星空のキャッチボール


 鋭い電子音が鳴り響き、矢作桐人はびくりと身体を震わせた。

 アラームをとめ、暫しぼんやりする。昨夜、途中でエアコンを切ったので、胸元も背中も汗まみれだ。とりあえずシャワーを浴びようと、桐人はふらふらと立ち上がった。

 今年の夏は暑い。

 毎年そんなことを言っている気もするが、六月の下旬に早々と梅雨が明けてから、連日猛暑日が続いている。初夏を飛ばして、いきなり真夏がやってきたような塩梅だ。

 ぬるめのシャワーを浴びると、頭にかかっていた霧がようやく薄らぐ。熱中症予防のため、一晩中エアコンをつけることが推奨されているが、桐人にはどうしても勿体なく思えてしまう。貧乏性と言われれば、その通りなのだろう。

 子ども時代、桐人の家は決して裕福ではなかった。特に父が倹約家で、光熱費や母が買ってくる毎日の食材費まで、一々厳しくチェックするような向きだった。寒い日や暑い日に空調を使えないのは嫌だったけれど、反抗できる雰囲気ではなかった。暴力を振るわれたりはしなかったが、父は家の中では絶対だった。当然、まともな小遣いをもらった覚えもない。

 現在は自分の稼ぎがあるのだから誰に遠慮する必要もないのだろうが、幼い頃に培われた感覚というのは、自分でも気づかぬうちに深いところに根を下ろす。

 朝っぱらから鬱々としたものが込み上げてきて、桐人はシャワーの下で首を振った。

 高齢者と違い、まだ二十代の自分は、眠ったまま脱水症状を起こすほど体力が衰えているわけではないだろう。

「どの道、たいして寝られないんだしな」

 シャワーで顔を洗いながら、半ば自棄のように独り言ちる。

 今日もようやく寝ついたのは、空が白々と明るくなってからだった。

 入眠までに三十分以上かかるのは睡眠障害だという記事をネットニュースでもよく見かけるが、桐人の寝つきの悪さはそんな生易しいものではなかった。床に就いてから、数時間寝られないことなどざらだ。しかも途中覚醒が酷い。最悪なときは、一時間ごとに眼が覚める。

 別段、今に始まった話ではない。学生時代から、ずっとこんな感じだ。ぐっすり眠ったのがいつだったか、もう思い出せないくらいだった。社会人になってからは、入眠用のサプリメントも試してみたが、ほとんど効果を感じられなかった。

 それでも、なんとかなっている。

 浴室から出て、桐人はバスタオルで全身を包んだ。また少し瘦せたかもしれない。指先に当たるあばら骨の感触が生々しい。鏡に映る顔色も冴えないが、別段、体調が悪いわけではない。

 寝られないくらい、どうということもない。

 最終的には、いつもその結論にたどり着く。

 自分の睡眠障害の原因がどこにあるのか、桐人は深く考えようとはしなかった。ありていに言えばストレスなのだろうけれど、そもそもストレスのない人間なんて、果たしてこの世にいるだろうか。

 俺の場合、まったく寝られないわけじゃないもんな─。

 時報代わりにテレビをつけて、桐人は身支度を始めた。朝のニュース番組の内容は、相変わらず新型コロナウイルスの情報が大半を占めている。ワクチン接種が行き渡ったことにより、状況はやや落ち着いたかのように見えていたものの、七月に入り、再び感染者が爆発的に増え出した。最近、桐人の周辺でも陽性者が続出している。それでも、規制等は一切ない。

 考えてみれば、一番初めに緊急事態宣言が出てから、二年と半年近くが経つのだ。新株が登場するたび急増する感染者数の波も、七回目。いつまでたっても終わらないウイルスとの鼬ごっこのような状況に、本当は誰もが飽き飽きし始めているに違いない。

