1章
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大学三年で深海と出会った瞬間、佐治は自分の分身を見つけた気がした。
似ているところなんて全然ないのに、どうしてそう思ったかまるでわからない。第一印象は「黒」。縮れた烏色の髪、初めて出会ったときに着ていたライダースジャケット、そして心も黒かった。深海はポーカーフェイスで噓吐き、人の心の垣根を平気で踏み越えてくるクセに、自分のことは全然喋らない。
ゼミ懇親会二次会のカラオケで佐治は、「北斗の拳」のオープニングテーマ「愛をとりもどせ!!」を選曲した。だがサビのハイトーンボイスが全然出ずに爆死していると、そこに深海が飛び込んできた。
俺との愛を守る為 お前は旅立ち 明日を 見うしなった
微笑み忘れた顔など 見たくはないさ 愛をとりもどせ!!
深海は見事サビを歌いきったあと、ケンシロウの声真似で「お前はもう死んでいる」と決め台詞を吐いたので佐治は「ひでぶ」と言った。まわりはわけもわからず白けきっていたが謎の達成感があり、その夜深海は佐治のアパートに遊びに来た。
埼玉出身の佐治は地元の熊谷高校を卒業して大学進学とともに上京した。大学から僅か二駅の東小金井に叔母夫妻が住んでおり、やり手の叔母の持ち物件の一つを格安で借りることができた。部屋は四階でエレベーターはなし、五畳ワンルームの狭さで収納ゼロ。それでも東小金井駅徒歩五分という好立地は学生身分には上々だった。
懇親会の夜以来、深海は佐治のアパートに入り浸った。佐治も深海も顔が良かったから、大学で合鍵をやりとりする二人の姿を見て女たちは悶えた。だが人を見た目でしか判断できない馬鹿どもなんざどうでもいいやという感じだったので、二人は気にせず大学構内でやりとりをつづけた。
佐治のバイト先は自転車で行ける近所のミニストップで、深海はレアなキックスを多数揃える吉祥寺のスニーカーブティックで働いていた。二人とも金は大してなかったから、外食は滅多にしなかった。腹が減ったらレトルトのカレーやパスタを作ったり、野菜を適当に茹でて食べた。
食後は大抵、東小金井駅の反対のロータリーにある大吹書店まで歩いて出かけた。駅近にTSUTAYAやゲオはなく、このローカル書店が唯一の文化供給源だ。書店とは名ばかりで、フロアの八割方はDVDレンタルコーナーだった。何度か通ううちクエンティン・タランティーノ似の店主と懇意になった。店主はときたまマシンガンな早口でおすすめ映画を紹介してくれたし、最高にご機嫌なときには二本目の映画を無料でおまけしてくれた。
映画を毎日、一日の残り時間から逆算して一本から数本レンタルして帰り、深夜まで上映したあと就寝するのがお決まりのルーティンだ。深海は哀川翔を贔屓にしており、「黒沢清のVシネマ時代に出てる哀川さんはマジで最高」と三日に一度は熱弁するのでだるかった。他方、好みの幅は広く、オールタイムベストの一本はフェリーニの『道』。
「俺はもう何度も見てるんだけどお前にも見せたい」と言って深海が『道』をレジに持っていくと、いつも饒舌なタラ似の店主が珍しく唇を引き結んで一言も喋らず会計したので、さては店主、博覧強記と見せてイタリア映画には疎いのか、あらら化けの皮剝がれちゃったね、的な雰囲気が少しだけ立ち込めた。「イタ公の映画なんてクソでしかない!」などといまにも叫び出しそうな気配がした。だが別れ際、佐治たちを送り出す彼はむしろ静かなムードをまとっており、最後に佐治たちに向かってこう言った。
「よう、楽しめよ。人生をな」
部屋に戻り、DVDをプレーヤーにセットして鑑賞を始める直前、深海は佐治に言った。
