あくびをしながら煙草とライター、アルミ灰皿を手に、近頃ほとんど寝たきりの祖父の部屋に向かった。

 ノックして、「ええで」と返事を得てから扉を開くと、ベッドの上で体を起こしてスポーツニッポンを開いていた祖父が「おそようさん」と言った。

「おそようさん。吸う?」

「おう」

 祖父に一本差し出し、ライターで火をつけ、ベッドチェストに灰皿を置く。窓を全開にし、ひさしの下に腰かけて、俺も煙草に火をつける。昼下がりの太陽が心地よかった。

「今日もバイトけ?」と祖父はうまそうに煙を吐き出しながら言った。

「このあと三時から。ばあちゃんどっか行った?」

「カラオケ行く言うて出てったで」

「元気やなぁ」

 今のやや空気の重い我が家で、唯一足取りが軽いのが祖母かもしれない。

 次に「律は帰ってきてる?」と目下の悩みの種である、妹について訊ねる。

「おう、おまえが起きる一時間くらい前かな。昼飯食って、部屋行った」

「そうか、いつも早いな」

「せやで、土曜日で半ドンなんやし、たまには寄り道でもすればええのに。友達とか学校でできたんかな」

「どないやろなぁ……ところで、今年の阪神はどない?」

「オープン戦からぜんぜんアカンな」

「去年よりアカンか?」

「去年は一応打ってたからな。今年はとにかく四番の新井が調子悪いわ。真弓政権もこのままやと終わりやろな」

「ドラフトはどないやってん?」

「東京ガスの一位指名が、実業団上がりであれはなぁ。そもそも統一球が俺は気にくわんわ。なんやあれ。まったく飛びくさらん」

「統一球ってなんやっけ?」

「どの球団もミズノのボール使えって、今年からな。加藤との癒着やろ、あんなん」

「加藤って誰や」

「今のコミッショナーや。東大卒でイェール大にも一時期おった、いけすかん」

「イェール大、イギリスか? そらいけすかんな」

「アメリカやアホ」

 野球は体を壊す前からずっと祖父の生きがいだ。

 スポニチを置きベッドチェストの上の毎日新聞を開くと、「東北もまだまだしんどい感じやで」と痛ましそうな表情になる。

「もうそろそろ一年か」

「つくづく、阪神大震災を思い出すわ。家が潰れて、難儀した」

「またその話け。あんま思い出しすぎんなよ、体に毒や」

 地震そのものは直接の記憶には残っていないが、当時家族で住んでいた家が半壊し、別のマンションに居を移していた記憶はわずかにある。

「あぁ……でもあんときわしの連れやら同僚で亡くなったやつも何人かおるしな、人ごとと思われへんわ」

「ニュースも追いすぎんなや、しんどなるで」

 そう俺は重ねて注意した。祖父は日がな一日テレビを見ているか新聞を読んでいるかの生活なので、引っ張られすぎないかが心配だった。今の話だって、ここ一年何度も繰り返している。倒れる前は休みとなれば草野球に励むような男だったので余計にだ。

「ああ、そうするわ……ところで、律ちゃん、ほんまに大丈夫かな?」

 やはり会話はどうしてもここに戻ってきてしまう。

「うーん、事情が事情やし、なかなか学校に溶け込むのには時間いるやろ」

「石尾中は柄悪いし、心配や」

「よう駅前で制服着たまんまのアホがポリさんとやりあっとるしなぁ」

「様子は小まめに見たれや。律ちゃん、神奈川やから、気持ち的に震災の影響も結構あるかもわからん」

「せやな。それはもしかしたら、なんかあるかもしれん」

「被災した友達とか、チームメイトとかもおるかもしれんし」

「せやなぁ」

 神奈川の状況はどれくらいなのだろうか? 東日本大震災はもちろんここ一年、この国で最も重要なトピックだったが、大阪で生まれ育ち、大阪から出たことのない俺にとっては、正直なところあまりリアリティを持って感じられなかった。

「せや、おまえがサッカーの練習付き合ったったらええんちゃうか?」

「ちゃんと『昔サッカーやってた友達にこっちで女子サッカーできるとこないか訊いてみよか?』って訊いたら、今はやる気ないって言うてたで」

「ガチンコチームに入ってやるのと、誰かとボールを軽く蹴るのはまた別やろ。心構えの軽さが」

「俺サッカーなんて小学校以来やったことないしなぁ」

「おまえの運動不足解消にもなってええやろ」

「ほうかなぁ」

 俺は背伸びしつつ煙草をフィルターまで深く吸って、吸い殻を灰皿に捨てる。

 遅れて、ゆっくり味わうように祖父も吸い終えた。

「ほならそろそろ行くわ」と窓を閉める。

「気ぃつけてな。行く前に、律ちゃんに帰りなんか買ってきていらんか、訊ぃたりや」

「そうするわ。行ってきます」

「おう、行ってらっしゃい」

 祖父の部屋を出て、二階に上がり、三ヶ月前までは物置きになっていた妹の部屋をノックする。

「ちょいごめん。いいー?」

「……はい」

「今からバイト行くけど、帰りなんか買ってこよか?」

「いい……ありがとう」

 ここ最近毎日のように聞いている憂鬱な声の響きをその日も聞く。年の瀬から一緒に暮らし始めた十三歳の妹は、誰にも心を許してなくてずっとこの調子だ。

「そうか。まぁなんかあったらメールしてや」

「ありがとう」

 俺はうーんと首をひねってから家を出て、ママチャリに跨がり、自転車で七分ほどのガソリンスタンドへと向かった。



 汗をかきつつ洗車機の排水跡にモップをかけていたら、突然「お仕事中すいません、橘律さんのお兄さんでいらっしゃいますか?」と声をかけられた。ここらでは聞き慣れない訛りのないイントネーションだ。

