第一話 待兼山ヘンジ
1
妙子がポストの中の小包に気づいたのは、夫の四十九日の法要が終わった翌日の朝のことだった。
茶色の薄紙の表には白いシールが貼られ、黒のサインペンで自分の名前だけが書かれている。裏書きには何もない。切手も住所もなく郵便物でないことは明らかだった。不審に感じた妙子は開封していいものかどうかためらった。そうしてもう一度、宛名を見た。
沖口妙子様。
見覚えがある。クセのない、几帳面な文字。ただ、妙子の「妙」の文字のつくり、「少」の文字が、どこか人が目尻を下げて笑った顔に見える。
久志の筆跡だ。
久志は妙子の名前を何かに書くたびに、いつもそれを面白がった。
「ほら、まるで妙子が笑っとるように見えるやろ?」
「ほんまや。これがほんまの絵文字、いうか、顔文字やね」
そんなことを言って笑いあったことを、今も鮮明に覚えている。結婚前、付き合い始めた頃だから、もう三十五年近くも前のことだ。
しかし、久志は、もうこの世にはいないのだ。
だとすれば、この小包は……。
胸騒ぎを覚えた。
小包を指で中身を探るように、そっとさすった。数センチほどの厚みがあり、硬い固形物の感触だった。
本?
家の中に戻ってはさみを探すのももどかしく、玄関先で糊付けされている小包の上部を指で裂いた。
中に入っていたのは、やはり一冊の書籍だった。
題名は
『待兼山奇談俱楽部』。
なんだろう、これは?
書店でよく見かける単行本と同じサイズだった。ベージュ地の表紙の中央に、何色というのだろうか、暗い灰みがかった赤茶色の四角い囲みがあり、そこに金色の横書きで題名が刻まれていた。題名から感じられる怪しげな雰囲気とは裏腹に、上品な装丁だ。
背表紙を見る。題名の下に「待兼山奇談俱楽部 編」とある。
待兼山、という言葉に聞き覚えはなかった。
ページを開くと、短い「まえがき」があった。妙子は文字を追った。
ようやくみなさまにこの本をお届けすることができました。
この本が出る頃には、もうこの世から消えている「待兼山駅」の名の記憶と、この街の思い出をこうして形にして残せたことは、私たちにとって無上の喜びです。
この本が「待兼山駅」を愛していた全ての方々にとって、いつでもたどり着くことのできる「駅」となることを願ってやみません。
待兼山奇談俱楽部 代表 今澤敦己
待兼山駅という駅名にも奇談俱楽部という言葉にも、今澤敦己という名にも、何も思い当たるところがない。
ただ「駅」という言葉を目にして、心にさざ波が立った。
そこに、久志の「気配」を感じたのだ。
聞いたことも、どこにあるのかもわからない「待兼山駅」に、久志が佇んでいる。
そんな光景がふと脳裏にうかんだ。久志はそこで微笑んでいる。
「待兼山奇談俱楽部」の名前をスマホで検索してみたい衝動に駆られ、本を閉じて羽織ったパーカーのポケットに手をやった。
いや、その前に。
妙子、ページを開いて、読んでくれ。
久志のそんな声が聞こえたような気がした。
期待と、怖れが幾分か混じった緊張のせいだろうか。少し震える指で、妙子はもう一度、そっとページを開いてみた。
2
「今ちゃん。マンハッタン・ヘンジって、知ってるか」
淹れたてのコーヒーを一口すすって、仁ちゃんは自慢の大きな鼻を指で搔きながら私に言った。
「マンハッタン・ヘンジ? さあ。初耳やなあ。馬の名前か?」
カウンターの中でコーヒーカップを拭きながら、私は首をかしげる。
違うがな、たしかにそんな馬、園田競馬あたりで走ってそうやけど、と仁ちゃんは笑う。
「ほな、ストーン・ヘンジは、どうや?」
「ストーン・ヘンジ……ああ、それやったら聞いたことあるわ」私はうなずいた。「たしか、イギリスやったかな。野っ原に、でっかい石を並べて、積んだるやつやろ。えらい昔の。あれ、なんて言うの、巨石文明、言うんかな」
「そうそう」
ぐっと身を乗り出す。仁ちゃんのウンチク癖にスイッチが入った。
「昔、『月刊ムー』とかによう載ってた、あれや。目的は、今でもようわかってないらしいけどな。夏至か冬至かの時に、ちょうど石を並べて積んだ隙間に、すっぽりと夕日が落ちるらしいで。農耕の暦やとか、信仰の祭礼のためやとか。そんなんに使うてたとか言われてる」
