一章 千菊丸
朝なのか夜なのかわからない、この一時をどう名づけようか。
安国寺にある道場の入り口で、千菊丸はひとりそんなことを考えていた。
嗅ぐ匂いに朝の気配が滲みはじめるが、まだ風景は夜のままだ。星が歌うように瞬いている。宿坊や僧堂から人が起きる様子はない。先ほど柄杓一杯の水で洗った顔はまだ湿っている。指をつかって、前髪やまつ毛についた水滴を拭った。誰かが見ているわけではないが、自然と背がのびる。
誰よりも早く起きて、この一瞬を味わうのが齢十一の千菊丸の密かな楽しみだ。だが、それを穢すものもある。境内から漂ってくる酒の匂いだ。本堂や道場の裏に回れば、酒樽も転がっているだろう。
千菊丸のいる安国寺は十刹といわれる禅宗の官寺だ。修行を積む雲水たちの僧堂もある。が、その内実は惨憺たるものだ。毎日のように酒宴が開かれ、遊女が呼ばれることも珍しくない。
起床を知らせる振鈴が道場の一角から鳴った。稚児たちの起きる気配は伝わるが、雲水らの眠る僧堂は静かなままだ。
「千菊丸、早いな」
振鈴を鳴らした若い雲水が、燭台を手にやってきた。
「やっておきますよ」
この一時を邪魔されたくないので、燭台を受け取り玄関に灯りをともす。
「助かるよ。これでもう一眠りできる。ああ、暁鐘も頼む」
本来ならここから、般若心経などの読誦や五体投地の修行が僧堂ではじまるはずなのだが、雲水はあくびをこぼしつつ奥へと消えていった。暁が近いことを報せる鐘を千菊丸がつくと、暗い空に音が沁みていく。何も聞こえなくなっても、千菊丸は余韻を味わいつづけた。うっすらとだが、山際の闇が薄まりはじめる。朝の匂いがさらに強まった。
「ははは、今宵の女は上等であったな」
「誰がものにできるか勝負だな」
「それはよいが、実家の格でつるのは禁じ手ぞ」
安国寺の山門から酒気とおしろいの匂いを撒き散らす僧侶たちが現れた。その中には、厳しい修行をしているはずの雲水もいる。
「お帰りなさいませ」
千菊丸は静かに頭を下げる。
「千菊丸よ、随分と早起きだな」
「さては前世は鶏か」
「ちがう、ちがう。千菊丸も我らと同じで朝帰りだ。なあ、そうだろ」
品のない軽口だが、住持たちが遊郭へ行く際の隠侍を稚児が務めることはままある。嫌味のない愛想笑いをはりつけて、からかいをやりすごした。
ふと、何かが舞うのがわかった。
「あ、お待ちください。落ちましたよ」
僧堂の玄関をくぐる雲水が、一枚の反故紙を落とした。掌におさまるほどのものだ。拾いあげると、小さな文字が書きつらねてある。
「その公案はもう昨日の参禅で透過した。捨てておいておくれ」
振り返りもせず、雲水はいった。掌の中に視線を落とすが、暗くて読めない。灯りの下へやったが、揺れる火のせいでますます文字は不明瞭になる。
*
千菊丸らの一日は学ぶことで満たされている。完全に日が昇ってから、他の稚児たちと一緒に境内の一角にある学房へと入っていく。横に長い文机が並び、大勢の稚児が座っている。老僧侶が教える内容を、必死に紙に書き連ねていた。
まだ得度していない千菊丸らに求められるのは、あたうかぎり中国の書を吸収することだ。それが、一生を左右する。大御所足利義満とその息子の四代将軍、足利義持が盤石の支配を敷いている。幕府が重視するのが明国との交易で、そこで活躍するのが漢籍に長じた禅宗─中でも臨済宗の僧侶たちだ。
千菊丸ら稚児は論語などの四書五経を徹底して学び、漢詩などの五山文学の素養を身につける。学識や文学の才が認められれば、格上の寺で得度することができる。
それは、母の望むことでもある。
『千菊丸、立派なお坊さんになるのですよ』
数え六歳の千菊丸を、禅寺へ入れてくれたときの言葉がよぎる。たびたび床に臥す母のためにも、千菊丸は一日たりとも無駄にはできない。
なのに、今日は筆の進みが遅い。手元にあるのは、夜明け前に雲水が落としていった反故紙だ。そこには、こう書かれていた。
─犬に仏性、有りや無しや。
─師、答えていわく。
─無。