 目線を上げると、見慣れない臙脂色の制服を着た女の子がそこにいた。

 橘は母の再婚相手の苗字、つまり律の旧姓。今は俺と同じ高崎だ。

「律の前の学校のお友達?」

「いえ、学校は違って……チームメイトです」

「もしかして神奈川から来たん?」

「はい」彼女は頭を深々と下げた。「突然失礼すいません。私は律さんと同じジュニアユースチームに所属しておりました小田みさきと申します」

 そして鞄からわざわざ学生証を取り出して俺に差し出した。一応名前を確認し、すぐに返す。

「なに? 律を呼んできたらええん?」

「いえ、あの……私の個人的な理由から律さんのご家族にお話がありまして……けれど連絡先を知らなくて、ご無礼ながら職場まで失礼しました」

「逆にどないしてバイト先を?」

「ご自宅のご住所は知っていたので……本当はお出かけになられるタイミングで声をかけようとしたんですが……すいません」

「はぁ、そらえらいこって。まぁええっすよ、俺……僕は暇やし。なんや律には内緒にした方がええ感じの話ですのん?」

「はい。ご無礼かと思いますが……」

「あー、いらんいらん。頭下げんといてください。ちょっとしたら暇できるさかい、どないしよ、あの事務所で待っといてもらえる?」

 俺はガソリンスタンドの奥にある、従業員室兼客対応の事務所を指さした。

「いえ、お仕事が終わるまでホテルで待ちますので……」

「ホテルぅ? なんや小田さん、もしかして家出とかですか?」

「いいえ、親から許可を得てこちらに来ております。ご心配でしたら、私の電話から親に繫ぎます」

「わかったわかった。ほんならあそこで適当に座っといてください。すぐ交代で休憩やし、わざわざ来直してもらうのもお互い手間やから、別にいてもらうの迷惑ちゃいますし」

「でしたらお言葉に甘えさせてもらいます」

 小田さんは頭を下げ、事務所に入り、パイプ椅子に背筋を伸ばして座った。

 同僚がやって来るのを待ち、少し事務所を使うとだけ告げて交代を済ませる。

 事務所では小田さんはまっすぐ正面を見つめていて、ガラリと扉を開けると、緊張気味に身をすくめた。

「なんかジュースいる? お茶もあるけど」とドリンクサーバーを軽く叩く。

「大丈夫です」

「うーん、でも僕が奢るわけちゃうし。喉渇いてなくても、一杯くらい手元に置いといたらどうですか?」

 そう言うとぎこちない雰囲気で立ち上がり、紙コップにコーラを注いだ。

 俺はコーヒーを注ぎ、事務所の椅子に腰かけた。

「神奈川から親御さんの許可を取ってくるってことは、結構重要な話なんやろね。別に急ぐわけやないけど、堅い前置きはなしで、本題からいこや」

 小田さんは軽く呼吸を整え、頷いた。

「はい、そうします。ありがとうございます……少なくとも私にとっては、大事な話です」

「うん」

「その……律さんにどうにかサッカーを続けさせて欲しいんです!」

「いや、その、別にぜんぜん僕らがやらせたくないとかじゃないですよ。あんま詳しいことはわからんけど、やりたいなら応援するし、って言ってるねんけど、本人がもうええって言うもんやから……うーん」

「そうじゃないんです!」

 小田さんは先ほどまで抑えていた感情が噴き出したかのように前のめりになった。

 俺は首を傾げた。この子がなにを思い詰めているにせよ、実の母親が病死したあとの子どもがしばらく無気力に陥ってしまうのは別に普通のことではあるまいか。

「話が見えんのやけど、よければそう考える理由を教えてくれませんか?」

「これは律さんには絶対内緒にして欲しいのですが……」

「正味、僕も律とは暮らし始めてまだ三ヶ月やし、それまでろくに連絡とってへんかったんですよね」

「律さんから、少し聞いております」

「ほなら正直に話せる友達がおるのはええことやね。っちゅーわけで、小田さんの方が僕より付き合い長いやろし、いろいろ知っとるんやと思います。その上で、一応……保護者」

 俺はそこまで言って自分に呆れた気持ちになった。俺が保護者? だが、事実そうなのだ。俺は大人で、妹は子どもで、俺たちは一緒に暮らしている。

 律の、かつ俺の母は癌で亡くなり、母の再婚相手は連れ子だった律を迷わずこちらに押しつけてきた。震災で事業を飛ばしたとかなんとかいう噂だったが、身内としては引き取れて正直ほっとしたところもあった。

「まぁ、せやね、だから小田さんから見て律の家族が知っとくべきと思うことなら、話してください。神奈川からわざわざ足を運んでくれるくらいの友達の言うことなら、信用しますわ」

 小田さんは一度深呼吸すると、切々と物事を語り始め、話しながらぽろぽろと涙を流した。

(続きは本誌でお楽しみください。)