仁ちゃんは、本名は本間高仁。名前はたかひと、と読むが、小学生の時から高仁の仁は「仁丹」の仁や、ということで、いつしか仁ちゃん、というあだ名になった。待兼山駅前の線路沿いの商店街で戦前から続く実家のパン屋「ほんま」を継ぎ、今や三代目主人だ。ちなみに「ほんまのパン」は今も地元で絶大な人気を誇っている。
「ほんまのパン」は待兼山駅の西口、私が書店の二階で経営する「喫茶マチカネ」は東口の駅前にある。「待兼山駅」は梅田から来ると宝塚方面と箕面方面の二つの路線がここでY字形に分岐していて、つまり西口と東口の行き来には二つの踏切を渡ることになり、結構不便なのだが、仁ちゃんは忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ「喫茶マチカネ」に週に四、五回ほどやってくる。小学校を卒業して四十年近く経った今でも、今ちゃん、仁ちゃんと呼び合う気安い仲だ。
「で、仁ちゃん、その、イギリスのストーン・ヘンジと、マンハッタン、と、何か関係あるんか」
「ああ、それや。マンハッタンってな、高層ビルが林立してるやろ。摩天楼とかいうてな。まあ、俺も実際にはニューヨーク行ったことないから知らんけど」
「映画とかで、よう観るよな」
「それでな、ある夏の日に一日だけ、マンハッタンの高層ビルと高層ビルの間の細い隙間に、すっぽりと夕日が落ちるのが見えるストリートがあるらしいんや。それがえらい綺麗な風景らしいてな。地元の人間は、その風景を『マンハッタン・ヘンジ』って呼んでるらしいわ。ストーン・ヘンジをもじってね」
「ほう。なるほどね」
仁ちゃんは目を輝かせて言った。
「それでな、つい、さっきのことや。この店に来る、途中のことや」
「どうした?」
「待兼山駅の西口大通り、あそこ、改札出たら、道がズドンと西に延びてるやろ」
待兼山駅は西口、東口共に、駅前は路地が迷路のように張り巡らされている。西口の改札前の通りは待兼山駅前では唯一の、自動車も出入りできる大通りだ。私は相槌を打った。
「今ちゃんの店行く前に、銀行のATMでお金下ろそう思てあの大通りを歩いとったら、ちょうど、マクドナルドの前あたりで、目の前の道の向こうの雑居ビルの間に、沈む寸前の、でっかい夕日が見えたんや。その風景が、もう、息を吞むほど美しいてね。何人かは、立ち止まって、ぼうっと見てたわ。イタリア人やったら、あそこで『ブラボー!』とか言うて拍手しそうな。そんな雰囲気でな」
仁ちゃんの声に熱がこもる。
「あんまり綺麗なもんやさかい、俺もしばらくぼうっと突っ立って、夕日が完全に沈むまで見てたんや。そしたらな。マクドナルドから出てきた若いカップルが、俺の隣で同じように沈む夕日を眺めてて、その女の子の方が、ぽそっと言うたんや」
「ほう。なんて?」
「これって、『待兼山ヘンジ』やね、て」
「はあ。『待兼山ヘンジ』ねえ。その子は、『マンハッタン・ヘンジ』のことを知ってたんやな」
「若い子らはうまいこと、言うなあ、と思うて、俺、感心してな」
私は仁ちゃんの話を聞いて、たまらなくその風景を見たくなった。しかしもうとっくに日は沈んでいる。
「あたし、それ、知ってるよ。『待兼山ヘンジ』」
厨房で作業していた繭子が出てきて口を開いた。私たちの話が聞こえたのだろう。
喫茶マチカネはさほど広くない店だ。カウンター席が五つに、四人がけのテーブルが二つ。二人がけが、入り口近くと窓際に一つずつ。普段は私一人で店を切り盛りしているが、客が混み合う早朝とランチの時間だけは妻が手伝い、夕方過ぎからはアルバイトを使っている。今日は夕方五時から繭子が入っていた。しかし今日は夕方を過ぎてもずいぶん暇だった。
「おお、繭ちゃん、知ってるんか」
繭子は両眉を上げ、兎のようなくりんとした目をいっそう大きくしてうなずいた。栗色に染めたショートボブからのぞく、サクソフォンの形をしたイヤリングが揺れる。
「うん。阪大生の間では、結構有名やよ。仁さんが聞いた、マクドから出てきたカップルも、きっと阪大生やわ」
「ああ、阪大生か。うん、そういうたらちょっと見た目、かしこそうやった」
