん助けられたものだ。
 圓道はひょんなことから私の再従兄・神南木鮮に興味を持ち、私が彼の家を訪れるときにはよく同行するようになった。はじめは「卒論のネタにしたい」という大義名分で神南木にあれこれと話を聞いていたが、いつのまにか個人的に付き合いを続けたいと思うようになったらしい。「怪奇狩人」を名乗り、「真の怪異はありやなしや」と問い続けることを生業とする変人――一風変わった男、神南木。「労働こそ最大の喜びである」と考えているあたり圓道もそうとう変わった人間だが、そのあたりで気が合う部分があるのだろうか。
 今日も圓道は私にくっついてきて、神南木家にいたる道をともに歩いている。いつもの低い声で、圓道は言葉をついだ。
「スーパーとか行くのかな。俺、あの人がセルフレジでバーコードをピッってやってるところ、想像できないんだけど」
 道路を挟んだ向かい側には、つい最近開業した業務スーパーの建物が見えている。私は軽く微笑み、返した。
「いや。ふつうに想像できるよ、そういうところ。鮮兄ちゃんってすごい世間離れしてるみたいに見えるけど、わりと人間くさい生活してるから……最近になって特に、だけどさ」
 そう――最近になって、神南木はよく外へ出るようになった。怪異の噂を聞けばその場へすぐ赴いたり、SNSで珍しいものを見つければ、そこへ実際に行ってみたり。両親を亡くして以来、ずっと殻に閉じこもる生活を続けていた神南木が、少しずつその行動範囲を広げているのだ。神南木が動くときには私も同行し、私たちはたくさんの「怪異なる事件」に遭遇してきた。
 そのきっかけが何であったのか、私にはよくわからない。そもそも、圓道も私も「神南木がなぜ怪異を追うのか」という質問の答えを、まだ得られないままでいるのだから。
 変わろうとしている……いろいろなことが。圓道も、神南木も。そして私自身と、私を取り巻く環境も。
 胸のうちがまたぐらぐらしてきて、私は深く息を吐いた。「大丈夫か?」と、圓道が聞いてくる。大丈夫、なはずだ。私は頷く。悪いことを報告しに行くのではない。むしろ喜ばしいことなのだから、緊張する必要などないじゃないか。
 神南木家の白い外壁が見えてくる。巨大なリースの飾られた玄関に立って、私は圓道と顔を見合わせた。
 玄関チャイムを鳴らす。たっぷりと、一分ほどの間。やがて扉が開いて、笑みを浮かべた神南木が顔をのぞかせる。相変わらずきっちりと髪を整えて、バーニングバーバーショップのスモーキーな香りを漂わせている。
「やあ。来る頃だと思ったよ。入るといい。今ちょうど、クッキーをオーブンに入れたところだからね」
「お邪魔します。って、神南木さん、クッキーとか焼くんですか!?」
 靴を脱ぎながら、圓道がすっとんきょうな声を上げる。神南木は微笑み、「奥へ」と手で促すだけだった。
「ま、まあ、鮮兄ちゃん料理するの好きだしね……え、でも、お菓子とか作るの初めてじゃない? 私が知らなかっただけ? え?」
 圓道に一番乗りで驚かれてしまったので、私は歯切れの悪い言葉を返すしかなかった。緑あふれるリビングへと私たちを誘いながら、神南木が爽やかに言う。
「世の中はどんどん便利になっていくね。僕は『お菓子を作る』行為において、計量という作業はなんと不誠実なのだろうと長年考えてきたのさ。バター四十グラム、ちゃんとはかりを使って正確に用意しましょうなんてレシピには書いてあるがね、そこには家庭料理における不安定さ、言ってしまえば適当な部分をいっさいないものにしてしまおうという欺瞞を感じるんだよ。ぴったり四十グラム、そもそも家庭用のスケールではかれるわけもなし、ゴムべらについた部分は勘定に入れなくてもいいのか? という苛立ちさえ覚える。多少の誤差は仕方ないと目をつむっておきながら、そのくせ彼らはうるさい教師のように計量の正確さを求めてくるじゃないか。適当にやるから失敗するのだ、なんて仕上がりを人質に取るようなまねをしてまでね。ゆえに、僕は計量というものをすべて済ませた状態の生地が目の前に降ってきやしないかと長年待ち望んできたわけだ――そんな横着な希望に応えてくれる商品などそうそうないだろう、と半ば投げやりになりながらね。だからこそ、あの『焼くだけのクッキー生地』を見つけたときには小躍りしたものさ。こいつは、僕みたいな気むずかし屋にぴったりじゃないかって。計量などという、曖昧にして不完全な工程を丸ごとすっ飛ばしている。そのうえ、型で抜いて焼くだけと、おいしいところだけはやらせてくれるときたものだ。業務スーパーには夢があるね。つつましく平凡な日々の地獄を、ほんの少しだけ極楽に近づけてくれるようなものをごまんと売ってるんだから」
