一瞬、鳩の鳴き声が聞こえた気がした。
けれども、雨宮秀一が鍼を探る手を止めて耳をすますと、来院した客の靴を脱ぐかすかな音が聞こえているばかりで、鳩の鳴き声はそれきり聞こえない。
聞き間違いだったかな、と思っていると、ふたたび、〝ぽっぽー〟という鳩の声。今度は間違えようもない。まごうことなき鳩の声である。
「うん」と声を発したのは、度会動物鍼灸院の院長、度会新である。雨宮にとっては年長のまたいとこにあたる人物で、今は雇い主でもある。雨宮はこの秋から、鍼灸院でアルバイトをはじめていたのだ。
やや髪を伸ばし気味にした、眠そうな目の持ち主の度会は、眠そうな目をさらに細めながらもう一度「うん?」と言った。「案内しますか? 度会先生」と声をかけると、右手と左手の指先を合わせた芝居がかった格好のまま、「鳩?」とつぶやいた。
「鳩でしょう」
「鳩じゃない可能性もあるじゃないですか、ほら、外の鳴き声が聞こえてきたとか」
「壁に穴が空いてないとそんなことにはならないでしょ」
なんだってそんなしらじらしい雰囲気なのだろう、と考えてから、一拍遅れて、雨宮には度会のためらいがのみこめてきた。
つまり、あまりないということなのだろう。患畜として〝鳩〟がくることは。
「あの、すみません、開いてらっしゃいますか」
受付から呼びかける声がしたというのもあってか、度会は観念した様子で施術室からでていった。
後ろをついて雨宮も受付に入る。ドアの向こうには飼い主がいて、ボストンバッグのようなキャリーを持っていた。
「こんにちは」
度会は挨拶もそこそこにバッグの中を覗きこむ。なにが入っているのだろうと思いながらちらりと見ると、もぞもぞと体を震わせるそれは、あきらかに犬や猫ではない動物─鳩であった。
「珍しいですか、鳩は」と飼い主が尋ねてくる。度会は曖昧な笑みを浮かべていた。
通常、動物病院にやってくる動物というのは、おおむね犬か猫で、それからハムスター、うさぎと続いている。要するに、実際に飼われているペットの総数に比例した生き物がやってくるというわけで、それ以外の動物がやってくることは比較的少ないのだ。
とはいえ、そうした意味でいえば鳥もメジャーなペットの一員なのだから、動物病院に持ちこまれる頻度としては決して少なくはないのだろうけれども、度会の様子から察するに、この鍼灸院には鳩はやってはこないのだろう。
「動物病院、鳥は鳥専門でやってるところが多いですからね」と小声で度会。
「難しいのですか」とささやき返すと、度会は意味深長な笑みを浮かべてくる。
「かわいいでしょう」
熱心にバッグを覗きこむ二人に飼い主が言った。雨宮が改めて一瞥すると、飼い主は六十代くらい、精悍な面持ちの男性で、上背は百六十センチほどだろうか、上品な灰色の帽子をかぶった、豊かなあごひげの持ち主であった。
「ルチア号といいます」
「号?」
「レース鳩なんです。競馬の馬とかと一緒で、名前のあとに〝号〟が付く」
バッグを持ち上げながら飼い主は言った。レース鳩、なるほど、と内心でうなずくけれども、雨宮にはなんのことだかさっぱりわからない。
「塚本と申します。遠藤さんにご紹介をいただきまして」
「ああはい、遠藤さん」
常連の名前なのだろう。度会は訳知り顔でうなずきながら、問診票とボールペンを塚本に渡した。
「ご存知ですか、レース鳩」
「いえ、ぜんぜん。なんのレースですか?」と度会。雨宮は、度会もわからないのかと少し安心する。
塚本は椅子に腰掛け、問診票に記入しはじめた。患畜の情報を書くのに迷いのないあたりは、動物病院の類にはよくかかっている飼い主なのかもしれない。
「レース鳩。育てた鳩でレースするんです」とボールペンで書きこみながら塚本。
「ルチア号はですね、そのレースのタイムが遅くなってきておりまして、それで診ていただこうかと」
「なるほど」
度会はうんうんうんとうなずくが、雨宮は気になって、
「レースって、どこでするんですか」
と尋ねてみた。競馬なら競馬場で、犬のレースなら犬のレース場で行われるだろう。だが鳩のレースはどこで行われるのだろうか。というより、鳩にレースはできるのだろうか、と疑問に思う。レースをする、しないといった以前に、自由になった鳩は好きなところへ飛んでいってしまうのではあるまいか。
「そうですよね、あんまり、知名度的には、ですよね。鳩レースって」
塚本は苦笑し、それから、おそらくそういった説明を何百回もしているのではないか、というような慣れた口調で、
「鳩レースというのは、競馬みたいな決まったコースというものはないんです。人間で喩えるなら、目隠しでどこかへ連れて行かれて、それである地点で解放されて、なんの手段を使ってもいいから家に戻ってきなさい、そういうルールというか、そんな感じのレースなんですよ」