これは『趙州無字』の公案だ。臨済宗にとって公案は絶対だ。その数は、一千以上ある。公案の答えにたどりつくことを、透過という。公案を透過するほど、悟りの境地に近づける。だが、公案を禅問答と揶揄することがある通り、意味が不明瞭なものも多い。
得度していない千菊丸らは、まだ仏教がいかなるものかは教えてもらっていない。とはいえ、耳学問で自然と仏の教えにはなじむ。仏教において、無とは一体いかなるものか。
無常、無我の例を出すまでもない。
無の境地は、扇の要だ。
犬に悟りの素質はあるか、と問われ師は「無」と答えた。
普通に考えれば否定である。犬は、悟ることができない。
しかし、〝無〟という様が〝有る〟ともとれる。
犬に無常、無我の境地が〝有る〟ならば、それは犬に仏性が有ることに他ならない。
知の興奮が、千菊丸の全身を愛撫した。この公案は、まるで漢詩のように美しい。
あたうなら、今すぐにこの見解を老師にぶつけてみたい。だが、見解は独参場─師匠と弟子のふたりきりの密室でしか開陳してはいけない。そして、時にひとつの公案を透過するまでに何年、あるいは何十年とかかることもある。
だが、今の千菊丸ならば─
「千菊丸、何を遊んでいるんだ。五山入りはあきらめたのか」
横に座っていた稚児が、不審げな目で尋ねる。
「そういうわけじゃないけど、ちょっと今日は集中できないんだ」
「どうだかな。噂では、千菊丸は随分と実家の格が高いらしいじゃないか」
必死に勉学する稚児たちだが、例外もいる。高位の公家や守護の子息たちだ。彼らは半端な学識でも、上位の寺に易々と入山できる。
「どうだろうな。実家のことは、私もよくわからないよ」
とぼけたわけではない。出自については、母が公家の血をひいているとしか教えてくれなかった。母は今、京の外れの薪村というところで、千菊丸の乳母とふたりで暮らしている。母の葛籠の中には、源氏物語などの高価な書があることも知っている。
だが、時折、その母が朝廷の女官だったという噂が耳に入ってくる。
「千菊丸が羨ましいよ。うまく五山の寺で得度できても、田舎の殿原の三男坊のおいらは先が見えている」
そう愚痴りつつも、稚児は筆を手放そうとしない。
禅寺は、室町幕府による五山と呼ばれる制度で厳格に序列化されている。
頂点は別格とされる南禅寺、その下に相国寺や建仁寺などの五山と呼ばれる五寺、次にここ安国寺や大徳寺などの十刹の十数寺、その下には諸山と呼ばれる二百以上の寺。
五山や十刹、諸山の中にも厳格な順位があり、安国寺は十刹の四位だ。序列を決め、塔頭などの住持の任命権を握っているのが室町幕府である。が、禅寺も支配されるだけの存在ではない。別格南禅寺や五山の実力者になれば、その権勢は一国の守護に匹敵する。将軍側近として隠然たる力を発揮する禅僧もいる。それがゆえに、禅寺の女色や酒食も黙認されている。それだけでなく銭を土倉などの高利貸しに貸し与え、利鞘を稼いでいる。
*
夜になって宿坊に戻っても、稚児たちのやることは変わらない。月明かりの下で必死に稚児たちは書をくる。酒や魚の薫りがただよっていた。境内のどこかで、僧侶たちが酒を吞んでいるのだろう。女の嬌声が聞こえるときもあるので、今夜はまだましなほうだ。
オンバサンバエンテイ……
時折、夜回りの雲水の真言が聞こえる。雲が出て月明かりが翳った。何人かが恨めしそうに天を見上げる。
「ちょっと風に当たってくる」
千菊丸は、ひとりで宿坊の外へと出た。大きな法堂や仏殿が鎮座している。瓦が月明かりを反射していた。
オンバサンバエンテイ……
何かがおかしい。夜回りの雲水の真言は、遠くにも近くにもいかない。声の主は止まっているのか。これでは夜回りの用を成さない。千菊丸は足音を潜めて声の方へと向かう。
「おい、もっと大きな声で真言を唱えていろ」
「そうだ。でないと聞こえてしまうだろう」
千菊丸の眉宇が固くなる。押し殺した泣き声も聞こえてきた。
「奈多丸よ、そう悲しむな。下稚児は我らを慰めるのが仕事ぞ」
「これは修行なのだ。ありがたく思え」
