一 春の風
呼称が変わる、ということ。
まず出世魚のように身体のサイズで呼ばれかたが変わる場合がある。人間も成長過程に応じて「赤ちゃん」「幼児」あるいは「青年」「中年」と分類され、「ちょっと、そこのぼく」とか「おい、おっさん」とか、そんなふうに呼びかけられる。たとえば名字にさん付けで呼んでいた人を名前にちゃん付けで呼ぶようになるのは当人ではなく両者の関係が変化したためだ。そんなことを考えながら、茉子は目の前の相手を眺めている。相手の名は吉成伸吾という。親同士がいとこで、ずっと「伸吾くん」と呼んできたのだが、今日からは「社長」と呼ばなければならない。さきほど言い間違えて「しん、し、社長」と口走ってしまい、伸吾は「今一回紳士って言うたな」と目尻を下げた。
顔が小さいのか、着用しているマスクが大きすぎるのか、目のすぐ下から顎まで不織布の生地で覆われていて、伸吾の顔の造作はほとんどわからない。二十七歳の自分より五つか六つ年上だ。五つか六つ。どっちだかわからない。どっちでもいいじゃないかとも思う。
伸吾のいない場所で伸吾について考える時、茉子の頭にはなぜか毎回、現在の伸吾の姿ではなく中学生の頃の姿が浮かぶ。続けて、寿司のことを考える。正確には寿司のシャリ部分のことを。親戚の集まりの場で寿司桶に散らばった白いかたまりをせっせと摘まみ上げていた細い指と、酢飯でふくらんでいた青白い頰のことを、なつかしいというのともすこし違うちょっと複雑な気持ちで思い出す。
集まりの詳細は忘れた。誰かが婚約したとか、初節句を迎えたとか、とにかくなにかそういう、めでたい方向性だった。襖をとっぱらって広くした二間の和室に、長いテーブルがふたつ置かれていた。仏壇に近いほうが大人のテーブルで、もういっぽうが子どものテーブルだ。
伸吾は紺のブレザーの制服を着て、子どものテーブルにいた。大人のテーブルにいる中学生もいたが、伸吾は世話係としてあそこに座らされていたのだろう。茉子のコップにファンタオレンジを注いでくれたり、誰かが食べこぼしたものをさっと拭いたり、たいへんな甲斐甲斐しさだった。
その日の茉子は、ひどく機嫌が悪かった。理由ははっきりしている。隣に座っていた同い年のいとこのユウヒが目の前に置かれた寿司桶に興奮して絶え間なく金切り声を上げていたからだ。茉子の「黙れ」という警告を嘲笑うように、さらに声を大きくした。
ユウヒの興奮は徐々に増していき、なにを思ったかとつぜん寿司のネタ部分を小皿にすっかり攫い、廊下に遁走した。啞然とする茉子に向かって、ユウヒは二枚のイカでマグロを挟んだものを箸でつまんで「サンドイッチ」と見せびらかしてきた。
大人は「食事中にテーブルを離れる」と「食べ物で遊ぶ/食べ物を粗末にする」にとりわけ敏感だ。ユウヒは怒られる。それは予想ではなく願望だった。怒られてほしい。いや、怒られろ。四歳の頃にリカちゃん人形をユウヒから奪われて首をもがれたことを、八歳の茉子は忘れていなかった。お前は一度こっぴどく𠮟られるべきなのだ。しかし大人たちは話に夢中でユウヒの悪行にはまったく気づかない。
「あんな食べかたしたら、怒られるよな」
声を大きくして、「な、な」とはす向かいに座っている伸吾に訴えると、伸吾は困ったようにユウヒを見やり、それから寿司桶に残されたシャリ部分をもくもくと食べはじめた。大人たちがこちらに視線を向けた頃には寿司桶はきれいに空になっていた。ユウヒは「廊下で食べている」ことを軽く注意されたのみで、寿司のネタだけを食べるという許されざる行為については一切お咎めを受けずに済んだ。
ユウヒ。今は東京で会社員をやっているらしいユウヒ。粗暴で粗忽で粗雑なふるまいをしても「男児ってこんなもん」「やんちゃなぐらいがちょうどええねん」と許され続けて大人になってしまったユウヒ。お前は二度と大阪に戻ってくるんじゃねえユウヒ、わかったかユウヒ。