 幸い、桐人はまだ一度も罹患していなかった。慢性的な睡眠不足は否めないが、七回に及ぶ波を潜り抜けているのだから、免疫はそれほど落ちていないということなのだろう。それだけで、御の字なのかもしれない。

 朝は食欲がわかないので、いつものゼリー飲料を胃の中に流し込み、マスクをつけて部屋を出る。リモートワーク推奨も限界なのか、地下鉄直通の通勤電車はかなり混んでいた。通勤時間は約四十分。地下鉄を一度乗り換え、二年前に神谷町と霞ケ関の間に新設された虎ノ門ヒルズ駅で車輛を降りた。この駅ができたおかげで、通勤は随分楽になった。以前、本社に向かうときは、神谷町からそこそこ歩かなければならなかった。

 もっとも、桐人が虎ノ門の本社に通うようになったのは、今年の春からだ。

 五年前、総合ショッピングモールを運営する中堅電子商取引企業パラウェイに、桐人は新卒入社した。地方出身の桐人はオフィスが港区にあるというだけで高まりを覚えたが、研修後、配属されたのは千葉県浦安市にある物流倉庫だった。パラウェイはショッピングモール運営に併せ、提携ブランドや製造業者からの物流も請け負っていたのだ。

 正直、桐人は落胆した。二十名ほどいた同期の中で、倉庫勤務になったのは二人だけだ。しかも、もう一人は「希望していた業務と違う」と、早々に辞めてしまった。桐人は留まることを選んだが、なぜ本社勤務が認められなかったのかと、人事担当者を恨んだこともある。

 しかし、いざ業務が始まると、仕事を覚えるのに精一杯で、雑念は消えていった。元々桐人は几帳面で仕事が丁寧だったので、発送ミスの許されない物流の現場では、上司からも取引先からも重宝がられた。

 無論、ずっと倉庫にいるつもりはなかった。たまに本社を訪れると、都心の高層ビル内で颯爽と働いている同期たちのことが、無性に羨ましくなった。

 特に、花形のビューティーカテゴリーのマーケティング部に配属された寺嶋直也は、ネットで絶大な力を持つインフルエンサーたちと連携し、一年目から着実に売上を伸ばしているらしかった。高学歴で容姿もあか抜けている直也は、研修時から主張も強く、同期のリーダー格だった。

 直也ほど派手な活躍はできなくても、大手のような広告手段や複数店舗を持っていない小規模メーカーとユーザーを結びつける仕事をしてみたいと、桐人は常々考えていた。それこそが、イーコマースの醍醐味ではないかと、桐人自身は思うのだ。

 何度も希望していた本社勤務がようやくかなえられたのは、皮肉にも新型コロナウイルス流行のお陰だった。コロナによるステイホームや新しい生活習慣を受け、現在、イーコマースは軒並み好調だ。パラウェイが運営するショッピングモール「パラダイスゲートウェイ」も、ライフスタイルカテゴリーが近年稀にみる業績を上げている。この業績好調の波に乗り、ライフスタイルカテゴリーのさらなる拡充を図るべく、マーケティング部が新たに人員を補充することになったのだ。

 桐人も、新卒者と共に、高層ビル内のオフィスに迎え入れられることになった。

 地下鉄の出口を出ると、ガラス張りの高層ビルが無数に立ち並んでいる。紛う方なき大都会のオフィス街。反射ガラスに照り返された真夏の陽光に眼を射られ、一瞬、くらりとする。

 大学進学のため、郷里の田舎町を離れて十年。あの日から、ようやくここまできた。

 大丈夫。自分はここでもちゃんとやれるはずだ。

 一つ深呼吸し、肩に力を入れ直す。

 スーツに身を固めたサラリーマンたちに交じり、桐人は横断歩道に足を踏み出した。



 桐人が配属されたマーケティング部は、二十三階のフロアにある。大きなガラス窓の向こうには、林立する高層ビルと、そこからにゅっと突き出たスカイツリーが見えた。

「おはようございます」

 まずはマネージャーの米川恵理子に挨拶する。

「おはよう」

 恵理子がマスク越しに笑みを浮かべた。桐人は定時の三十分前には必ずオフィスに到着するようにしているが、いつも恵理子は先に出社している。桐人に負けず劣らず、生真面目な人なのだろう。

