「美しい秘密にみち、暗い秘密などを心にもたぬ

人間についてぼくは何もいうことはできぬ。

内に暗い秘密をもたぬ人間は

語るべき何もないからだ」

――モーリアック『テレーズ・デスケルウ』

(遠藤周作・訳)


[序]


 彩和にはもともと、不幸や不運を想像しすぎるところがあった。想像の中で生み出される不幸や不運は、驚くほど細部にわたって本物そっくりであり、まだ何も起こっていないうちから彼女自身をひそかに苦しめた。

 時々、ひどく疲れ果て、うんざりした。すべてが煩わしくなり、いっそ不幸になってしまえばいい、そうすれば不幸に怯える必要がなくなる、などと考え、投げやりになったりした。

 めったに羽目を外さないが、ごくたまに、彩和は奇妙に大胆なふるまいに走ることがあった。投げやりな想いにかられているうちに、自分が強くなったような錯覚を覚えるからだった。そんな時は不安が吹き飛び、力がわいてくる。それまで身を縮めて周囲を窺い、びくびくしていたのが、急に背筋を伸ばしたくなってくる。

 とはいえ、それは酒の酔いで一時的に気分がよくなった時の状態に似ていた。酔いは長続きしない。酔いから覚めれば、まもなくお定まりの不安が頭をもたげてくる。それまで以上に鮮明に、不幸や不運の兆しがありありと見えてくる。

 前へ前へと進んでいたつもりなのに、気がつけば、同じところにとどまっている。これではまるで、足踏みをしていたにすぎないではないか、と思ってうなだれる。彩和の人生はその繰り返しだった。

 子どものころ、とりわけ夏の体育の時間が苦手だった。プールで水面に顔をつけたまま、教えられた通りに必死になって、正しいフォームを意識しながら平泳ぎを続ける。水面から顔をあげ、息を吸うのは怖かった。口や鼻から水が入り、むせ返るのではないか、と恐怖にかられるからである。不安は心拍数をあげる。息苦しくなるが、それでも顔をあげることができない。彩和の平泳ぎは、息継ぎをしない平泳ぎだった。

 目を閉じたまま、両手両足で水を搔いた。何度も何度も搔いた。そうこうするうちに、十メートルほどは泳げたのではないか、と思われてくる。息苦しさも限界に達し、慌てて水面から顔をあげる。

 目を開けて愕然とする。十メートルどころか、まったく前に進んでいない。目に映る風景は、先程とまったく同じで何も変わっていない。

 プールサイドで、水着姿の同級生たちが、人を小馬鹿にしたような笑い声をあげている。指笛を吹き鳴らしてくる男子児童もいる。同じところにとどまったまま、必死になって水を搔き、泳いでいるつもりになっていた。そんな恥ずかしい姿をクラスのみんなに見られていたのである。

 夏の陽光が、燦々ときらめきながら水に溶け、揺れていた。空はいちめんの群青色だった。

 恥ずかしさと疎ましさのあまり、そのままプールの底に沈んでしまいたくなって潜水を始めるのだが、それすらうまくいかなかった。何度やっても、尻だけがぽかりと水面に浮いてしまう。顔をあげるのはいやだったし、かといって、赤面しながらこそこそとプールから出ていくのは、もっといやだった。仕方なくそのままじっと土左衛門のようになって水面に浮いていた。

 顎を引き、水の中に隠れようとした。かろうじて耳まで水に浸かった。耳元でやさしい水の音がしていた。同級生たちの騒々しい声が遠のいた。透明な水色の繭の中に入ったように感じた。

 おそるおそる目を開けた。数メートル先のプールの底に向かって、幾筋もの淡い虹色の光が斜めに射し込んでいるのが見えた。

 息をのむほど美しい光だった。どうやれば、あの美しい虹色の光の射すところまで泳いでいくことができるのか。百回、水を搔いても前に進めない。千回搔いても同じ。三十センチも進むことができず、同じところにいるだけ。

 だが、不思議なほど肉体的な苦痛はなかった。息をとめていることすら、苦しく感じなかった。ただ、美しい虹色の光だけが目の前にあった。

 目指す場所に、人はなかなか容易には辿り着けない。ふと意識すると、目指していた場所とは異なる、まるで違うところにいて、あたかもそれが当たり前だったような気になっている。