「ちょっと、話聞いてる?」
伸吾に声をかけられて、はっと背筋を伸ばした。今日はこの『株式会社こまどり製菓』での初出勤日なのだ。ユウヒのことを考えている場合ではない。
「小松茉子さん」
手帳に目を落とした伸吾が、ふいに茉子の名を口にした。小松茉子。上から読んでも下から読んでもコマツマコです、と説明するとたいていの人は一度で覚えてくれる。
「はい」
「会社では小松さんと呼ぶから。茉子とか茉子ちゃんって呼ぶのはさすがにまずいしな」
「そうですね」
伸吾もひそかに呼びかたに戸惑っていたのかと思うと、ほんのすこし緊張がほぐれる。
「今日からよろしくね、小松さん」
伸吾はスーツの上から胃のあたりを押さえるような仕草をしながら、まだなにか喋ろうとしている。どこかの大きな会社の社長が入社式で新入社員全員に向けて語ったものをなぞっているような、空疎な言葉がつるつると床のうえを滑っていく。茉子の表情に気づいて、伸吾が口を噤んだ。
「やめよ、こんな話」
「はい。それがいいと思います」
首をすくめる伸吾は気まずそうだし、茉子も同様だ。さっきからずっと「社長のコスプレ」をしているようにしか見えない。本人が喜々としてやっているならともかく、この苦しげな表情ときたらどうだ。とてもじゃないが見ていられない。
「じゃあ、会社を案内するから」
ドアを開けて、敷地内に一歩踏み出した。外はよく晴れていて、ホイップクリームのように白い光が、俯いた茉子のストラップシューズに落ちる。よく磨かれた伸吾の靴のつまさきにも。並んで立ってみると、伸吾は記憶より背が高かった。身長百五十五センチの茉子は、顎をぐっと持ち上げなければ目線が合わない。
社名入りの水色の上っ張りがこの会社の制服だった。下はスカートでもワンピースでもパンツでも、華美でなく清潔感のある服装であればなんでもかまわないという。茉子は以前からベージュのストッキングにパンプスというスタイルになじめず、今日はいつも履いているようなヒールのない靴に、黒い靴下を合わせてきた。
色が好きじゃない。上っ張りの裾を引っ張りながら思う。水色は好きだが、この水色はなんだか、図工が苦手な小学生が青と白の絵の具をぞんざいに混ぜた色みたいに感じられる。あるいは「水色やったら清潔感あるやろ」と適当に偉い人が選んだような水色。
桜はもうほとんど散りかけている。風が吹いて、無意識に首筋に手をやる。伸ばしているというわけではなく、「美容院行くのめんどいな」と思っているうちに肩に届いてしまった髪を、今日はうしろでひとつに結んでいる。そのせいか首がやたらとすうすうして落ち着かない。
「ここが、事務所ね」
今出てきたばかりの建物を仰ぎ見た。昔はプレハブやったんやで、とのことだった。
「昔ってどれぐらい昔ですか」
「俺が子どもの頃」
十数年前に建て替えたという事務所は色といいかたちといい、サイコロじみている。ドアのある正面は一の目で、南側のふたつ並んだ窓の面が、二。ちょっと転がしてみたくなる。
事務所の内部はさきほどすでに見せてもらった。入ってすぐのところにカウンターがあり、中央に島のようにスチール机が五つくっつけられている。ドアにいちばん近いのが茉子が座ることになった席で、その向かいは亀田という事務員の席だという。
「先に言うとくけどな、亀田さんはパートさんやねん」
「はあ」
パートさん。不思議な呼称だ。
「話題は慎重に選ばなあかんで」
「話題、ですか」
「うん。賞与のこととか、いろいろ」
正社員とパートタイマーでは待遇が違う。世間話のつもりが思わぬ軋轢のもとになる、と伸吾は言うのだった。
