軒先にかかった緑色ののれんが、だらりと垂れて動かない。
おにぎり屋『若竹』─のれんに白く染め抜かれているのは「若」の字と五葉の笹だ。話には聞いていたが、ほんとうに緑色が好きらしい。
かつての吉原遊郭にもほど近い、台東区竜泉。千束稲荷神社の鳥居と一対のお狐さんを背にして立ち止まると、僕は、通りの向かいにたつ仕舞屋を眺めやった。
照りつける陽射しに、自分の影が短い。神社の木々の梢から、おそろしいほどの音圧で蟬時雨が降ってくる。
駅から少し歩いてくる間に噴き出した汗が、開衿シャツの喉もとから胸へと流れ伝わり、額から目にも流れ込み、左目のまわりにはよけいに溜まる気がする。ハンカチを出して、押さえるように拭った。ここまで来ておきながら、すんなりと足が前へ出ない自分がもどかしい。
〈なあ、いっぺん会ってきなって。今のうちだよ〉
耳もとに、Nの物言いがよみがえる。
周囲に迷惑が及ぶことのないように名は伏せておくが、度外れて素晴らしい映画を撮るという一点において、僕は彼を天才だと思っている。と同時に僕自身にとっては、特大の災厄だと思っている。
いずれにせよ、そのNにしてみれば、僕が〈彼女〉と間に合ううちに会って話を聞けるかどうかは、いつか撮ろうとしている作品の出来に大きく関わってくるわけで、なるほど躍起になって尻を叩くのも当然ではあるのだった。人の撮らないものを撮る、を信条としてきた監督の目に、彼女はいわばファム=ファタルと映っているようだった。
〈向こうだってそろそろ、いい歳なんだしさ。人には残り時間てものがあるんだから〉
どこまでも自分勝手な言い草にあきれるが、いつものことだ。僕より七歳も下のくせに、彼には年長者を敬おうという発想がない。
そんなに興味があるんだったらまず自分が会いに行けばいいじゃないかと言ってやると、Nは肩をすぼめた。
〈そりゃそうしたいのはやまやまだけど、吉弥がいちばんよく知ってるはずだろ? ちょっとでも昔の話を匂わせたとたん、塩をまいて追い返されるって噂じゃないか。それでなくても顔の売れてる俺なんかがのこのこ訪ねたって、ほんとうのところなんぞ聞かせてくれるもんか〉
そう言われても、こっちだって初対面と変わらないのだ。三十年も前の、それもたった一瞬の出来事を覚えている人間なんているわけがない。
ついでに言うと、僕が彼女の身辺にこれほど詳しいのは、ひとえに執着心がもたらした結果でしかない。好奇心とか探究心などというにはあまりにも濃くて昏い、粘つくような、それでいて鋭い欲求……。しかしそれはどういうわけか、面と向かって本人と話してみたいという気持ちにはつながらなかった。少なくとも今までは。
〈ま、そんなに気が進まないんなら無理にとは言わないけどさ〉
短くなったハイライトの先を灰皿に押しつけながら、Nは僕を横目で見た。
〈知らないよ、あとになって後悔しても。歳のことを別にしたって、人間いつ何があってもおかしくないんだから。ちょっとでも会うつもりがあるなら、あんまり悠長に迷ってる暇はないんじゃないの?〉
僕と彼女とのささやかで濃厚なつながりを、Nだけは知っている。しきりに勧めるのが自分のこれからのためであるのは当然でも、もしかするとそのうちのほんの少しくらいは、子飼いの脚本家のためを思って言ってくれているのかもしれなかった。
ズボンのポケットから古い懐中時計をつかみ出し、顎の下の汗を拭いながら見ると午後二時だった。
伝手をたどって仲介を頼み、暑い中をここまでやって来たというのに、それこそあまり悠長に構えていると先方が出かけてしまうかもしれない。もし今日会えなかったら、おそらく二度と出直して来る気にならないだろう自信はある。
思いきって、油照りの通りを向かいへ渡る。入口のガラス戸に手をかけ、そろりと引き開けて、奥へ声をかけた。
「ごめん下さい」
返事がない。