はらわたが腐ったかのような不快が込み上げる。見張り役の夜回りの雲水に真言を唱えさせて、その間に男色にふけっているのだ。
犠牲になるのは、下稚児と呼ばれる子たちである。そもそも、四書五経などの学問が学べる稚児は一部だ。上稚児と呼ばれるが、そのためには金が必要だ。どうやって母が金を工面したかはわからぬが、千菊丸も上稚児として安国寺に入れられた。
一方、金を払わずに稚児になるときもある。食うことに困った家が、子を稚児として寺に売る。あるいは寺の前に捨てる。そんな下稚児たちは、四書五経を学ぶことはない。昼は雑務をこなし、日が昏れると僧侶や雲水たちの男色の相手をさせられる。
女犯を禁じられた僧侶たちは、稚児を抱いて欲望を散じている─のではない。稚児は灌頂という儀式をすることで、神の化身になるといわれている。つまり、神になった稚児を抱くことで、僧侶や雲水たちは修行を積んでいるのだ。無論、それが欺瞞にすぎぬことは、幼い千菊丸でもわかる。
勉学もままならぬ下稚児は、この先、どこかの寺に入山することはできない。僧侶たちの慰みものになり、声が変わるころになると寺を追放される。
「千菊丸、何をしているんだい」
両肩がはねた。いつのまにか、すぐ背後に瘦身の雲水がいる。恐ろしく背が高く、千菊丸を見下ろしている。
「千菊丸も、下稚児の子たちと一緒に修行をしたいのかい」
雲水の笑った顔は恐ろしいほど酷薄だった。千菊丸の脇の下から冷たい汗が流れだす。
「せ、摂鑑様、私は上稚児です」
なんとかそう絞りだした。この摂鑑という雲水が毒牙にかけるのは、下稚児ばかりでない。隙や落ち度があれば、上稚児といえど容赦なく標的にしてきた。それをもみ消せるだけの家柄を、摂鑑は持っている。
オンバサンバエンテイ……
夜回りの真言の声がさらに大きくなる。少々叫んでも宿坊には聞こえぬぞ、と脅しているかのようだ。
「千菊丸、ぬかったと思っているだろう」
ゆっくりと近づいてくる。気づけば、人の気配に囲まれていた。先ほどまで暗闇で痴態を繰り広げていた雲水たちだ。汗の匂いの中に生臭いものが混じっていた。恐怖と吐き気が、千菊丸の喉を締めつける。
「私の母は、帝に仕えていた女官ですよ」
雲水たちの足が止まった。真言の声も一瞬だけ止まる。今はこの噂にかけるしかない。
「それは噓だな。じゃあ、お前の母の生家をいってみろ」
「噓じゃない。本当です」
必死になって千菊丸は反駁する。早鐘を打つ心の臓が、口から飛び出るのではないかと思った。
「やはり、いえまい」
摂鑑は大胆にも数歩、千菊丸へと近づく。
「手を出すな。私の家は……母はあなたなんかよりずっとえらいんだ。私に無礼を働いてみろ。母の一族は、きっとあなたを許さない」
精一杯の力をこめて、摂鑑を睨む。そして、取り巻きの雲水たちを見た。
「摂鑑様だけじゃない。あなたたちもだ」
目に見える動揺が生じた。雲水のひとりが摂鑑へと近づく。
「今夜は、危うい橋を渡る必要はないのでは」
「そうです。万が一、噂がまことだったとき、厄介です」
摂鑑の顔が一瞬だけ歪んだ。が、すぐに元に戻る。
摂鑑が首で、行け、と命じた。
針のような目差しを感じつつ、千菊丸は摂鑑たちの前から去る。真言の声が徐々に小さくなっていく。稚児の泣き声だけは、なぜか耳朶にこびりついていた。
*
汗をかきつつ歩く千菊丸の目の前に、小さな庵が見えてきた。
「あら、千菊丸様」
乳母の楓が目を見開いた。三十半ばになったはずだが、まだ若々しい。
「どうして戻ってきたのです。まさか、寺を追い出されたのですか」
「ちがうよ。二日の暇をもらったんだ。京の町でいい匂い袋があったから、母上に持っていこうと思ってね」
「まあ、そんなことならば誰かにことづければいいものを」
そういって楓は目尻を下げた。どうやら母恋しさのあまり、口実を見つけて寺から出てきたと思っているようだ。庵に近づくと、桜の若木があるのがわかった。安国寺に入ったころは、千菊丸と変わらぬ背丈だったが、今は庵の屋根ほどの高さになった。しかし、母からの文ではまだ花を咲かせる気配はないという。
