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この世界はスーパーセックスワールドだ。
私はそのことに気づくのがひとよりたぶん遅かった。だから前職を失った。前の職場で私がしたことについて――しなかったしなかったことについて、それがどれくらい悪いことだったのか、今なおよくわからない。スーパーセックスワールドにおける善悪の基準は複雑で摑みどころがなく、私には理解するどころか問題の把握すら難しくて、あのときから私は、急に自分がサイコパスになってしまったような気分だった。実際私はサイコパスでソシオパスなのかもしれない。だってこの世界はスーパーセックスワールドなのだから。
とはいえどんな世界であれ、生きていくためには稼いでいかなくてはならないので、ひとまず生きることに方針を固めた私は新たな仕事を探す。でもなんかもう一生懸命頑張ってきた大切な仕事を失ってやる気もぜんぜん湧いてこないし、なんだかなあという気持ちで求人サイトをだらだら見る。そして私は女王様の電話番になった。
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駅からほど近い路地裏に建つ、濃い緑色のツタが絡まる白煉瓦の建物。
その三階に私たちの城が入っている。
一階と二階は、それぞれどこか海外の輸入アパレルショップ。一階はモノトーンで統一されたいかにも高級感がある店で、二階は原色を多用した攻めたデザインのお店。あのブランドはいったいなんて読むんだろう、と何語かもわからないアルファベットの綴りを眺めながら外階段を上り、三階の扉にたどり着くころには軽く息が切れている。鍵を開け、扉を開くと、全開のブラインドから夏の太陽がまっすぐ差して部屋を白く焼いていた。時刻は十一時五分前。
「暑い……」
パソコンを立ち上げる前にエアコンをつけた。夜勤の誰かが帰る前に一服するとき、ブラインドと窓を開けるのだ。そして閉めないで帰る。私はコンビニで買ってきたお昼ご飯を冷蔵庫にしまいながら、その冷気に一息つく。災害級の暑さ、とここ数年は毎年ニュースで聞いている気がするけれど、この夏は取り分け冗談抜きで、命の危険を感じている。
パソコンをつけ、充電器にささったピンク色の業務用スマートフォンをチェックした。女王様から、一件LINEが入っている。
『おはようございます。頭痛がつらいので、今日はお休みしようと思います……』
送り主は麗奈女王様だった。立ち上がったPCの出勤表を確認すると、彼女は今日オープンの十一時から夕方まで待機の予定になっている。私は彼女のスケジュールをグレイアウトさせ、満員御礼の表示に変えた。麗奈女王様に返信を打とうとしたタイミングで、固定のほうの電話が鳴った。時刻を見ると、午前十一時。私たちの城の開店時刻だ。
ヘッドセットを着け、PCのツールから電話をつなぐ。
「お電話ありがとうございます。クイーンズマッサージ、ファムファタルです」
あ、あの……と、ヘッドセットの向こうの声が一瞬言葉を詰まらせる。ご新規のお客様だろうか? とツールを見ると、前回の履歴が残っていた。五十代、会社員の男性。
『今日の午後、あの、四時くらいに予約を取りたいんですけど……』
「ありがとうございます。ご希望の女王様とコースはお決まりでしょうか」
『えっと、前回と同じ……あやめ様で、九十分のコースで』
「承知いたしました。……はい、本日午後四時からあやめ女王様九十分コースで、ご予約承ります。ご利用はホテルでしょうか? ご自宅でしょうか?」
お客様は最寄りの駅名と、某大手ビジネスホテルの名前を告げた。チェックインはまだとのこと。履歴のメモ欄をちらりと見ると、前回も同じホテルで、九州のほうから出張で都内に来た際のご利用らしかった。
「承知いたしました。それでは女王様の到着前にお電話を差し上げますので、その際に部屋番号をお知らせください。また前回もお伝えしたのですが、当店の注意事項につきましてあらためてご案内させていただきます」
私は大きく息を吸い込み、目の前の壁に印字して貼られたそのスクリプトを読み上げる。
「当店クイーンズマッサージ『ファムファタル』は、女王様からお客様へのマッサージ専門店です。九十分コースの場合、前半六十分は全身のリラクゼーションマッサージを行い、後半の三十分で性感マッサージを行います。いずれも手のみを使ったマッサージとなり、マッサージ以外のあらゆる性行為のリクエストや、お客様から女王様へ触れる行為は一切禁止とさせていただいております。こちらはご了承いただいておりますでしょうか」
はい、とお客様は素直に答えた。締めの挨拶をして、私は通話を切った。ヘッドセットを外してひとつ伸びをする。コンビニでコーヒーを買ったのを思い出し、冷蔵庫から出す。もう冷気で涼む必要はないくらい、室温も快適だった。
それからあやめ女王様にLINEを送り、予約が入った旨を伝えた。彼女は今日、十五時から二十一時まで待機のシフトになっている。あやめ様はいつも自宅で待機をしていて、彼女の家から指定のホテルまではドライバーの送迎を使う。今日シフトに入っているドライバーは小坂さんと岸田さん。あやめ様の自宅により近い、スーパーの駐車場で待機している小坂さんを使うことにした。ホテルの場所から逆算し、迎えに行く時間をあやめ様にまたLINE、小坂さんにもLINE。それから麗奈様から当欠の連絡が来ていたことを思い出し、彼女にもLINE。
『お休みのご連絡ありがとうございます! 頭痛、大丈夫でしょうか……?? どうぞお大事に、ゆっくり休んでくださいね。元気になったら、また出勤のほうよろしくお願いいたします♪』
打ち終わった文章を読み返して「送信」を押す前に、私は少し考え、絵文字と顔文字をそれぞれもうひとつずつ足した。