 そう考えると、不思議なほど身も心も楽になった。不安が消えていくのがわかった。それは、死を見つめながら、一切を受け入れて生きている時の静けさと似ていた。

 以来、その抽象的な体験は、苦しくなった時の彩和の、ひそかな処世術となった。



 かつて、彩和は夫から、蛇をかたどった銀色のブレスレットを外国土産として手渡されたことがある。

 夫は仕事でイタリアをまわり、帰国したばかりだった。ミラノの裏通りの小さな骨董店で見つけたというそれは、素人目に見ても、高価な品物ではなさそうだった。女性向けの気軽な外国土産としては、可もなく不可もなし、といったところだが、デザインが珍しいものだからこそ余計に、俗悪な安っぽさのようなものも感じられた。

 そのころの夫が、彩和のためにわざわざ丹念に土産ものを選ぶわけがなかった。偶然目に留まった物を深く考えずに買い求め、妻への土産と称しているだけなのだろう、と彩和は思った。

 蛇の小さな目の部分には、サファイヤに似た、青いラピスラズリの石がはめこまれていた。縞模様が彫られた細長い身体を環にして、自分の尾をくわえている。全体が少しごついせいか、ブレスレットというよりも、「腕輪」と呼ぶほうがふさわしい気がした。

「珍しい蛇ねえ」と彼女が言うと、部屋着に着替えた夫は「ただの蛇なんかじゃない、ウロボロスだよ」と低い声で訂正してきた。

 言い方に明らかな険があった。窓の外では、秋ののどかな午後の光が、まだ紅葉していない、青々とした楓の葉を照らしていた。

 ウロボロス……紀元前の古代エジプト文明で誕生したとされる守護神。魔よけ。縁起物。死と再生。ものごとが終わることなく永遠に巡り続けることの象徴。自らの尾をくわえ、飲み込み、肉体を消し去り、それを栄養分として蓄え、再び無から有を生み、再生し続ける、といった言い伝えがあり、場合によっては蛇ではなく、龍のこともある……といったことを彼は彼女に向かってまくしたてた。始終、胃痛に悩まされている教師のような、ぞんざいで、そのくせ、ひどく押しつけがましい説明の仕方だった。

 ありがとう、嬉しい、と彼女は言い、無邪気を装って左腕にはめてみせた。サイズはちょうどよかったが、少し重たく感じられた。長くつけていたら、腕が疲れてしまいそうだった。

 だが、夫にはそんなことはおくびにも出さなかった。とっておきの笑顔を作り、腕を宙にかざし、素敵よ、ほら見て、と何度も繰り返しながら、青いラピスラズリの嵌まった蛇の目を指先で撫でた。

 夫は彩和に背を向け、居間のキャビネットを開けてウィスキーを取り出した。ジョニー・ウォーカーの青ラベル。当時、気にいって毎日のように飲んでいた高級ウィスキーだったが、彼はその琥珀色の液体を小さなショットグラスに注ぐなり、立ったままひと息で飲み干した。にがい水薬を飲む時のような、まずそうな飲み方だった。

 その時点で彩和はまだ、不貞を犯してはいなかった。いずれ犯すことになるかもしれない、という予感めいたものもなかった。ましてや夫婦間のことについて、具体的な怯えや不安があったわけでもない。

 情欲それ自体は淡いものに過ぎなかった。精神的なもののほうがはるかに大きかったので、道をあやまることになるかもしれない、という恐怖心もなかった。

 それどころか、よくあるその種の不貞が、ごくありきたりの、うんざりするほど通俗的な結末を迎えることを彩和はよく承知していた。

 それが原因でかつて痛い目にあったわけではない。そんな経験をしたことは一度もない。その方面の情熱は彩和にはもともと希薄だった。だが、当時の彩和には、もし自分がここで一歩前に踏み出せば、そうなっていくであろうことだけは察しがついていた。

 厄介なことになる、とわかっていながら、自ら進んでそんな事態を招くのは馬鹿げていた。それがなくては生きていけないほどのことでもなし。避けられるものであるなら、注意深く避けて通り過ぎるべきだった。

 人はふつう、煩わしい問題をふたつも三つも同時に抱えては生きられないようにできている。あちらに噓をつき、こちらにも噓をつき、自分自身にも噓をつかねばならなくなる日々は願い下げだった。

 彩和のその賢明さは、その後の彼女の人生を決定づけた。欲望に負けて不貞に走った女が抱え込むような、凡庸な後悔、幼稚なナルシシズムや感傷に惑わされることと無縁でいられたのである。

 その代わり、彼女は思ってもみなかった巨大な十字架を背負う羽目になった。世間に掃いて捨てるほどある、不貞の果ての罪滅ぼしのための十字架ではない。道徳的宗教的な意味合いにおいての十字架とも異なる。

 それは人が二度と、決して贖うことのできない、生きていることそのものの原罪を意味する十字架だった。


(続きは本誌でお楽しみください。)