 打ち抜きのフロアはいくつかの島に分かれている。フロアの大半を占める大きな島が、直也のいるビューティーカテゴリー。それ以外のスペースを、春から人員が補充されたライフスタイルカテゴリーと、両カテゴリーの顧客データを管理するシステムチームが分割している。

 マネージャーの恵理子は、フロア全体を見渡せる窓側の大きなデスクでパソコンに向かっていた。「パラダイスゲートウェイ」の二大カテゴリーを統括している恵理子は、メディアにもたびたび登場している。そこから得た情報によれば、四十代で二児の母、子どもは二人とも男の子でまだ小学生、家事は夫と分担制、だそうだ。

 まだ誰も出社していないライフスタイルカテゴリーの島で、桐人は自分の席に着いた。デスクの横には、たくさんの段ボール箱が積まれている。

 早速段ボール箱をあけて、いくつかの製品を取り出した。オーガニックの中国茶、豆乳パウダー、ココナツオイルのアロマキャンドル……。現在、桐人が力を入れて開拓しているのは、健康志向の女性やファミリー層をターゲットにした商品だ。

 パソコンを立ち上げると、すぐさま「パラダイスゲートウェイ」のトップページが表示される。数あるネットショッピングモールの中、「パラダイスゲートウェイ」の売りはコスパのよさと、注文のしやすさだった。トップページに躍るキャッチコピーは〝毎日をちょっと彩るプチプラパラダイス〟。パラウェイは独自の流通を持っているため、配送も安定していて早い。

 第二キャッチは〝コスパ抜群、すぐ届く。だから安心、毎日心地よい〟だ。

 しかし、実際に業務に携わってみると、この〝プチプラ〟や〝コスパ抜群〟を実現するのは並大抵のことではなかった。開拓した店舗へのコンサルティングや広告展開を提案するのもマーケティング部の重要な仕事の一つなのだが、いかに費用対効果の高い集客案を提示するかで、桐人は日々頭を悩ませている。コロナ禍のあおりを受け、縋る思いでネット上のショッピングモールに出店する小さな店舗に、高い出稿料を強いたり、割引クーポンを乱発させたりするのも忍びなかった。

 現在、桐人は初出店の店舗に限り、「パラウェイ担当者のオススメコメント」を手書き風のポップにして、サイトにアップしている。手間はかかるし、泥臭い方法だが、結局これが一番コストがかからない。いきつけのスーパーで、売り場担当者の推薦ポップに眼を引かれたこともヒントになった。

 獲得店舗の販促は、基本、担当者の裁量に任されているが、一応、桐人はマネージャーの恵理子に相談した。「こういう手作り感がある方法も、原点回帰っぽくていいかもね」と、恵理子は二つ返事で承認してくれた。

 中国茶を試飲しながら推薦コメントを考えていると、徐々にほかの社員たちも出社してきた。ビューティーカテゴリーの女性社員が席に着いた途端、オフィスがにわかに華やかになる。化粧品を担当する女性たちはお洒落な人が多いが、彼女たちは、その実、ほとんどが中途採用の契約社員らしい。先輩たちの話によれば、マーケティング部の女性の離職率は、非常に高いという。新規開拓対象である、ネット事業に疎い中小企業や個人店舗の社長や店長は高齢の男性が多く、彼らとのつき合いに、多くの若い女性社員は疲弊してしまうのだそうだ。集客がうまくいかなかったとき、高圧的な目上の男性から激昂されたり罵倒されたりするのは、桐人だってきついのだから、致し方ないのかもしれない。