中は窓からの明かりだけで薄暗く、ほんの四坪ほどの土間にテーブル席が一つ、カウンターは三、四人も座ればもう肩のぶつかる狭さだ。申し訳程度の厨房の後ろに、一段上がって小さな座敷があるらしい。
と、奥から何か聞こえた。水を流す音に、かすれた咳払い。
「ごめん下さい」
声を張って呼ばわるとようやく「はあい」と応えがあり、ややあって、秋草柄の藍の浴衣をまとった女性が現れた。
小柄でなで肩、色白の瓜実顔に気のきつそうな目。─彼女だ。まぎれもなく、彼女だ。
しかしいくらなんでも若すぎる。事件を起こしたあの時点で三十そこそこだったのだから、もうとっくに六十の大台には乗ったはずだが、せいぜい四十代半ばの色っぽい年増女にしか見えない。いったいどういう魔法だ。
口が乾いて声も出ずにいる僕を、
「あら、すみませんね」
さほどすまなそうでもなく言いながら、上がり框から見おろしてくる。
「暖簾は今しがた洗って干しただけでしてね、お店は五時からなんですよ」
「あ、いえ。自分は店の客ではないのです」
僕は慌てて言った。
「その……土方さんからお聞き及びではないでしょうか」
「土方さん? え、巽センセのこと?」
頷くと、ぱっちりとしてはいるが少し奥に引っ込んだような目が、ああ、と見ひらかれた。
「そういえばセンセ、どなたか訪ねてくるようなこと言ってらしたっけ」
さばさばというのか、ぽんぽんというのか、女にしては素っ気ない喋り方をする。
「押しかけてしまってすみません。波多野吉弥と申します」
僕は頭を下げた。
「あなたも、踊りのほうの先生でらっしゃるの?」
「いえ。映画を作る仕事をしています。企画を立てたり、脚本を書いたり」
「じゃあやっぱり偉い先生なんじゃありませんか」
如才なくもどこか投げやりに言った彼女が、浴衣の衿もとのはだけているのを今ごろ気怠げにかき合わせる。
「外、今日はとくべつ暑いでしょ。入ってゆっくりなさったら? おビールでも」
「や、お構いなく。酒は不調法でして……すみませんが、水だけ頂ければ」
「そうですか。ま、とにかくどうぞ」
上がり框から一段下りて、はだしの爪先を柾目の通った桐下駄に挿し入れる─それだけの動作につい目を奪われる。僕がカウンター席に掛けようとするのを制し、
「こっちへお上がりンなって頂戴な」
六畳間を指さしながら、横をすり抜けて厨房の冷蔵庫を開ける。やかんごと冷やしてあった麦茶をコップに注ぎ、盆にのせ、下駄を脱いで再び上がってくる所作はまるで一筆書きのように滑らかで、このひとのこれまでの日々が透けて見える。
勧められた座布団には、これまた薄緑色をした麻の包布がかかっていた。向かい合って腰を下ろした彼女が、初めてしげしげとこちらを見る。僕の左目が動かないことには、とうに気づいているだろうが触れない。
「カウンターのほうがいくらか涼しいんですけどねえ」
うちわを引き寄せ、こちらへ向けてゆっくりあおぎながら、彼女は言った。
「常連さんがひょっこり覗いたりしたら面倒でしょ。いつもならこんな時間にお客を通したりしないもんだから」
「恐縮です」
「ま、巽センセのご紹介じゃしょうがない。それで、どういったご用事?」
あっさりと訊かれ、僕は畳に視線を落とした。
どこからどう切りだすべきか、散々考えて決めてきたはずだのに、いざ本人を前にすると頭がまるで働かない。〈あの時〉と同じだ。思うように言葉が出ないと息まで詰まり、耳からこめかみのあたりが熱くなってくる。
「どうしたの。お顔が真っ赤だけど」
「いや、その……すいません」
口ごもる僕を見て、彼女はふっと鼻で息を吐くように笑った。
「失礼ですけど、先生はお幾つ?」
侮られた、気がした。
「先生はやめて下さい。歳は……この秋で四十二になります」
「あらまあ、ほんと? 年よりずいぶんとお若く見える」
こっちの台詞だ、と思いながら苦笑してみせる。