 業務スーパー、という言葉を聞いて、私はつい圓道と顔を見合わせてしまった。笑い合って、また神南木のほうに向き直る。少しだけ緊張がほぐれた心地がした。
「ちょうどそんな話をしてたところなんだよ。圓道くんがさ、『神南木さんってスーパーとか行くのかな、セルフレジ打ってるところが想像できない』って」
「そうかい? スーパーに行く僕など、温泉に入るカピバラほどにも珍しいものじゃないさ。何なら日に三回行ったりもするよ」
 バターの香りが漂ってきた。神南木はキッチンに立ち、低くうなるオーブンの中を覗いている。圓道は伸びた前髪を雑に払い、勝手知ったる様子でソファに腰を下ろした。このところ忙しくて、髪を切りに行けていないのだ。
「『つつましく平凡な日々の地獄』って言い回し、なんかいいですね。あと、日常生活を楽しむ神南木さんも、なんだかすごくいい感じです。見てて、ほっとするっていうか」
 オーブンから顔を上げ、神南木は不思議そうに首をかしげる。口元は笑ったままだ。
「なんだろうね、その言い回しだと、僕が今まで日常生活を鬱々と送ってきたみたいに聞こえるじゃないか。圓道くんの目に僕という人間がどう映っているのかはわからないが、僕は生まれてこのかた――生きることのすべてを、つらいと思ったことなんてないよ。記憶の曖昧な赤ん坊の頃から今に至るまで、ずっとね」
 どきり、と胸が鳴った。圓道も気遣わしげに私のほうを見ている。早くに両親を亡くし、ほんの少し前までは社会とのつながりもほとんどなく、孤独に生きてきた神南木。そう……傍から見れば暗鬱にしか見えない状況であるのに、神南木はいつだって泰然自若としていた。詭弁ばかり披露して、人には理解できないようなことを面白いと思い、いつも静かに笑っている。だからこそ不思議なのだ。たったひとりで完結した人生を送っているはずの神南木が、なぜ「真なる怪異」を追い求めるようになったのか? そしてなぜ最近になって、広い世界へ自ら飛び出して行くようになったのか?
 完成されているはずの神南木は、いったいどこに向かおうとしているのだろう?
 オーブンが電子音を鳴らす。分厚いミトンを手につけて、神南木が天板を取り出す。均一にくりぬかれた丸いクッキーが、おいしそうな香りを漂わせていた。
「あ――ええと、おいしそう、だね。ごめん。お茶でもいれようか。今日あったかいし、冷たいのでいいかな」
 思案が途切れた。神南木に見つめられていることに気づいて、私は言葉を詰まらせながら反応する。圓道がすぐに立ち上がって、手慣れた様子で三人分のグラスを出した。
 神南木はまた微笑み、まだ相当に熱いであろうクッキーを人数分の皿に取り分け始めた。ささやかなティータイムの用意が完了する。圓道と私は、足に刺さる感触の麻のラグに。神南木はソファに座って、私たちを見下ろす格好で落ち着いた。私たちが神南木家を訪れるときの、定番の位置だ。
「いただきます」
「……いただきます」
「どうぞ。真に正確な計量で作られたクッキーだ、味は保証されているとも」
 嚙めば、慎ましいバターの香りが鼻をくすぐる。家庭で焼いた菓子というものは、なぜこんなにも幸せに満ちているのだろうか。
「おいしい」
 一口目を飲み込んでから、私は言葉を漏らす。一枚目を音もなく食べてしまった圓道が、珍しくちらちらと、落ち着かない視線を投げてきた。
「神南木さん、料理がうまいだけに菓子作りもお手の物って感じだよな。真奈華も神南木さんの料理が食いたくて、しょっちゅう家に来てたんだろ? まあ、大丈夫だよ。遠くへ行くわけじゃないし、春からもまた、定期的に顔出せるから。な」
 なんとも、不器用すぎる話題の振り方だ。圓道に向かって眉をひそめてから、私は神南木の正面に向き直る。再従兄は高い位置から、ちぢこまる私の姿を見守っているだけだった。
