< 第一回 しのびよる胡瓜 >
玄関先の、ほんの五十センチ四方ほどの土の上を、ツル性の植物が這い、河童の手のような葉を広げて黄色いつぼみをつけているのに、沙希は目を留めた。
「ねえ、これ、見て。伯父さんが植えたのかな?」
「いや、そんなことないでしょ。じいちゃん、二年前からいないから」
従兄の博満は地面を見もせずに答える。
「じゃ、どうしたの、これ。鳥が運んできた?」
怪訝そうに振り返って、沙希の指さす先を見た博満は、はじめて驚いた顔をした。
「やあ、これは、胡瓜か!」
「胡瓜だよ。実がなるのかな」
「わ、胡瓜だ。ここんとこ、ほら、花の付け根が膨らんでる」
さっきまで関心を持っていなかった博満は、なぜだか色めき立つようにして、胡瓜、胡瓜と連呼した。
「勝手に生えちゃったのかしら」
うねうねと地を這っている元気のいい植物を見ながら、支柱を立てたほうがいいのかしら、もしかしてネットもいるのかしらと、沙希は頭の中で自問した。
「いずれにしろ、収穫するのは沙希ちゃん、あなただよ」
博満の声音が、若干、妬ましそうな響きを持っているように思え、採れたら送るわよと言ってみたら、博満は頑固に首を横に振った。
「いらない」
「あら、そう?」
「食べ物を送られると、うちのがキリキリするんだよ。冷蔵庫に入らないとか、こんなに使いきれないとか」
そんなにたくさんは採れないと思うけどね、という言葉を沙希が吞み込んでいると、鍵穴にキイをつっこみながら、博満は話を変えた。
「知ってる? 東京の空き家率は十%超えてるらしい。八十万戸だったかな、空き家、すごい数だよ。うちもそのひとつなわけ。うち、というか、じいちゃんちね」
「なんで空けといたの。住むとか、住まないなら貸すとか、売るとか」
「だって、持ち主、まだ、じいちゃんだもの」
「あ、そうか」
「頭のほうはさておき、体はまだ元気なんだもの。施設で、しっかりケアしてもらって、よく食べてんだもの。それなのに、じいちゃんのもの、勝手に売るわけにいかないでしょう。オレはローン組んで買ったマンションが大阪にあるしさ。嫁も関西人だしさ。じいちゃんとこなんて、あんた、おそろしくて手がつけられないよ、整理のこと考えたら」
そう言ってから、博満はちょっと失敗したと思いなおしたらしく、咳払いのような妙な音を喉元で数回出してから、
「こないだも言ったけど、二年前までは住んでた家だから、その気になればちゃんと住めるよ。荷物は思い切って、払っちゃってほしい。じいちゃんは相談できる状態じゃないし、オレもあれよ、ちょっと仕事が立て込んでて。その気になれば、整理はそんなたいへんじゃないはず。業者をよんで、ざーっと持ってってもらうのもありだ。その場合、費用は折半で」
「亡くなったわけじゃないし、そうもいかないでしょう」
「だよね。そうなんだよ。だから、手がつけられないわけ。でも、沙希ちゃんが住んでくれるなら、暮らしやすいように片づけるのはとうぜんでしょう」
「伯父さんには、まだ会えないの?」
「そうだね。施設のコロナ対策が変わったって話は来てないから、面会は無理だね」
伯父というのは、沙希の母の姉の夫にあたる。電気技師をしていたが、八十を超えているから、かなり前から年金暮らしだったはずだ。
土地の人たちに「うらはぐさ」という古い地名で呼ばれるこのあたりは、沙希にとっては大学時代を過ごした場所にほど近い住宅地で、この家にもっとも頻繁に顔を出したのも、十代の終わりから二十代初めの、そのころになる。
あのころ伯父はまだ五十代で、後退した額の奥の、意外に黒い髪をいさぎよくオールバックにして、黒縁の眼鏡をかけていた。いつも派手な色のゴルフウェアみたいなものを着ていた伯父だったが、博満が見せてくれた「比較的最近の写真」の中の伯父は、カラー写真なのに枯れたような色の服ばかり着ている。
いま、家の中を案内してくれる博満のほうが、見た目はずっと「伯父」に近い。髪は整髪料でテカってはいないが、額が広くなっているわりに白髪はほとんどない。着ている服も水色のダボッとしたコットンシャツにハーフパンツとデッキシューズで、伯父とはまったく趣味が違うらしいけれど、沙希は頭の中で赤いポロシャツにピタッとした白いズボンを着せてみて、血は争えないわ、と思うのだった。