「母上は大丈夫かな」
母は気鬱の病で床に臥せることが多いので、訪ねるときはいつも気を遣う。
「今日は具合がよいようです。源氏物語を読んでいますよ」
中へ入ると、はたして文机に向かう母がいた。歳は三十になったばかり。白い肌は、都で見るどの女人よりも美しいと思った。押板の上には、青磁の花器に竜胆が生けられていた。
「母上」
「まあ、千菊丸、どうして」
驚いた母が、源氏物語を取り落とした。千菊丸は匂い袋を恭しく手渡す。
「そんなことよりも、勉学は順調なのですか」
千菊丸が持ってきた匂い袋にはほとんど興味を示さないが、それはいつものことだ。
「安国寺の稚児の中では、誰よりも論語をよくわかっていると褒めてもらいました」
険しかった母の表情が和らぐのがわかった。
「よかったら、私に論語を読んできかせてくれませんか」
千菊丸が覚えている部分を暗誦すると、母と楓は手を叩かんばかりに喜ぶ。
「最近は、詩も学んでおります。禅画には賛がつきものですので、きっと将来の役にたちます」
十分に母を喜ばせてから、千菊丸は居住まいを正した。
「母上、今日、参りましたのは、実は大切なことをお聞きしたいからです」
母の顔から笑みが消えた。事情を悟った楓は、逃げるようにして座を外す。母はうつむいて黙っている。千菊丸が何を問いたいかはわかっているのだろう。
「母上が朝廷に仕える女官だった、という噂が私の耳に入ることがあります。それは本当でしょうか」
母の返答を待つが、時だけがいたずらにすぎる。
「母上の実家は公家だと教えてもらいましたが、その姓名も知りませぬ。そして私の父とは一体、誰なのですか。どんな身分の方だったのですか」
「まだ、あなたには早い」
「早くはありませぬ。春になれば入山できる寺が決まり、得度の儀式が待っています。得度とは、俗世との縁を断つ意味なのはご存じでしょう」
その縁の中には、父母との絆も含まれている。
「お願いです。私が何者なのか、教えてくれませんか。母上の出自だけではありません、父上のことも何も知らされてはおりません」
千菊丸は頭を下げた。そのままの姿勢でじっと待つ。
「千菊丸、顔を上げなさい」
「教えてくれるまで、このまま待ちます。どんな些細なことでも構いません」
湿ったため息が落ちてきた。
「そんな噂が、千菊丸の耳にも届いていようとは……隠すというのはなんと難しいことでしょうか」
「では、噂は本当なのですか」
こくりと母はうなずいた。だが、それ以上、言葉を継ごうとはしない。問うには早すぎたか。母の体調を考えると、これ以上は追及するべきではないかもしれない。
「そなたの父はまだ生きています」
思わず、母の顔を凝視した。伏した目には憂いの色が濃く出ていた。唇を強く嚙んでいる。手を握りしめているのは、震えを殺さんとしているのか。問うたことを、千菊丸は後悔した。と同時に、ふさがっていた道が開いたかのような気配に、心の臓が高鳴る。
父は生きている。そう心中で叫んでから、千菊丸はもうこの世に父はいないものだと勝手に諦めていたことに気づいた。
「まだ、そなたに父君の名は明かせませぬ」
「なぜなのですか」
「そなたのお父君は、とても高い身分の方です。軽々にお会いすることははばかられます。そなたに教えたことが万が一にも他人に知られれば、どんな災いが降りかかるかわかりません」
「そんな……」
「私の生家を知ることも同様です。お父君とのつながりに嫌でも触れなければなりません。無論……そなたにいつかは教えねばならぬことは承知しております」
「それは、いつなのですか」
母はうつむいてじっと考えこむ。しばらくして、意を決したかのように顔を上げた。
「そなたが五山の高僧になったときです。父君の名を知ることは、災いも招きかねません。ですが高僧となれば……五山のいずれかの寺で得度し印可をとれば別です。それだけの力があれば、お父君の名を知るだけでなく対面も叶うでしょう」
(続きは本誌でお楽しみください。)