亀田は五十代の女性で、すでに二十年以上も勤めているという。仕事の内容も量も社員と同じか、それ以上であるらしい。なのにパートタイムなのか、と茉子は思い、すぐになにか理由があるのかもしれないと思い直す。そういう勤務形態を選ぶだけの理由が。
工場の製造スタッフにも「パートさん」がいるが、彼女たちと違い、亀田だけは社会保険に加入し、社員よりは少ないながらも賞与が支給される。「パートさん」のうえに「特別な」がのっかった。亀田さんは、特別な、パートさん。
「女同士ってな、いろいろ揉める時あるやろ」
会社という場において、待遇の差異から軋轢が生じる可能性などいくらでもある。性別は関係ないと言おうとしたが、伸吾がまた胃のあたりを押さえて眉をひそめたので黙っていた。
今日から茉子はこの社員三十五名のちいさな会社の、総務的なことや経理的なことその他諸々の細かい仕事すべてを任されることになっている。会社直営の和菓子屋『こまどり庵』で人手が足りなければそちらに駆り出される日もあるらしい。
茉子と亀田のそれぞれ隣は営業の社員の席で、ドアと向かいあうかたちで設置された机が伸吾の席だった。さっき見た時には、ノートパソコンの脇に『デキる人の時間管理術』という、デキる人は読まなそうな本が置かれていた。
カウンターの右側には、応接室に続くドアがあり、左側に会議室のドアがある。茉子と伸吾が話していたのはこの部屋だ。今時禁煙ではないらしく、長テーブルには巨大なガラスの灰皿が鎮座していた。事務室の奥に給湯室とロッカーが置かれた狭いスペースとトイレ。社長室はない。社員のための休憩室のようなものもない。あるとも思っていなかったが。
サイコロを背にして、会社の敷地内を歩く。桜が植えられた歩道の先に工場がある。事務所はまだ新しいが、こちらは古い。築四十年といったところだろうか。ここで製造された商品が、ここから徒歩十分以内の距離にある『こまどり庵』に届けられる。『こまどり庵』はかつて市内に三店舗あったが、今はひとつだけだ。
「茉子……小松さんは、『こまどりの里』を食べたことはあるよな?」
数歩先を歩いていた伸吾が振り返る。
「はい、もちろん」
『こまどりの里』はつぶ餡がごく薄い皮につつまれた、小鳥のかたちの饅頭だった。伸吾の話では市の特産品である蓮根が生地に練りこまれているというのだが、食べてもわからない。もちろんひとくち食べてわかるほどに蓮根がはげしく自己主張しているような饅頭はあまりおいしくないだろうなということは茉子にも想像がつく。
工場では『こまどりの里』に加え『河内銘菓・福娘』『大阪恋しぐれ』といった商品を製造している。福娘はどらやきで、恋しぐれは最中だ。それに加え、他社からの委託によって製造している饅頭や飴、羊羹などもある。とても「忙しそう」だと、他人事のように伸吾は言う。
「他社からの委託、ですか」
「そう。観光地とかに売ってあるやん、地名入りの饅頭とか。ああいうやつをなかみだけうちがつくったりしてんねん」
コロナのアレでそっちはさっぱりらしいけどなあと、やっぱり他人事のように頼りない声を発する。
工場のスタッフは二十名。工場長以下数名をのぞくほとんどが主婦のパートタイマーで、基本的にみんな仲が良くていつもにぎやかとのことだったが、この時間はまだ誰も出勤しておらず、廃墟のごとく静まりかえっている。
「伸吾くん」
数歩先を歩く背中に声をかけると、伸吾は振り返った。社長やろ、と訂正することもなく、黙ったまま茉子を見返す。
「だいじょうぶ?」
「……事務所に戻ろうか。そろそろ亀田さんたち、出勤してくるから」
質問には答えずに踵を返した肩に、桜の花びらが一枚ついていた。必死にしがみついている花びらが、伸吾の姿と重なる。
(続きは本誌でお楽しみください。)