「そう――そのこと、なんだけどね、鮮兄ちゃん。報告が遅くなったけどさ、私、教材を作る出版社に就職が決まって。職場は都内なんだけど、通勤に便利なところに引っ越そうって、もう新居も決めててさ。つまり、実家から出て引っ越すんだけど、ほんと……遠いところに行くわけじゃないから。仕事始まったら、今までみたいなペースでは来られないと思うけど。でも、来るから……来ていい、よね?」
 就職が決まったこと、実家を出て新居に移ること。ずいぶん前から決まっていたことなのに、なんとなく、神南木には言い出せないでいたのだ。
 変化を――しょっちゅう会ってはとりとめもない話をし、怪異の噂を聞けば、二人でそこに赴くという日常が変わることを――恐れていたのは、神南木ではない。私自身だ。神南木家を訪れる頻度は落ちるが、まったく会えなくなるわけではない。けれど、私はそんな喜ばしいはずの変化に、不安を感じている。神南木にも、隣に座る圓道にも、この気持ちをうまく伝えることはできないのだけれど。
「そうかい」
 神南木は短く、爽やかな声で言って、おもむろに立ち上がった。緑が茂るリビングの片隅に行ったかと思うと、両手に収まるほどの植物を抱えて戻ってくる。真っ白な鉢には、紺と金のリボンが丁寧に巻かれていた。
「そういうことなら、僕からはこの鉢植えを贈るよ。フィカス・ウンベラータ。寒さを避けて、夏場はしっかりと水をやって育てるといい」
「え? プレゼント――ってこと?」
 唐突に贈られたプレゼントに、私はぽかんとした顔で返す。ハート形の葉がかわいらしい、青々とした植物だ。植物の名を聞いたときに、圓道が「ううん」とうなり声を上げたのが、少し気になるが。
「ああ。そういう時期かと思ってね、贈るのにちょうどいい株を見繕っておいたのさ。いい木だよ。かわいらしいし、見ていて元気が出る。土をこぼさないように、あとで持ち帰り用の袋に入れてあげよう。真奈華。就職おめでとう」
「あっ、ありがとう――ございます」
 思いのほか、あっさりと報告が終わってしまった。隣に座る圓道が、私の二の腕を肘でつつく。わかってる、とつつき返して、私は重みのある鉢を丸テーブルの上に置いた。居住まいを正す。乾いた口を茶で湿らせ、声を絞り出す。
「あの、ね。鮮兄ちゃん」
 私のか細い声を、玄関チャイムの音がかき消した。
 神南木はなめらかな動作で立ち上がり、すぐに応対へ向かう。モニターで来訪者の姿を確認しないあたりが神南木らしいというか、不用心というか。圓道は私の顔を見て、大仰に目を丸くした。わかっている。やりづらいことを先延ばしにするのは、自分の悪い癖だって。
 神南木はすぐにリビングへと戻ってきた。手には真っ白な封筒を一通持っている。その顔が珍しく、私が今までに見たこともないほどに、曇っているのがわかった。
「鮮兄ちゃん? 郵便だったの?」
 神南木は頷かず、自分の定位置のソファに腰を下ろした。手紙の封を開け、静かにひっくり返す。開いたその掌に、白い欠片が転がり落ちてきた。
「それって――」
 圓道が戸惑いをまぜた声を漏らした。その困惑の意味をすぐに悟って、私も背筋を伸ばす。白く、乾いていて、見た目にも軽そうな欠片。いびつな形をしているのに、どこか神秘的な美しさを感じさせるその造形。
 骨だ。火葬されたらしい生物の骨。
 封筒の中にはそれ以外に何も入っていなかったらしく、神南木は掌の中の欠片を見つめている。そして口角をかすかに上げて笑った。
「こんなタイミングで受け取ることになるなんて、数奇なものを感じるね。わかる。僕にはわかるよ――これは君の骨だ、柳瀬。そうか。ちゃんと、忘れないでいてくれたんだな」
 それが人骨であることを示す発言に、私と圓道は息をのむ。神南木は掌の中の骨を軽く握りしめ、祈るように目を閉じた。やがて瞼を開け、いつもの調子に戻って言う。
「君たちが今ここにいてくれたのも、何かの縁だ。少しだけ僕の思い出話に付き合ってくれるかい。このままひとりで抱え込んでしまうには、もったいないほど面白くて――苦しい、そんな昔話だから」
 そう言って、神南木はソファの背に身を委ねる。
 折しも降り始めた春雨の音をかき消すように、彼は語り始めた。
 静かで、もろく、砂粒のように小さな輝きを放っていた、若かりし日の思い出を。

(続きは本誌でお楽しみください。)