と塚本が説明してくれるけれども、雨宮にはいまいちぴんとこない。鳩を目隠ししていく? 籠にでも入れて持っていくのだろうか。鳩の飼い主たちはレースの当日になると、鳥籠に自分の鳩を入れて、三々五々集まってくるのだろうか。
「レース中、鳩はどこかに行ってしまわないんですか」
塚本は得意そうに口の端を持ち上げながら、
「それが行ってしまわないんですね。鳩たちは鳩舎までちゃんと帰ってくるんです。帰巣本能というのがありまして、そのおかげで棲んでいるところに帰ってこれるんです。鳩レースというのは、スタート地点から自分のところの鳩舎に帰って来る速さを競う競技なんですね」
「でもそうすると、鳩舎とレース場の距離が近い人のほうが有利になってしまいませんか?」
雨宮は改めてバッグの中を覗きこんだ。レース鳩というからにはふつうの鳩とは違うのだろうけれども、雨宮にはその辺りの公園にいて、なにやら地面をついばんでいる鳩との違いはわからなかった。
「そのとおりです。なのでどうやって勝敗を決めているかといいますと、鳩レースというのは〝分速〟で勝負をするレースなんです。参加者はおのおのの鳩を籠に入れて持ち寄り会場に連れて行くんですが、そこで鳩の登録をします。こういう、この」
塚本がルチア号の脚を指さした。そのとき、雨宮ははじめて、ルチア号の脚に、柿色の輪っかがはまっていることに気がついた。
「脚環といいます。個体番号と飼い主の連絡先が書いてあるんですが、レースのときにはチップの入っている脚環をはめて、それをパソコンで選手登録するんです」
「最新なんですね」
「最近はだいたいパソコンですね。それで会場で登録をしましたら、全参加者の鳩が大きなコンテナに詰めこまれまして、スタート地点である放鳩地にトラックで連れられていくんです」
「飛んだほうが速いでしょうね」
「それはそうでしょうね」
塚本はあきれもせずに答えてくれる。
「それで、日時を定めて一斉に放鳩を行うんです。どこぞの河原とか、広い駐車場とか、そういうところから早朝に、何千羽、ときによっては何万羽という鳩が一斉に飛んでいくのです。まあ壮観ですよ」
雨宮は〝平和の式典〟みたいなパレードの開会式に、白い鳩が一斉に飛んでいく風景を想像した。あの鳩はどこへ行ってしまうのだろう、と子供の頃に考えたことを思い出す。手から離れてしまった風船みたいに、どこか遠くまで行ってしまって、それきり、もう会えなくなってしまうのではないだろうか、と思って塚本に尋ねると、
「ああ、あの式典の鳩も、どこかの会社の鳩なことが多いので、会社の鳩舎に戻ってくると思います」
「あっ、そうなんですね」
雨宮は少し拍子抜けした。帰れない鳩はいなかったのである。
「その後は、飼い主は放鳩された時刻だけ教えてもらって鳩舎で待っているものでして。だいたい時速はどれくらいで、距離がこれぐらいだから、このぐらいの時間に帰ってくるだろう、そういう目算をして、それならまあ、それまでに鳩舎の掃除をして、空模様を見て、コーヒーでも飲んで待ちますか、という具合で待っているんです」
「待っているだけとは、なかなか心細いですね」
「そうなんです」
塚本はうんうんとうなずく。
「道中、鳩にはさまざまな障害があります。タカに襲われたり、ハヤブサに襲われたりします。そうした障害を物ともせず帰ってくる、その瞬間がたまらないんですよ」
しみじみと塚本は言う。本当にたまらないのだろうというような、実感のこもった物言いである。
「それでさっき分速で勝負をすると申しましたが、ここでタイムがわかります。リリースポイントから鳩舎までの距離を時間で割って、出てきた速さでどの鳩が一番速かったかを競うわけですが、ルチア号はですね、その分速が徐々に遅くなってきているのです」
「タカとかに襲われて、怪我をしているのではないですか?」と度会。
「もちろん、その可能性も考えました。獣医にも見せたんですが、なんでもないと言うんです。健康ですよって。歳のせいじゃないかってね。まあ、それならそれでよいのですけれども」
度会は雨宮に耳打ちするように「セカンドオピニオンですね」とつぶやいた。
バッグの中のルチア号は、首を上に伸ばしたり下に縮めたりしている。バッグから見えるはじめての鍼灸院に、驚いているのか悲しんでいるのか、それとも怒っているのか、いずれかだろう。あんまりストレスを感じていないといいな、と雨宮は思う。
「なので、おそらく〝帰巣本能〟が弱ってるんじゃないかって、そう思っているんですよ」
塚本はこともなげに言った。すると、そこまで調子良くうんうんとうなずいていた度会が「うん?」と語尾を上げた。
「鍼で治ったりはしませんか、そういうのは」
塚本が期待をこめた目で度会を見るので、雨宮も釣られて度会を見た。なんだかよくわからなくなってきた、と思いながら。
(続きは本誌でお楽しみください。)