「危ないっ!」という絶叫が聞こえたときにはもう、身体は重力から解放されていた。ふんわりと宙へ舞い上がり、上下の概念が消失し、千切れ雲が漂う三月の空を正面に見ている。痛みはない。というより、ほとんどなんの感覚もない。
それでも、瞬間的に状況は理解できた。
車に撥ねられたのだ。
─死ぬのだろうか。
そんな予感が胸をよぎりつつ、どこかホッとする自分がいるのも事実だった。
─まあ、それも悪くないか。
これでもう、全部終わるのだ。
やっと解放されるのだ。
安堵とともに脳裏をかすめたのは、やはり〝彼女〟のことだった。笑うと消えてなくなる目、つんと澄ましたような唇、透明な白い肌に映える二つの泣きぼくろ─
叶うなら、もう一度だけ声を聴きたかった。もう一度だけその肌に触れたかった。そしてなにより、謝りたかった。
ごめんな、と。
いろいろ黙っていて、ごめん。そのせいで、もしかすると傷つけてしまったかもしれない。でも、自分は心から君を愛していたんだと、ただそれだけ伝えたかった。
〝彼女〟の残像を繫ぎとめておきたくて、眼前の青空へと手を伸ばす。無我夢中で、最期の力を振り絞って。たった三本しか指が残っていない左手を必死に─
ドンッという衝撃。
それと同時に、世界は暗転した。
1
「指無し死体です」
私がそう口にした瞬間、シンクで金魚鉢を洗っていた男の手が止まった。ここまでは何を言っても柳に風、暖簾に腕押しでまったく手ごたえがなかったのだが、ようやく好奇心の網に搦め捕られたようだ。
「死体に、指が無かったんです」
「首ではなく?」
即座に寄越される物騒な確認─まるで、首のほうがまだ理解できるかのような口ぶりだ。が、その表情を見るに冗談や軽口の類いでないのは明白だった。いやはや、まったくもってふざけたやり取りである。もし仮に私が探偵事務所の助手で、目の前の男がその事務所の主だとすれば─いや、だとしてもやっぱり異常なことに変わりはないのだが。
「指です」と念押ししながら、辺りを見回す。
向かって右手には普段なら金魚鉢が載っているはずの棚、左手奥の壁際には縦型の巨大な業務用冷凍・冷蔵庫、正面には四口コンロ・巨大な鉄板・二槽シンク・コールドテーブルなどが並ぶ広大な調理スペース、天井には飲食店の厨房などによくあるご立派な排煙・排気ダクト。
そう、ここはレストランなのだ。それも、ちょっとばかし……いや、そうとう変わり種で、もしかするとかなりグレーな商法の。
そして、私はというと、ビーバーイーツの配達員としてこの〝店〟を頻繁に出入りする、ただのしがない中年男だ。
蛇口の水を止め、タオルで手を拭いながら、男は─白いコック帽に白いコック服、紺のチノパンという出で立ちのこの〝店〟のオーナーは、小さく首を傾けた。
「それは、いささか妙だね」耳に心地よい澄み切った声で言い、そのまま歩み寄ってくると、私の対面に腰を下ろす。
「話を続けて」
事の概要はこうだ。
いまから一週間前、三月某日。時刻は午後二時過ぎ。埼玉県春日部市の某所にて、指宿大志郎という男が車に撥ねられ死亡した。年齢は三十五歳、家族は妻が一人。とある大手ハウスメーカーの社員で、三年前から春日部支店に勤務。この日もリフォーム希望の個人宅へ訪問する予定だったという。そうして近くのコインパーキングに営業車を停め、横断歩道を渡っていたところ─
「信号無視の暴走車が突っ込んできたんです」
なんとも痛ましい事故ではあるが、これ自体に不可解な点は特にない。車を運転していたのは近所に住む八十代の男性で、信号が赤に変わっていることに気が付かなかったと供述しているとのこと。指宿大志郎やその遺族には申し訳ないが、こればかりは誠に不運だったと言うほかないだろう。
問題はその先だった。
「今回の依頼者は、指宿大志郎の妻・頼子でして」
警察から連絡を受け、遺体と対面した彼女は、そこではたと気付いたのだという。夫の左手の指が─小指と薬指の二本が、根元の辺りから欠損していることに。事故のせいかと警察に尋ねてみたが、どうもそうではないらしい。見る限り、既に処置から半年程度が経過しており、元からこうだったとしか思えないのだとか。
「ストップ」とオーナーは続きを制する。
「つまり、彼女はそこで初めて指がないことに気付いたと?」
「そのようです」
「二人は別居していたわけでもない?」
「ええ」
やはり、違和感を覚える点は同じようだ。
彼女はそこで初めて気付いた。裏を返せば、それまでは気付いていなかったということになる。同じ屋根の下で一緒に暮らしていたにもかかわらず、だ。さすがにこれを聞かされたときは「そんな馬鹿な」と胸の内で笑ってしまった。夫の指が二本も欠けていることに、半年ちかく妻が気付かないなんて─
「そんなこと、ありえるでしょうか?」
依頼者本人が目の前にいるわけではないので、心置きなく鼻を鳴らす。そもそもどういう状況で欠損したのか? 病院から連絡はなかったのか? なかったのだとしたら、それはなぜか?