「男に『若く見える』は、褒め言葉じゃないですよ」
「そうかしら、そんなことないでしょ。男盛りの愉しい盛り、ずいぶん女を泣かせてらっしゃるんでしょうねえ」
困って、冷たい麦茶を口に運んだ。
「残念ながらそちらのほうもとんと不調法でして」
「やれやれ、しらじらしい噓をお言いだこと。こんな好いたらしい風情の色男を、女がほっとくわけがないんだから、ねえ? たとえあなたがイヤだなんて言ったってね、女のほうからひと苦労したくなっちまうにきまってんだから」
後半は半ば上の空でそんなことを言ったかと思うと、
「ちょいとごめんなさいよ」
彼女はふいにこちらに背を向け、姿見の前に座り直して化粧を始めた。
「いろいろ仕度があるもんでね。お話、どうぞ続けて下さいな、このまま伺いますよ」
夕方の開店まではまだ間があるし、ふだんの彼女ならこれから銭湯へ行くはずなのに、もしや、僕という〈男盛り〉の目が気になったのだろうか。仕草や物腰がいちいち無駄に色めいて、息子みたいな年齢の僕から見ても充分に現役の女であることが窺える。今も誰かパトロンがいるのかもしれない。
それにしても暑い。毛穴という毛穴をふさぐ湿気とともに、外の蟬時雨が店の屋根を押しつぶすかのように迫ってくる。
と、彼女が大胆にも浴衣の衿ぐりを大きくくつろげて、皺ひとつない胸もとや首筋にまでおしろいをはたき始めた。
慌てて目をそらす僕を、鏡越し、面白そうに眺める。瓜実顔に浮かんだ笑みにはどこか冷淡な、いや残忍なと言ってもいいような気配があって、それを見た時、やっと切りだす決心がついた。
「従業員は、置かれないのですか?」
ちらと後ろの店のほうを見やって訊いてみる。
「いるんですよ、一人。三味線弾きのおばさんが来てくれてます」
「そうですか。それはいい。若い者にはもう懲りごりでしょう」
彼女は宙で手を止めた。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味ですよ。ここの前の、上野のお店での一件はお気の毒でしたね」
鏡の中、まだ薄いままの眉がひそめられる。
「ずいぶんよくご存じじゃございませんか。いったい誰から? 巽センセ?」
いいえ、と僕は言った。
「こう申し上げては何ですが、僕は、あなたのこれまでのことなら年表が作れるほど詳しく知っているんです。たぶんあなた自身よりも詳しいと思うな」
彼女はとっさに口をひらきかけたが、思い直したように閉じた。前歯がやや出ているせいで、口を開ける時よりも閉じる時のほうがわずかに時間がかかる。
「ふうん、奇特な人だこと」
作り笑いを浮かべながら、左の眉を描き始めた。
「あたしのことなんかそんなに知ってどうするの」
「書いてみたいと思っているんです」
彼女の手が再び止まる。
「なんですって?」
「あなたの真実を、本に書いてみたいんです。一旦は記録小説のようなかたちで世に問うて、ゆくゆくはそれをもとに映画を作っ、」
「お待ちよ」
ぴしゃりと遮られた。こちらをふり向いた顔の色が変わっている。ちっ、と舌打ちをしたとたん、ものすごい早口でまくしたてた。
「冗談じゃないよ。巽センセもいったい何考えてんだろう、そんな話だったらはなからお断りだね。こんちきしょう腹の立つ、うちになんか上げるんじゃなかった、ああもうとっとと帰っとくれ」
畳に手をついて立ち上がろうとする。ほんとうに厨房から塩でも取ってきそうな勢いだ。
「待って下さい」
僕も腰を浮かせて行く手を阻み、それでも足りずに両手で彼女の肩を押さえた。
「何すんだよ、お放しよ!」
「まずは話を聞いて下さい」
「うるさいったら、帰れ、帰れッ」
癇癪持ちの激情家と、聞いてはいたが想像以上だ。手負いの小動物のように後先考えずに腕を振り回す。
「お願いですから、どうか落ち着いて」
あえて声を低めてなだめた。
「これは決していいかげんな話ではなくてですね、」