水道、電気は使えるようになってる、ガスの開栓の立ち会いは先週来てすませておいたと、博満はテキパキと説明しながら、半透明のポリ袋にいらないものを、ぽいぽいと放り込む。そして、とりあえず電話回線だけじいちゃんの名義で再開してあるけど、沙希ちゃんがネットとか使うなら、好きなところと契約しなよ、とつけ加えた。
「こういうごちゃごちゃしたものは、捨ててかまわない。言っとくけど、プラスチックは燃えるゴミだから」
歯ブラシとコップを台所の流しからつまみ上げて、博満が言う。伯父は台所のシンクを洗面にも使っていたらしい。ものすごくだいじなことを伝えるという顔つきで、従兄は、沙希の鼻先に人差し指を立てつつ強調した。
「自治体のゴミ出しルール、ものすごくたいせつ。沙希ちゃんみたいに、海外が長い人はわかんないと思うから気をつけて。ここにカレンダーを貼っておいたから。じいちゃんのものではないよ、今年の最新版だから」
その指先を大きく旋回させ、伯父が食事も寝起きもしていた場所と思われる茶の間の壁の、いちばん目立つところにある、「ゴミ出しカレンダー」を指し示す。
この家で、唯一真新しいものが「ゴミ出しカレンダー」であるらしい。
「いかんよ、バカにしては。日本で『多文化共生』つったら、外国人にゴミ出しルール教えることだから。ほんとだから」
多文化共生。
マルティカルチュラル・シンバイオシス。
沙希は瞬時に訳語を思い浮かべたが、それと「ゴミ出しルール」がまったく結びつかなくて、不安な気持ちになってくる。
たしかに博満の言うとおり、「プラの日」と呼ばれている、プラスチック製容器包装ゴミを出す日に、プラスチック製のコップや歯ブラシを出せないのは、ものすごくトリッキーだ、と沙希も感じる。CD、DVDは可燃ゴミ。プラスチック製容器包装でも汚れが取れないものは可燃ゴミ─。
多文化共生とどう関係するのかはわからないが、ルールを覚えるのがたいへんであることは間違いなさそうだ。
「家具も使いたくないのは、とっとかなくていいよ、価値のあるもんじゃないから。じいちゃんの私物は段ボールに入れて、二階に運ぼう」
可燃ゴミを半透明袋に入れる作業は一段落したらしく、まめな博満は、置いてあった段ボールをパンと広げて箱を作る。
沙希は何をしたらいいのかわからず、おたおたと従兄のあとをついてまわる。
「こっちの、鏡台のある畳の部屋は、おふくろが死んでから、ほとんど使ってなかったから、ここ、沙希ちゃんの寝る部屋にしたらいいんじゃないかなあ」
茶の間とは襖で仕切られている隣の部屋に案内された。
がらんとした部屋に、古い三面鏡と、布団が一組置かれている。三面鏡は伯母のものだ。陽気な明るい人だったけれど、早くに亡くなった。
鏡の前で、伯母が涼し気な絽の着物に鉄線の模様の帯を締めている姿を思い浮かべる。あの着物はもう払ってしまったんだろうか。簞笥もないところをみると、もうこの家にあるとは思えない。伯母が亡くなったとき、自分はもう海外にいて、葬儀には出られなかった。従兄の博満は結婚したばかりのころか。あのときから部屋を使っていないとなると、三十年近くは、空き部屋だったということになるのか。
「布団はね、先週、一応干したんだけど、じいちゃんのじゃ嫌だろう。沙希ちゃん、新しいのを買いなよ。こういうのはみんな、粗大ゴミの日に出すか、家具なんかといっしょに不用品回収業者に頼むかだな」
「ありがとね、いろいろ」
「粗大ゴミのことは、わかってる?」
博満は汗でくもった眼鏡をはずし、シャツの裾でこすってから、もう一度かけた。
「区のホームページ見てネット予約ね。だいたい一ヶ月待ちだから、いま。期日までにコンビニで粗大ゴミ券を買う」
博満、あんがい、細かい奴だなと、思う。このままいくと、A券がどうのB券がどうのと、粗大ゴミ券の説明まではじめそうだ。
「任せてもらえるなら、ゴミ出しは、わたしがやる。母のマンションを片づけたから、だいたいわかってるよ。費用もぜんぶ出す。せめてそれくらいは。ひろみっちゃんが取っておきたいものだけ、今日、確認してもらえたら」