疑問符の海で溺れかける私をよそに、オーナーは「ところで」と頰杖をつく。
「ご結婚は?」
質問の主旨がよくわからなかった。
「それは、この私が、という意味ですか?」
「うん」
「まあ、してますけど……」
「奥さまなら、絶対に気付くはずだと?」
「もし私の指がなかったとして、ということですよね?」
「そしてそれをご自身から奥さまに伝えなかったとして」
「いやいや」
なにふざけたことを、と憤慨しかけて、はたと口を噤む。どうだろう、と急に自信がなくなったからだ。私の妻は─咲江は、はたして同じ状況だったとして私の指が欠けていることに気付くだろうか。暮らしの中で顔を合わせる瞬間はほとんどなく、二人で食卓を囲むこともない。寝室も別々だし、もう何年も身体を重ねていないどころか、手を繫ぐことだって皆無だ。
「さすがに気付くかと思いますが」
いやどうだろう、とあらためて自問しながら、呆れたように肩をすくめてみせる。むろん、呆れたのは質問の荒唐無稽さに対してではなく、その点に自信を持ちきれない自分の境遇についてではあるのだが。
「それは、幸せなことだ」
そう独り言ちると、オーナーはコック帽を脱ぎ、テーブルの上にとんと置いた。
櫛通りの良さそうなミディアムヘアーに、冷ややかで人工的な上がり眉、聡明さと気怠さが同居する切れ長の目。いつ見ても溜め息が出るほどに完璧な造形をしているが、中でも異彩を放っているのはその瞳だった。無機質で無感情。すべてを見透かすようでありながら、こちらからは何の感情も窺い知ることができない。言うなれば、天然のマジックミラーだ。
そのマジックミラーが私を捉えて離さない。
自分に噓をついてませんか、と無言の圧力をかけるかのように。
「いずれにせよ」と私は視線を逃がす。
「特に事件性があるわけでもないため、警察による捜査は行われていません」
「まあ、だろうね」
「とはいえ、やはり知りたいんだそうです」
夫の指が二本欠損していた、その真の理由を。
「なお、ご本人はこんなことを仰っていました」
闇金へと手を出した末に首が回らなくなり、ケジメや脅迫の一環として指を詰められたのではないか、と。
─まあ、ありえませんよね。
同時に、言ったそばから彼女はこう首を振っていた。
たしかに、いまどきヤクザがそんなことを─それも仲間内ではなく〝堅気の人間〟に対して強要するとは思えないし、する必要もあるまい。なくなっていたのが腎臓ならまだわかるが、彼らにしたって「指なんかいらないからさっさと金返せ」だろう。
「ただ、彼女がそうした発想に至ったのには、いちおう理由があるんです」
というのも、遺品を整理している中で、名刺やら何やらから大志郎が頻繁にキャバクラへ出入りしていたことがわかったのだという。そして、どうやら特定の一人に少なくない額をつぎ込んでいたらしいということも。
「これです」と先ほど借り受けたばかりの名刺を卓上に差し出すと、手元に引き寄せたオーナーの片眉が「ほう」と上がった。
『Club LoveMaze』─直訳すれば〝愛の迷宮〟といったところか。なんとも小洒落た筆記体に眩いホログラム加工、そして紙面の右半分にはやや斜めを向いた女性のバストショット。明るい金色の髪をハーフアップにし、挑発的な微笑を浮かべている。源氏名は「東堂凜々花」というらしい。面白いのは、その顔の造りがどことなく妻の頼子に似ていることだった。派手さや垢抜け具合は比べるまでもないが、色白の肌や意志の強さを感じさせる大きな瞳、いくらか腫れぼったい唇など、個々のパーツにはいくつか類似点が見いだせる。たぶん、こういう感じが大志郎の好みなのだろう。
「割と近くの店だ」顔の前に名刺を掲げたまま、オーナーは呟いた。
「そうなんです」
記載の住所は、たしかに港区六本木となっている。
「で、この『東堂凜々花』とやらに入れ揚げていたらしいと?」
ええ、と頷きつつ、すかさず補足する。
「ですが、彼女が言うにはそれはそれで妙だということでして」
なぜなら、夫である大志郎には、そうした遊びに繰り出せるほどの金銭的な余裕はなかったはずだから。月の小遣いは三万円。それを差し引き、残った分の給与は全額家族の口座へ振り込んでいたという。
「給与明細や賞与明細までチェックしていたらしいので、へそくりを貯められるはずはないとのことです」
となると、たしかに消費者金融などに頼っていた可能性はあるし、その限度額を超えたために違法な闇金へ手を出した可能性も、絶対にないとは言い切れない。
「とまあ、だいたいこんな感じです」
「なるほど」そのまま天井を仰ぎ、オーナーは瞼を閉じる。
十秒、二十秒と時が過ぎ、やがて彼は「ちなみに」と口を開いた。
「欠損していたのは、左手で間違いない?」
「はい?」
「右手ではなく」
あらためて問われると若干自信は揺らいだが─
「ええ、左手で間違いありません」
「なるほど」ともう一度頷きながら、彼はやおら席を立った。
「え、もうお分かりに?」
「いや、さすがに」
なので、とオーナーはコック帽を手に取り、被り直す。
「三日後、もう一度来てもらいたい」
つまり〝宿題〟が課されるということだ。まあ、それはそれで報酬が増えるため、特に悪い話ではないのだが。
「時間は、夜の九時で」
「承知しました」
瞬間、ぴろりん、と調理スペースに置かれたタブレット端末が鳴る。
「あっ」と私が目を向けたときには既に、彼は端末のほうへと向かっていた。
「注文ですか?」
「そのようだね」
「メニューは?」
「例のアレだよ」
〝例のアレ〟─すなわち、ナッツ盛り合わせ、雑煮、トムヤムクン、きな粉餅。通常では考えられない、地獄のような食べ合わせとしか言いようがないものの、だからこそ、これらのメニューをあえて注文する客には一つの共通点がある。
調理スペースに立つと、オーナーはシンクに置き去りにしていた金魚鉢を取り上げ、タオルで乾拭きし始めた。
「さて、またどこかの誰かさんがお困りのようだ」
(続きは本誌でお楽しみください。)