「うるさい、黙れ」
「や、わかります。これまであなたがどれだけ、興味本位のテレビ番組や、便所紙にも劣るカストリ本に傷つけられてきたかはよくわかってるんです。でもそういうのとは、断じて違うんですよ」
「どこが違うってんだい。あんたたちのやり口なんかみんなおんなじだよ。絶対へんなふうには書かないからって言うくせに、いざ記事になると、淫乱だの色情魔だのってどぎつい見出しが躍ってさ」
「いえ、僕はそんなこと絶対にしません。エログロなんかには何の興味もない。そうじゃなくて、僕はただ、あなたというひとについてほんとうの、正真正銘の真実を知りたいだけなんです。それをきっちりと伺った上で世に問いたいんだ。あなたたちの名誉のためにも」
互いに膝立ちで睨み合う。これだけ間近に見ても肌はつやつやしている。
「……あなた、たち?」
彼女が唸る。
「たち、って何だい」
「きまってるでしょう。あなたと石田吉蔵ですよ」
ひゅっと息を吸い込んで何か言いかける彼女を制し、懸命に言葉を継ぐ。
「もう、長いこと……この歳になるまで四半世紀ばかりを費やして、僕は自分の足で調べもしたし、人の話も聞いてきました。消息のわかる関係者を片っ端から探し出して会ってね。といって、その人たちの話を鵜吞みにはできない。彼らにとっての〈真実〉は、その人たちの目から見た一方的な解釈でしかないんだから。そうでしょ? だからこそ、今日こうしてあなたにお願いに上がったんです。あの事件前後の真実を、あなたの口から直接伺って、それだけじゃなく僕の集めた証言についての検証もして頂きたい。たとえ最後まで詳しく聞かせて頂いた後であっても、もしもあなたが、やっぱりこんなのは駄目だ引っこめてくれとおっしゃるなら、僕はあきらめます。本にして世に問うこともしないし、映画だって作りません。信じて下さい」
「……信じる?」
彼女が睨み上げてきた。片方だけ描かれた眉が怖い。
「何なんだい、信じるって。そうやってどれだけの男があたしを騙くらかしてきたか」
「ええ、知ってます。だけど僕を、そいつらと一緒にしないで頂きたい」
はっ、どうだか、と嗤う。
「……わかった、じゃあいいよ。あたしが言ったらあきらめるんなら、今ここでケリをつけてあげようじゃないか。ああ、駄目だよ、そんなことは許さない」
「定さん」
初めて名を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「お願いします、定さん。許す許さないの判断はひとまず置いて、とにかく、僕がこれまで書き溜めてきた記録に目を通してみてくれませんか」
「ふん。もしもあたしがその上で、こんなものは何もかも噓っぱちだ、全部燃やしてくれって言ったらそうするとでも言うのかい」
「それがあなたの望みですか」
「だと言ったら?」
僕は息を吸い込んだ。
「……わかりました。お約束しましょう」
「はあ?」
「二十五年かけて記録してきた証言も、集めてきた新聞や雑誌の記事も、その時はすべて燃やします。それでいいですか」
彼女が目を剝いた。
「あんた……この暑さで頭が沸いちまったのかい? どんなもんだか知らないけど、精魂傾けて作ってきたものなんだろ?」
「そうですね」
「だったら、はなからあたしに確かめたりしないで、映画でも何でも適当に作っちまやいいじゃないか。誰もがそうしてきたみたいにさ」
いいえ、と僕は言った。
「それでは何の意味もないんです。うちの監督は、誰かの二番煎じみたいなものは絶対に作りたがらない。いや、それより何より僕が─言ったでしょう、僕はただ、知りたいんですよ。あなたと石田吉蔵の間に、二人にしかわからない言葉や情のどんなやり取りがあったのか。それこそ『二人キリ』の世界で起こったほんとうのことを、なんとしても知りたい、それだけなんです」
(続きは本誌でお楽しみください。)