 言われてみれば、マーケティング部に配属された女性同期は、ほとんど残っていなかった。

 ただ一人、システムチームの神林璃子を除いて。

 ちらりと振り向くと、パステルカラーの女性陣の中で、今日も驚くほど素っ気ない格好をした璃子の姿が視界の端に映った。

 量販店で買ったと思われる黒シャツに黒デニム。無造作に束ねただけのポニーテール。灰色のマスクで半分以上顔を覆い、度の強いロイド眼鏡をかけている。端から内勤希望だった璃子は、入社当初からあまりイメージが変わらない。

 はつらつとしていたマーケティングや広報志望の女性同期たちの中で、ひときわ地味だった彼女だけがしぶとく残るというのも不思議なものだ。

 まあ、事務職だから、ストレスが少ないのかもしれないけどね……。

 研修後、すぐに倉庫勤務となった桐人は、もともと口数の少ない璃子とは、ほとんど話したことがなかった。というか、日がな一日データ入力をしている璃子が、誰かと積極的にかかわっているところなど見たことがない。

 同期のリーダー格の直也も、璃子のことは眼中にないようだった。

「おふぁようございあす」

 ふいにろれつの回っていない声をかけられ、桐人は我に返る。

 寝癖だらけの新入社員が、朝から疲れ切った様子で向かいの席に着くところだった。この新人が定時前に出社していたのは、配属直後の一週間だけだ。それ以降は、よくてぎりぎり、悪ければ、今日のように平気で遅刻して現れる。

 大方、こいつも明け方寝ついた口だろう。

 もっとも、深夜にネットゲームやくだらない動画再生に勤しんだ結果だろうが。

「おはよう」

 桐人は白けた眼差しで見返した。

 寝不足でいかにも死にそうという顔つきをしているが、そんなのは自業自得だ。それに少しくらい眠らなくたって、人間は別段どうということもない。

 新人がトイレに立ったまま戻ってこない間に、桐人はいくつかの商品の推薦コメントをひねり出した。

 ビューティーカテゴリーの島では、出社した直也が女性社員や後輩たちに囲まれている。この五年の間に、直也はすっかりマーケティング部の中心人物になっているようだった。

「矢作さん」

 長い時間をかけてトイレで寝癖を直してきたらしい新人が、ようやくデスクに戻ってくる。

「もしかして、担当店舗の商品、本当に全部試してるんですか」

「そうだけど」

「よくそんな時間ありますね」

 その言い草に、少々むっとした。時間はあるなしではなく、作るものだ。

「規定残業時間内で、全店舗いけます?」

「まあ、初出店のところだけだからね」

 淡々と答えたが、それは事実ではなかった。パラウェイでは基本、一月の残業を三十五時間以内に収めることが推奨されている。オフィスに居づらいとき、桐人はこっそり業務を持ち帰ってしまうことが多かった。

「実は、僕も新出店の店舗から、矢作さんがやってるみたいなポップを作って欲しいって言われちゃってるんですよねぇ」

「やってみればいいんじゃないの?」

 桐人はパソコンの画面を見つめたままで答えた。ポップは別に桐人の専売特許ではない。

「参考にしたければ、これまで作ったポップのデータをクラウドに入れとくけど」

「はあ」

 煮え切らない感じで返事をすると、新人はだるそうに生あくびをしながらパソコンを立ち上げ始めた。

「え、まじ? こんなに作ってるんですか」

 今、桐人がクラウドにアップしたデータを開いたらしい新人が、驚きの声をあげる。なぜだかそこに非難の色が交じっているような気がした。

 なんだ、感じの悪い奴だな─。

 再び込み上げた不快感を、かろうじて吞み込む。見方を変えれば、自分の施策がほかの店舗からも注目されているのは悪いことではない。

 さて、午前中に商品の推薦コメントをまとめ、午後からは外回りだ。

 気合を入れ直し、桐人は改めてパソコンに向かった。

(続きは本誌でお楽しみください。)