「ルームシェア用の物件ですと、このあたりですね。ぼくのお薦めはこちらのマンションタイプです。共用部分がすごく充実してて」
 増田と名乗った担当者は爽やかな笑みを浮かべ、手元のプリンターから吐き出されてくる紙をカウンターデスクの上に次々に並べていく。生あたたかいそれらにおざなりに目を通し、榛奈はすぐにデスクに戻した。
「こういうのではないんです。私達、シェアハウスを探してるわけではないので」
「あれ、そうですか? 失礼しました」
 増田はすぐに紙を引きあげ、「でもお二人でお住まいになりたいってことですよね」と、パソコンを覗きこみながら確かめた。
「そうなの。二人だけで住みたいんです。水回りやリビングを共有するのは嫌だし、みんなで仲良くみたいな雰囲気も苦手だわ」
 隣に座った竹美さんが、おっとりと答えた。
「だから、ふつうの部屋でいいんです。それぞれに六畳くらいの個室があって、あとは広めのダイニングキッチンがついていれば……」
 増田は顔だけ振り向いて、二人の姿を検分するように上から下まで眺めた。
「失礼ですけど、親子――ではないですよね」
「ないですね」
 小さな丸椅子の上で、二人はまっすぐに彼を見返した。三十過ぎの榛奈と四十代半ばの竹美さんだ。どう見ても親子には見えないだろう。
「姉妹でも」
「ないです」と、榛奈もにっこり笑う。
「ええと、お友達同士ということですか。それでしたら、シェアハウスでなくてもルームシェア可の物件ということになりますが」
「友達ってわけでもないんですよね」
 榛奈と竹美さんは顔を見合わせた。
「あ……なるほどですね。すみません、そういうことでしたら、カップル用の物件をご案内させていただきますね。当社はLGBTフレンドリーな店ですから大丈夫ですよ。とくに女性同士なら歓迎っていう貸主さんも多いんで」
 隣で向かい合っていた人達が振り向いた。カウンターの奥のスタッフ達も、さりげない様子で顔を上げる。「あ、すいません、違います」と榛奈は顔の前で手を振った。
「私達、恋人じゃないです。単なる元同僚なんです」
「あ、でも、恋人って言っちゃったほうがむしろ借りやすいと思いますよ。いまは条例で差別禁止してますし、下手にごまかすよりは、理解のある貸主さんの物件に恋人同士って申し込むほうが審査に通りやすかったりします」
「でも、私達、本当に恋人じゃないからね」
 苦笑いする竹美さんに、増田はキャビネットから抜き出したファイルを開いて示した。
「こちらなんか、ご希望にぴったりですよ。キッチン広めの2DK。前の方がきれいにお使いだったので傷みも少ないですし、お家賃も控えめです。女性の二人暮らしに最適ですよ」
 榛奈は横から覗きこんだ。左上に虹のマーク。窓からは隣家の壁しか見えない築三十八年のマンションは写真で見ても薄暗く、お世辞にも魅力的とはいえなかった。バス・トイレ別と伝えたにもかかわらず洗面台まで一緒の三点ユニットだし、個室は五畳と半端に狭い。なにより、予算よりずっと安い物件を勧めてきたことに腹が立った。私達にはこの程度の部屋がぴったりだと、この人は思うのだ。
「もういいです」
 榛奈は竹美さんの手からファイルをもぎ取り、増田に突き返して勢いよく立ち上がった。
 カランカラン。閉まるに任せたドアのベルが背後で涼しげな音をたてる。
「はずれでしたね。別のとこ行きましょ」
「そうだね」
 竹美さんは切れ長の目を細めて微笑み、今度は大きい駅のほうに行ってみようか、と言いながら白い日傘をふわっと開いた。


 竹美さんは、前の職場の同僚だ。同じ経理部に勤めていた。それほど親しかったわけではないけれど、なにかとやりやすい人だなと好感は抱いていた。気の遣い方が似通っていたように思う。数年一緒に働くうちに、信頼できる人だという印象は揺るぎないものになっていた。榛奈のほうが転職し、もう会うこともないだろうと思っていたら、先月、思いがけず再会したのだ。
「え、上野さん?」
「あら、里中さん! わあ、お久しぶり!」
 首元の弛んだカットソーにカーゴパンツの完全休日スタイルで、駅前広場のキッチンカーに並んでいるところだった。近くでやっているらしい美術展の看板を見るともなしに眺めていたら、見覚えのある顔が通りかかった。思わず声をかけたところ、嬉しそうに駆け寄ってきてくれたのだった。
「こんなところで会えるなんて思わなかった。元気だった?」
「お陰様で。上野さんもお変わりなく」
 手入れの行き届いたブラウンの髪に清潔感のあるシャツスタイル。相変わらずの柔らかな微笑みが眩しかった。
