枯れた草を踏むと、木々たちがいっせいにざわめきはじめた。
虫たちの鳴き声が止んだかと思った次の瞬間、ふたたび聞こえてくる。虫たちが声を潜めたわずかな間を置き、今度は鳥たちが小さな囁きを交わす。まるで、自分たちの住処に人間が足を踏み入れたことを、山に住まうすべての生き物たちに教えるかのように。
視られている……。
山に足を踏み入れるたびに、明神マリアはそう思う。
木々の間から、斜面のむこうから。何者かがマリアを視ている。人という異物の一挙手一投足を見逃すまいと、森で生きる者たちが息を潜めてうかがっているのだ。
視線を追おうとしても無駄である。彼等は決して、マリアの前に無防備な姿を晒さない。銃の標的になるのは、そんな山のネットワークから不用意に外れた者だけ。人も同じだ。どれだけ警戒をうながしても、その雰囲気を悟ることのできない者はいる。
獣の言葉を解しないから、本当のところはわからない。だが、マリアには山の生き物たちが、個々で動いているようにはどうしても思えなかった。
山は一個の生き物だ。
そこに足を踏み入れたマリアもまた、山という巨大な生物の細胞のひとつなのである。
道なき道を十分ほども歩いた。
マリアの目が枯葉のなかにむく。数日雨が降っていない。いたるところに泥が固まった痕跡がある。泥であったであろうその土は、細かな凸凹で覆われていた。猟師でなくとも、目を凝らせばその凸凹のなかに無数の獣の足跡を認めることができるだろう。
二本の角が根元でつながったような形の足跡は、猪のものだ。猪は風呂の代わりに泥浴びをする。ここは〝ぬた場〟と呼ばれる猪の泥浴び場だ。大小さまざまな足跡があるのは、群れで使っているためだ。
痕跡は乾いていた。どうやら、長いこと使われていないようである。
ぬた場を抜けたあたり、目的のものが木の根元に見えた。長方形の四角いプレートが、ワイヤーに括り付けられている。プレートにはマリアの名前と住所と連絡先。それに狩猟免許の登録年度と登録番号が記され、最後に福岡県知事の名が明記されていた。
この場に罠を仕掛けているという標識のプレートである。
斜面の下にある川へと道路の雨水を流すための水路が、ぬた場を横切るように切られていた。マリアの立つ場所と水路を挟んで向こう岸にあたる場所に、腰ほどもある草が生えており、それが一ヵ所だけ左右になぎ倒されるようになっている。猪が通って獣道を築いた場所だ。
標識を取り付けた木と水路は、マリアが立っているぬた場から斜面を下りた場所にあった。猪の群れは、ぬた場で泥浴びをした後、水路を飛び越えて草を搔き分けた獣道を通って斜面を下ってゆく。
直接見たわけではないが、マリアにはわかる。
罠を仕掛ける前に、斜面を下って辺りをうかがったが、五メートルも下った木々の表面に、猪が泥を擦った後がいくつも残っていた。体についた虫などを泥と一緒にこそげ落とすための行為だ。
周辺の様子を鑑みた結果、猪たちの動きをトレースして、罠を仕掛けるのに適当な場所を定める。そうして選んだ場所が、水路脇の草場だった。泥浴びをした猪たちは、水路を飛び越える。その時、決まって通る場所が草を搔き分けた一点である。マリアはそこに狙いを絞った。
仕掛けたのは〝くくり罠〟と呼ばれる罠である。
猪の通り道に穴を掘り、ワイヤーでできた輪を置き、仕掛けを踏み抜くと鉄製のバネが跳ね上がり猪の脚をワイヤーが絞めて捕える。
ワイヤーや仕掛けは、枯れ木や草で覆って隠しておく。そのため、人が誤って仕掛けを踏まないように、罠とともに標識プレートを設置する決まりになっている。
水路へと近づき、罠を仕掛けた場所を覗き込んだ。猪を捕えていれば、ぬた場に近づいた時点でわかる。ワイヤーで脚を捕えられた猪が、マリアの気配を悟って動くからだ。
罠に猪がかかっていないことは、はじめからわかっていた。目をむけたのは、罠が荒らされていないかを確かめるためだ。
山の獣たちは頭が良い。猪などは、罠があることを知ると、カモフラージュ用の枯葉をどけて、確かめる。さらに頭の良いものになると、部品を持っていったりもする。
罠は暴かれた気配もなく、そのまま残っていた。
あと三ヵ所ほど、罠を仕掛けている。
斜面を縫うようにして続く道を踏みしめながら登る。枯葉を踏む音だけが、朝靄のなかに響く。仕掛けた罠は毎日確認することを義務付けられている。獣が罠にかかったまま放置されてしまうことを避けるためだ。
一時間ほど山を歩くが、息ひとつ乱れない。都会にいたころには考えられないほど、体は引き締まっている。心身が弛んでいては、山の獣と相対することはできない。日々の暮らしのひとつひとつが、猟に直結している。
二つ目の罠に獲物がかかっていないことを確認すると、一番山奥の罠を目指す。すでに山頂近くまで来ている。表の道を行けば、そろそろ山頂公園の駐車場に着くあたりであった。人のいない山の裏手のほうを、マリアは進む。このあたりは林業を行う者もいないから、猟師であるマリアたち以外には誰も足を踏み入れない。
山頂近くに流れる小川を目指す。わずかな平地に水が溜まって小さな沢になっているあたりに、木の根っこが露出するほど泥を搔き回したぬた場がある。そこからつづく獣道の崖下に、罠を仕掛けていた。
多分かかっていない。そんな予感がする。
このところ、山の雰囲気が違っているように思う。猪や鹿のような大きな獣の気配が感じられないのだ。猟師になって四年。まだまだ、山の気配をどうこう言えるほど、感覚が鋭敏であるとはいえない。だから、勘違いであるとは思う。そもそも、罠猟で獲物が獲れることはめずらしい。新人などは数年間、一頭も獣を捕えられないこともある。獲物が罠にかからないからといって、獣の気配がどうだとか言うことはないのかもしれない。
「うそ」
マリアは思わずつぶやいていた。
せり上がるようにして露わになった赤土が崖の様相を呈している。粘土質のその崖を登った先に、三つ目の罠を仕掛けていた。
崖のむこうから草を擦るような音が聞こえてくる。マリアが近づいてきたことを悟った獣が、四肢を激しく動かしているのだ。
来るな……。
全身を使って威嚇している。
赤土に手をかけて、崖に長靴の爪先を突きたてた。焦らず、手にした槍を杖代わりにして、息を潜めながら一歩ずつ登ってゆく。頂まで登り終えると、階段状にもうひとつ崖がある。その上に沢と大きなぬた場があった。
崖下の赤土が大きく抉られている。罠を仕掛けたあたりだ。抉れた穴の真ん中に、泥に塗れた茶褐色の獣がいた。
(続きは本誌でお楽しみください。)