「もしこれを見て心が何も動かなかったら、たぶんお前は人間じゃない」
一○八分の俺たちの沈黙。
そして映画は終わりを迎える。「寝ようぜ」といつものように深海が言う。慣れた手つきで壁に引っ掛かった寝袋を降ろしてフローリングに直に敷く。深海は普段から寝付きがよく、カチコチの床の上でも横になってすぐに寝入ってしまう。
灯りを落とした部屋でシングルベッドに横たわり天井を見つめ、傍らの静かな寝息を聞きながら、佐治はその夜、友人が大事な宝を分け与えてくれることのうれしさを何度も反芻した。満ち足りた気分で眠りについた。
以来、『道』は佐治にとっても最高の映画の一つになった。
大学三年の一年間で、佐治と深海は五百本を超える映画を見た。そして四年が近づくと、インプットからアウトプットへと移行する。
二人が所属する文芸創作ゼミでは、卒論の代わりに卒業制作を行う。佐治は小説や批評やノンフィクションの代わりにゲームを自作すると決めた。いかんせん金がないため、深海と一緒にいないときはネット上で自由にダウンロードできるフリーゲームでよく遊んでいた。WOLFRPGエディター、ティラノビルダー、LiveMaker─ゲーム制作ツールの多くはゲームソフトと同じく無料でダウンロードできたし、その取り扱い方もネットを見ればいくらでも情報が手に入った。そしてシナリオ作りには、これまで大量に見てきた映画が役立った。
最初の数ヶ月、手始めに五分程度で終わるカジュアルゲームをいくつか仕上げた。自分の制作の休憩中に深海がプレイして、佐治に感想を伝える。
「料理に喩えるなら」と深海は言った。「『食える粘土』」
「犬も食わない」
「いまのところはな。ただ俺は普段ゲームをしないから、どうすればよくなるかわからない。ゲーマーどもに意見を仰げ」
深海のアドバイスに従ってインディゲームの投稿サイトに手製のゲームをアップロードする。何度か投稿をつづけるとコメントがつきはじめた。それからは次の作品にコメントの意見を反映するようになる。しばらくして、おもしろかった、というコメントが初めてつくと、座椅子からケツが五センチくらい浮かび上がるような気持ちがした。
以後、自慰行為を覚えた猿のようにゲーム制作に熱中した。作品投稿のたびに感想コメントをくれる常連ユーザーもできる。そのうちの一人、ユーザーネーム「アリエル」と、何度かやりとりしたあと、プライベートな連絡先を交換する。お互い東京住まいと知って盛り上がる。池袋で彼女と会い、なけなしの金で酒を飲み、終電を逃してネカフェに泊まった。目を覚ますとアリエルがブラウスをはだけ、半裸で佐治の上に馬乗りになっていた。
アリエルは片手で佐治の口を塞ぎ、もう片方の人差し指をたてて自分の唇にあてた。佐治の脳内に戦争シミュレーションゲームの光景が広がっていた。味方陣営は青、敵は赤だ。敵勢力が佐治の国の領土に攻め入ってくる。青色をした佐治の要塞が次々に陥落し、コワイ赤色が画面を占有してゆく。
翌日からメンヘラが発動する。鳴り止まない鬼電、無視をキメ込んでいたら鮮度最高のリストカット写真がメッセージボックスに届く。たまらず別れようと返信すると、すぐに既読がつくもノーリアクションで、翌日も翌々日も無反応。終わったのだろう、と踏んで佐治はすぐに彼女のことを忘れてしまう。
しかし一ヶ月半後にサプライズが訪れる。
国分寺駅前のスターバックスで、アリエルは佐治にエコー写真を見せた。
「佐治くんの子供だよ」
なんかぜんぜん生理こなくてさ、おかしいな? って思って、近所のお医者さん行ったら陽性だったんだよね。え、いやいや、冗談とか噓でこんなこと言うわけないでしょ、怒るよ?