「里中さん、この辺りなの?」
「この近くにアパート借りたんです。いまの職場、実家からだと通勤つらくて。上野さんはどうして……」尋ねかけたところで、さっきの美術展の看板を思い出して腑に落ちた。「あ、あの美術展ですか? 印象派、お好きでしたもんね」
「あ、うん。区役所にちょっと用事もあったしね。絵葉書いっぱい買ってきちゃった」
 ハンドバッグを掲げて見せた彼女は、キッチンカーの看板を興味深そうに眺めた。
「海南チキンライス? おいしそうね」
「お昼まだなら一緒にどうですか。会社の人達どうしてるのか聞きたいし」
「うん、そうしよう。あれから部署が再編されて大変だったのよ」いそいそと財布を取り出しながら、彼女は思い出したように付け加えた。「それからね、私、上野さんじゃなくなったところなの」
 ランチボックスにコップのビールを揃いで買って、芝生広場に直行する。いつものベンチに腰を下ろした頃には、気安く名前で呼び合っていた。
「こんな身軽なの、夢みたい」
 初夏の風に吹かれながら、竹美さんは気持ちよさそうにコップを傾けた。
「榛奈ちゃん、お休みの日はこんな感じ?」
「だいたいこんなです。一人で暇なんで」
 チキンライスを頰張りながら榛奈は答えた。
「図書館と本屋はしごして、ここでだらだらピクニックして夕飯買って帰るっていう。小学生みたいで恥ずかしいんですけど」
 広い芝生は家族連れで賑わっていた。レジャーシートを広げる家族や凧あげをしている親子、きゃあきゃあ楽しそうな声を上げて追いかけっこをしている子供達もいる。彼らを見守っているお母さんは明らかに年下だ。
「いいじゃない。私、ここ好きだな」
「いいでしょう。犬もくるし」
 近寄ってきたゴールデン・レトリーバーに挨拶しながら、飼い主さんと雑談を交わす。
「この公園、お散歩コースにしている人が多いんですよ。顔見知りの子が結構います」
「犬、好きなんだ」
「好きですね。一人だから飼えないですけど、よその子見ながらにやにやしてます」
「ふうん」
 竹美さんはぎこちない手つきで金色の背中を撫でた。ゆっくりと尾を振りながら去っていく犬を優しい眼差しで見送りながら、「小型犬でも無理なの?」と尋ねる。
「無理ですね、勤めてるとどうしても朝から晩まで一人にしちゃうから。保護犬の里親になれたらなって調べたこともあったんですけど、そもそも私みたいなアパート住まいの単身者は飼い主としては不適格なんです」
「不適格」竹美さんが驚いたように繰り返した。「――不適格かあ」
「犬の幸せを考えれば当然のことなんですけどね。私はこの人生では無理ってことです。犬が飼えるくらいの家を買える見込みもないし、結婚もしないので」
 考えなしに口にして、はっと竹美さんの顔色を窺う。しかし竹美さんは気分を害した様子もなく、「いろんなことに見えない資格がいるんだね」と感心したように呟いた。「犬を迎えるためには、家と家族が必要。家を買うためにはお金が必要で、家族を持つためには……」
「結婚が必要」榛奈が続けた。「そして結婚するためには恋愛が必要、なんですよね。私みたいな人間には、はじめから無理ってこと」
 あはは、と明るく笑ったつもりが、悲しいほどしょぼくれた笑い声が響いた。
「榛奈ちゃんの初恋は、まだ来ないか」
 注文した料理の話でもしているような調子の声に、同じトーンで「まだなんですよね」と返す。
 初恋の話は、同僚だったときに一度だけしたのだった。多様性についての研修の日だ。
 みんな寝たふりをしたり、机の下でスマホをいじったりしていた。榛奈は集計用紙を持ち込んでこっそり電卓を叩いていたが、ふと耳に入ってきた言葉に顔を上げた。恋愛感情がない。また、それを理解できない。
「えー、まあ最近はこのように多様な人々がいるということですので、新入社員の中にもいずれ入ってくるかもしれませんから、あたたかく迎えてあげましょう、ってことだよね。まあうちの部署にはそういう余裕もあんまりないからあれだけどね。あっはっは」
 寝ていたとしか思えない部長のまとめが終わらぬうちにみんなそそくさと席を立ち、会議室には榛奈と竹美さんだけが残された。
 竹美さんがプロジェクターの電源を切り、コードを外し、本体をケースにしまっているあいだ、榛奈は集計用紙を凝視したまま脳内で激しく議論していた。
 え、私ってそれ? ふつうじゃない人なの? いや、そうと決まったわけじゃなくない? ――でも、あれって、私あてはまるんじゃない?