研修の初日に、篠田オーナーに教わったことのひとつだ。女の子に送るLINEは、とにかく絵文字や顔文字を多用し、フレンドリーな雰囲気をかもし出すこと。文字だけの事務的なメッセージでは、女の子はこちらが怒っているのではと不安になったり、こちらから軽んじられていると感じて不機嫌になったりするから。
ほんとうに? と最初は疑った。
仕事の連絡なのに、こんな軽いノリの文章を送ったりしていいのだろうか。前職に新卒で入った際にまず教わった、ビジネスメールの書き方とは大きく異なる。それに、女の子といえど、例えばこの麗奈女王様は、私より十一歳年上の三十九歳。舐めていると思われてものすごくキレられたりしたらどうしよう。
けれど麗奈様からは普通に返信が来る。『ありがとうございます!』の文字の後ろには、彼女も泣いているような笑っているような複雑な表情の顔文字をつけている。ポン、とまたひとつスマホが鳴って、ちいさなお花に囲まれたハローキティのスタンプが追加で送られてきた。
ちなみにこのゴージャスなピンク色の業務用スマートフォンは、電話番たちの間で「女王電話」と呼ばれている。主に女王様とのやりとりに使用する電話だからだ。そんな女王電話画面端の日時表示を見て気が付いた。私がこの仕事を始めてから、今日でちょうど一か月。
だから、今はもう慣れた。浮かれたテンションの業務メールでやりとりすることにも、年上の大人の女性を女の子と呼ぶことにも、事務所の壁にエナメルのボンデージや真っ赤な着物やミニスカートの警察官のコスプレ衣装が掛けられていることにも、PCデスク正面に『警察から電話があった場合』と『事務所に警察の来訪があった場合』の太文字のマニュアルが貼られていることにも。
【なにを聞かれても、自分はアルバイトなのでわからない、なにも知らない、管理者から折り返し回答すると言いましょう】
求人サイトでファムファタルの広告に最初に目を留めたときは、自分がこんな環境で働くことになるなんて思いもしなかった。そこには『ファムファタル』の店名も具体的な業種も記載がなく、ただ『女性活躍中のコールセンター』とだけ掲載されていた。
受電専門、女性活躍中のコールセンター!
厳しいノルマなど一切ありません。
駅チカで通勤も便利♪
時給千六百円。
週三日から五日、一日六時間以上勤務可能な方。
昼十一時から午前三時までのシフト制です!
よくあるタイプのコールセンターの求人に見えた。大学時代に春休みの間だけ家電の修理受付のコールセンターで働いたことがあるし、本気で転職活動を始めるまでのつなぎのアルバイトとしてちょうどいいように思えた。ただ、最後の項目のみ引っかかった。昼の十一時から、明け方の三時までのシフト? そんな時間に電話を取る必要のある業種ってなんだろう。
ちょうどうちに遊びに来ていた真梨ちゃんとあすみんに聞いてみると、真梨ちゃんは、通販番組の受付とかじゃない? と予想した。平日の昼間や真夜中にやっているテレビショッピングの電話受付。なるほど、それだ、それに違いないとすっかり腑に落ちた気分でいると、手土産の白ワインのコルクを抜くのに集中していたあすみんが顔も上げずに「いや、風俗っぽいな」と言った。
「風俗の――電話受付っぽい」
「え? うーん、そういう系じゃない感じだよ。普通の求人サイトに載ってたやつだから」私は言った。
「そっか……いや、でも意外とそういうとこってそうだから」
「それに、女性活躍中ってあるし。風俗の受付って男性がやるもんじゃない?」
「いや、女のところもある」
「昼の十一時からやってるんだよ。風俗ならそんな時間やってなくない?」
「いやあ、やってるとこもあるな」
あすみんはどこか玄人っぽい雰囲気を漂わせて渋い声で言った。
私はちょっと心配になった。あすみんが数年前にS嬢として風俗店で働いていたことは、真梨ちゃんには内緒のはずだったから。案の定、真梨ちゃんは「なんでそんなに詳しいの」と笑ってたずねた。あすみんは「私、詳しいんだよ」と答えになっていない答えを言って、でもそれでなんの問題もなく話は終わった。
結局その求人にネットから応募して、すぐに決まった面接の日を待ちながら、私はやっぱり真梨ちゃんの説が正しいだろうなと思っていた。テレビショッピングを見て電話をかけてくるお客さんの注文を取るバイトにつく気でいた。なぜなら風俗店なんていう特殊な職業の求人が、こんな気軽にリーチできる場所になにげなく載っているはずがないので。
面接当日、初めてここを訪れたときは梅雨の真っただ中だった。外の通りに一本だけ植えられたアジサイの花が、湿った風にそよそよ揺れていた。きれいな通りだな、と思ったことを覚えている。大衆向けではない家具屋さんや、陶器や漆の食器屋さんなど、なんとなく俗っぽさの薄いこじゃれたたたずまいの店が多い道だった。駅の近さのわりには人通りも車通りも少なく、ひとつ隣駅の繁華街の喧騒も遠く感じられた。そのときもまだ、こんな町に女王様の城があるなんて思わなかった。
でもそうして事務所に案内され、部屋の一角にあるソファに通され、片隅のパーティションに掛かっているボンデージを見て、私はあすみんが大正解だったことにようやく気づいた。私は彼女を名探偵のように感じてなんだか感動してしまって、にやにや笑いそうになるのをぐっとこらえて面接に挑んだ。面接を担当した篠田オーナーは、胸元の開いた真っ黒なワンピースに、両耳に光る大きな石のピアスがとても印象的だった。
そうして今に至る。
また電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。クイーンズマッサージのファムファタルです」
(続きは本誌でお楽しみください。)