ない、ない、ない、ない。
従兄の博満は眉間に皺を寄せ、顔の前で手をぷるぷる振った。
「愛着のある家具とか、小物とか、ないの?」
「ない。取っときたいもの、ない。まあ、あるとすれば、子どものときのアルバムの写真が何枚かってとこだと思うけど、それも、いま、見るのはたいへんだから、二階に置いといて。退職後にでも、勇気を奮い起こしてやるからさ」
すでに五十代も半ばを過ぎた博満にとって、「退職後」というのはそんなに先ではないのだろうが、それでもなにかを先延ばしする理由にはなるらしい。
沙希の知っていた五歳年上のお兄ちゃんよりは、伯父そのものに瓜二つとなり果てた従兄は、額に汗をかきながら、せっせと段ボールに伯父の蔵書や趣味の碁盤や碁石、服だ、眼鏡だ、文房具だといった身の回り品をつめて、二階の部屋に運んでくれた。
二階には、すでに物でいっぱいの納戸のほかに、板張り床の小さな部屋があり、そこが「じいちゃんの私物」の居室らしかったが、沙希の記憶では、かつては博満自身の部屋だったはずだ。
「だけどオレ、ここにあんまり暮らしてないんだよね。じいちゃんがここ建てたの、オレが中三のときで、大学からあっちだから。帰省すると寝るのがここってことになってたけど、あんまり来てないの。結婚して子どもができてからは、東京来てもホテルだし」
博満の部屋は、沙希が大学生のころはすでに空き部屋だったから、サークル仲間と夜まで飲んでいて、終電を逃して泊まりに来たこともあったのを思い出した。
「子どものころの思い出は、その前に住んでた団地のほうがあるんだ。沙希ちゃんも遊びに来たことあったよね」
「あ、そうね。小さいとき。小学生くらいかなあ」
「あそこ、もう、ないんだよ」
「え? ないの?」
「うん。道路作るとかで、なくなった。もう十年以上前ね」
従兄の博満とは、とくに仲がいいわけでもなかったから、こんなに長く話すのも久しぶりだった。ひょっとするとそれこそ、四十年ぶりくらいかもしれない。
ゴルフウェアの伯父が登場したように、頭の中のスクリーンには、半ズボンの少年があらわれた。
ひろみっちゃん、というのは、夏休みの一日、蟬を捕るためと言って、団地と、隣接した乳酸飲料の会社の研究所だかなんだかを隔てるコンクリート塀の上を歩いて、よろめいて墜落し、前歯を折ったお兄ちゃんの呼び名だ。
ひととおり、伯父の荷物を運び終わると、それじゃ悪いけどオレ失礼するわ、明日早いんで、なるべく早めの新幹線で帰らなきゃなの、と、そんなに悪そうでもなく、博満は言った。ただし、玄関で靴ベラを使ってよく履きこんだデッキシューズに足をつっこみ、帰り支度を整えると、かなり真剣な顔つきになった。
「正直、ホッとしてる。このまま空き家にしとくしかないと思ってたから、そのうち近所から苦情が出やしないか心配してたんだ」
「お家賃の振込先とかはさ」
と、沙希が質問するのを遮るように、博満は小刻みにうなずいて、
「固定資産税分くらいを払ってくれれば、うちとしては助かるし、沙希ちゃんにもそんなに負担ではないと思う。メールする」
と、早口で言った。
せかせかと帰って行く従兄を見送って、沙希はようやく一息つき、「沙希ちゃんの寝る部屋」と指定された六畳間にぺたんと腰を下ろした。
障子を開けると廊下の向こうのガラス戸の先には庭がある。南隣との境界を仕切るブロック塀までの、一間半四方ほどのスペースだが、生活空間に土があるのはホッとした。つつじの灌木のほかには、どくだみやらなにやら、沙希には名前のわからない植物がもさもさと生えていて、苔だらけの柿の木が一本立っている。その木が柿であることがわかったのは、かろうじて、その木と丸い実が記憶にあったからだ。
こんなに苔が生えていただろうか、やはり柿の木も年を取ったのだろうかと、ぼんやり眺めていたら、青い柿の葉から、ぽつん、ぽつんと、水滴が落ち始め、ほどなく、ざぁーっと豪快な音に変わった。
「夕立」という言葉を、ずいぶん久しぶりに頭に思い浮かべたが、「夕」と呼ぶには少し早い時間帯だ。大学卒業の年に渡米した沙希にとって、三十年ぶりの、東京暮らしの始まりだった。
(続きは本誌でお楽しみください。)