 昔から恋愛にまったく関心が持てなかった。恋人のできた友達を羨ましく思ったこともない。無風の学生時代が過ぎ、いわゆる適齢期もまた何事もなく通過したが、榛奈は気にもしなかった。
 たぶん自分の番ではないのだ。きっとそのうち自分にも好きな人ができるのだろう。そうしたら恋する気持ちもわかるのだろう。いずれはそうした誰かと結婚して幸せな家庭を築くのだろう――そう、疑いもなく信じていたのだが。
「あの、上野さん。私、まだ初恋が来てないんですけど」
 気づいたら声をかけていた。彼女はぽかんとした顔で振り向いた。
「それって、私もさっきのやつってことなんですかね?」
「んー?」上野さんは眉間にしわを寄せて首を傾げた。「どうだろ」
「確かに私、恋愛感情とかよくわかんないし、いまのところ未体験なんですけど、でもこれから来るかもしれないわけじゃないですか。然るべき相手が現われてないだけっていうか」
「そうだねえ。私も初恋遅かったしな」使った椅子を積み重ねながら、上野さんは遠い目をした。「高校のときだけどね。部活辞めてすぐ。ほら私、卓球一筋でストイックだったから」
「はあ」
 重なった椅子を壁際に運びつつ頷く。
「里中さんがさっきのどれだかに入るのかどうかはよくわかんないけど、あなたの魂もストイックだってことじゃない? 初恋も忘れた頃に来るかもよ」
 あれから自分で勉強し、ストイックとはどうやら少し異なるようだと理解してからも、彼女の言葉は忘れなかった。自分がふつうじゃないかもしれないという漠然とした恐怖に向き合ってこられたのは、あのとぼけた言葉のおかげだった。
「――なにぶん魂がストイックで」
「うまいこと言うわね」
 竹美さんはおかしそうに笑った。自分で言ったくせに忘れちゃったのかと拍子抜けする。初恋がまだ、のほうは覚えていたのに。
「三十間近でさすがに周りが心配しだして。親切な友達が結婚相手を探してるって同期の人を紹介してくれたんで、恋人っぽいお付き合いをしてみたこともあったんです。でも全然だめでした。気持ちもついて行かないし、どうしても気持ち悪いって思っちゃう。ああ、私には無理なんだ。一生一人で生きていくんだなって」
「そっか。ま、離婚した私からしたら、結婚もそんなに夢のあるものじゃないけどね」
 竹美さんはぷはっと酒くさい息を吐いて慰めるように言った。
「まあ、結婚したいってよりは家族がいたらいいなあって話なんですけどね」
 話しながらおなじみさんに会釈する。年老いたチワワと一緒に散歩している老夫婦だ。あんなふうに人生を一緒に歩んでいってくれる誰かがいたらいいのにと、ときどき憎らしいほど羨ましくなる。でも、あまりにも遠すぎる。月に手を伸ばすようなもの。そうとわかっていて愚痴が止められなかったのは、慣れないビールのせいかもしれない。
「私にだって家族愛はあるんですよ。なのに孤独を運命づけられてるみたいになってるの、ちょっと納得いかないんですよね。ただ一緒に生きてくれる人がいてほしいってだけのことに、なんで資格がいるんですかね」
「ねえ、榛奈ちゃん」
 竹美さんは不意に榛奈の目を覗きこんだ。瞳の奥に強い光が宿っている。
「私達、家族にならない?」
「え?」
 驚いて体を引くと、彼女はふふっと笑った。
「私、家族を捨てたの。夫と娘にはずっとうんざりしてたから、二人で好きにしてちょうだいってようやく言ってやったのよ。でもこれからずっと一人で生きていくぞ、なんて思ってない。かといって、もう恋人とかそういうのから始める気もない。ただ自分に合った新しい家族を作りたいなって思っていたの。信頼できる、気の合う人とね」
 榛奈は彼女の横顔をまじまじと見つめた。冗談や悪ふざけの気配もない。この人がお酒に強かったかどうかは、覚えていなかった。

(続きは本誌でお楽しみください。)