深海は爆笑した。俺も佐治の子供を拝みに行かないとな、などとほざく。翌日午前中、佐治とアリエルの待ち合わせ時間に合わせて深海も新宿の大病院にやってくる。
診察室でアリエルは過呼吸発作を起こし、改めてのエコー撮影は失敗する。医師の提案で尿検査に切り替わる。けれどもアリエルはどうしても尿意が湧かないと言う。すると深海は自販機でボルヴィックを買ってきてご丁寧にキャップまで開けてやり、アリエルに「飲め」と言う。アリエルも負けない。トイレ行ってもおしっこ出ない、だってそれより先に吐いちゃうから、という謎理論を強弁してさらに粘った。
深海は真っ向から彼女に取り合わず、またおもむろに席を立つ。新しいボルヴィックを買ってきてキャップを開けた。
「飲め」
明白に憎悪の込もった声で言った。
十五本のボルヴィックを空にした後、アリエルはついに根負けして検査を受け入れた。
「持参されたエコー写真ですが」と医者は言った。「コピーですね。たぶんネットか何かの」
医師が最終的な結論をくだす。「陰性です」
待合室に戻り深海に伝えると、「噓発見器的には陽性だがな」と彼は言った。
外に出るともう夕方だった。アリエルはオレンジに染まるアスファルトにうずくまって泣き出した。別れたくない、と言った。歩み寄る素振りを示す佐治に、おい、と深海が呼びかけた。
「そいつはもうほっとけよ」
佐治は迷い、女を見た。突っ伏したその姿は聖地に向かって祈りを捧げる巡礼者のようだ。
「ほっとけ」
先刻よりも幾分強い語調で深海は繰り返した。深海の目も、夕日を浴びてめらめらと燃えている。
「さもなきゃもう、俺は行く。お前はどうする」
深海は佐治の分身だった。佐治には深海のいまの心がわかる気がした。ここいらで、きっちり選べ。俺を取るか、女を選ぶか、二つに一つだ。
─答えるまでもない問いかけだった。だが答えを表明することには、僕たちの世界を一変させてしまうほどの大きな意味がある。
深海は這いつくばって泣く可哀想な女になんざ目もくれず、佐治に向かって手を差し伸べた。
薫、と下の名前で佐治を呼んだ。
「薫。おいで。俺と楽しいことをしよう」
男たちの日々が更新される。
深海は就活をしなかった。スニーカーブティックのシフトを徐々に増やし始めていた。卒業後は正社員として登用される見込みがすでに立っていた。
佐治は卒業までに百本のフリーゲームを作ると目標を立てる。だが結局これは叶わない。作れば作るほどこだわりが増えた。細部までじっくり練り込むようになり、新作に取りかかるたびに制作は長期化した。サイト投稿作の大半は相変わらずのガン無視。けれどもときどきプチ炎上し、たまには小さなバズも起きる。
何日も徹夜で作業に没頭し、ある日曜の深夜、作業に一区切りつくと、一人で『未来世紀ブラジル』を見ていた深海がキッチンに向かい、勝手知ったる調子で二人ぶんのコーヒーを入れて片方を佐治に差し出しながら言った。
「佐治。ゲーム、卒業制作じゃなくて仕事にしろよ。たぶんお前には才能がある」
大学卒業とともに佐治は三軒茶屋の小さなゲーム会社に入社した。
初めて関わった横スクロール2Dアクションゲームがいきなり異例のヒットを飛ばした。だが年上の同僚に功績を横取りされた。アイデアを盗まれたと抗議したが信じてもらえず、「新人なんだから身の程をわきまえろ」と容易く却下された。とにかく生意気な新人。上司にも目を付けられ、陰湿ないびりに遭った。社内で聞き入れてもらえないならば出るところに出ますよ、と伝えたら、即日クビになった。解雇理由は同僚へのいじめと上司への恫喝だ。
それでも佐治の心はビクともしなかった。むしろせいせいする、今後も腐った会社で働きつづけるなんてこちらから願い下げだ。
へっちゃらなのは、深海がいつでもそばにいるからだ。ただそれだけですべての傷がかすり傷になった。
甲賀土山インターで名神高速を降りると、そこは緑深い山の中に通された県道だ。ゆるやかな坂を下りて平地になり木々のシェードが取り除かれると、平屋が余裕を持って広々と立つ住宅街が現れ、入道雲の横たわる高い空が広がった。無駄に広いローソンの駐車場で、長旅途中の大型トラックが何台も羽を休めている。
家族を除けば、佐治が人生の時間を共にした一番長い相手は深海だ。だが彼は無類の噓吐きで、人の心の垣根を平気で踏み越えてくるクセに、自分のことは何も喋らない。知り合って七年経つが、未だに知らないことがたくさんあるようだった。
深海の生まれ故郷を訪ねるのも初めてだ。
時代とともに何もかもが変化する。学生時代に世話になった大吹書店も、ネットフリックスとAmazonプライムビデオが揃ってサービスを開始した二○一五年以降、急速に売上を縮小していった。昨年、区画整理の煽りを受けて、とうとう閉店を余儀なくされた。
─よう、楽しめよ。人生をな。
かつて、タランティーノ似のレンタルビデオ店主が佐治たちに言った。
僕はこれからも、お前と共にある人生を楽しみたかった。
深海は自殺した。十日前のことだ。
(続きは本誌でお楽しみください。)