待兼山駅のすぐ近く、歩いて十分もかからない場所に大阪大学の豊中キャンパスがある。そもそも駅名の由来となっている標高八十メートルほどの待兼山は、今はこの大阪大学の豊中キャンパスの中に位置している。他に吹田キャンパスと箕面キャンパスがあるが、メインは豊中キャンパスで、サークル活動も豊中キャンパスで行われることが多いため、待兼山の商店街にも学生たちの姿が目立つ。
繭子は大阪大学の三回生だ。文学部のゼミで民俗学を勉強しているという。
「なんで有名かっていうとね、ちょっとした都市伝説があるねん」
「都市伝説?」
「うん。都市伝説、て言うてしまうと、おどろおどろしいけどね、あの、『待兼山ヘンジ』が見える日の夕方、日が沈む瞬間にあの路上でプロポーズすると、恋が成就するっていう伝説」
「へえ。めっちゃロマンチックやん」
仁ちゃんの声が一オクターブ上がった。
「つまり、その伝説の日が、今日、ちゅうわけやな」
私は壁のカレンダーを見た。一月十一日。
「俺な、そんな映画、観たことあるで。学生の頃。たしかな、イタリアのヴェネチアにある嘆きの橋の下で、日が沈む瞬間にキスしたら、二人は永遠の愛が手に入る、ちゅうような話やったわ。当時、付きおうてた女の子と観に行ったんや。キャンディーズの伊藤蘭ちゃんに似ててな」
知らんがな、と繭子が絶妙のタイミングでつっこんだ。
私もその映画を観たことがある。ダイアン・レインのデビュー作だ。待兼山の商店街の中の映画館で観た。その映画館も今はなくなり、跡地はスーパーになっている。ダイアン・レインは、今、どうしているのだろう。永遠の愛を手に入れただろうか。
「その『待兼山ヘンジ』の伝説を信じて、プロポーズしたって言う人、私、何人か聞いて知ってるよ。みんな、うまいこと、いってるねん。結婚した人もおったしね。うんうん」
繭子は自分の言葉に納得するように首を縦に動かし、目をパチクリさせながら続けた。
「けど、普通、プロポーズって、クリスマスやん。年が明けたこのタイミングって、プロポーズするには微妙やったりするんやけど、それでも、伝説を信じて、わざわざこの日にしたり、クリスマスにプロポーズしそびれた人がこの日にチャレンジするんやて」
仁ちゃんがその話に乗ってくる。
「関西は一月十日は『十日戎』で、十一日は『残り福』やしな。さしずめ『待兼山ヘンジ』は、恋愛の『残り福』やな」
「そうそう。ワンチャンある、ってやつ」
仁ちゃんと繭子が盛り上がる。
「けど、雨が降ったり、曇ってたりしたら、夕日は」
私はちょっと意地悪なことを言ってみた。
「それがね」
繭子は大きな瞳を目いっぱい開いた。
「不思議と、『待兼山ヘンジ』の時は、晴れるんよね。朝方や昼間、曇ってても、夕方にはね。恋愛の神様か気象の神様か知らんけど、粋なことするよね」
面白いなあ、と仁ちゃんはひどく感心し、そして腕組みしながら天井を見上げて言った。
「けど、不思議や」
「うん。不思議な伝説や」私はうなずいた。
「いや、そうやなくて」
「何が?」
「そうかてな。俺、もう五十年以上、長いこと、この街に住んでるんやで。そやのに、今日初めて、あの大通りから見る夕日が美しいことに気がついたんや。これまで、何回も夕日を見てたはずやのに」
「そんなもんかもしれんよ」私は言った。「旅先ならともかく、自分の住んでる街の夕日なんか、そんなにじっくりと眺めることはないんと違うかなあ」
そうかなあ、と仁ちゃんがまたコーヒーをすする。
「あのう、よろしいですか」
カウンターの端っこから声が聞こえてきた。
「ああ、沖口さん」
沖口さんは、いつもカウンターの隅で、一人で静かにコーヒーを飲んでいる。ここ十年ほど前からお店に来ているお客さんで、最初の頃は誰とも口をきかなかった。もっともうちの店ではそういうお客さんは少なくない。一階が書店ということもあって、そこで買った本を静かに読んでいる人も多い。そうして一人でいるお客さんにはこちらから話しかけることはない。話したい人は話せばいい。黙っていたい人は黙っていていい。みんな自分の心地よいスタイルでコーヒーを飲んだらいい。それが喫茶マチカネの流儀だ。
(続きは本誌でお楽しみください。)