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三上徹は馬の引き綱を外し、放牧地の外に出た。母馬ととねっこ─今年生まれた仔馬が放牧地の奥へと駆けていく。出入口を閉め、しばらく母子の行方を目で追った。
整地されている他の放牧地とは違い、母子が放たれた放牧地は凹凸が多い。奥は小高い丘のようになっており、高低差は二十メートル近くある。自然のままの地形を利用しているからだ。
父の収がこの放牧地をそのような形にした。とねっこが駆け回るたびに、凸凹に足を取られて怪我をするのではないかという心配が胸をよぎるのだが、収は気にかける様子もない。
雪解けが進んだ放牧地はぬかるんでいるが、母子は慣れたものだ。丘の上まで一気に駆け上がっていくと、雪の下でたくましく冬を過ごした牧草を食みはじめた。
徹は踵を返し、事務所に向かった。これで繫養している馬すべての放牧が終わった。馬たちが寝起きする厩舎では母の華と妻の美佐が馬房の掃除に勤しんでいるはずだ。馬房の清掃が終われば、午前の作業は一旦終了になる。午後は飼い葉─馬の餌の用意をし、放牧している馬たちを収牧して馬房に戻し、体の汚れている馬は洗ってやり、飼い葉を与える。
ルーティンとはいえ、冬場の作業は応える。暖かい日差しが恋しいが、北海道に春がやって来るのはずっと先だ。
事務所では、石油ストーブの前に陣取った収が繫養している牝馬たちの種付けリストに目を通していた。
徹は食器棚から自分専用のマグカップを取り出し、緑茶のティーバッグを放り込んだ。ストーブの上で湯気を噴いているヤカンのお湯をカップに注ぐ。
「そろそろフラナリーの種付けだな」
収がひび割れた声を出した。日焼けした顔には深い皺が刻まれ、黒いニット帽の下はすっかり禿げ上がっている。北の大地で五十年近く、馬の世話を焼いてきた肉体は頑健で、徹の記憶にある限り、風邪ひとつ引いたことがない。
「今年もフェスタを付けるぞ」
予想した通りの言葉が耳に飛び込んできた。
「またかよ」
徹は例年と同じ言葉を口にした。
フェスタというのはナカヤマフェスタという種牡馬のことだ。ステイゴールドの産駒で宝塚記念というGⅠレースを勝ち、フランスで毎年行われる凱旋門賞という大レースで勝馬に肉薄する二着になったことでも有名だ。
ナカヤマフェスタに関することで有名な話がもうひとつある。産駒が走らないのだ。
父のステイゴールドが名うての気性難の馬だったが、ナカヤマフェスタはその父に輪をかけた気性難の馬だった。一度へそを曲げると、立ち上がったり、所構わず尻っぱね─後ろ脚を蹴り上げたり、背中に跨がっている人間を振り落としたりするのが常だった。
その気性が子供にも遺伝して、競馬で能力を発揮できないことが多いと徹は考えている。
ナカヤマフェスタだって、もう少し気性が穏やかだったら、GⅠのもうひとつやふたつは取っていたはずだ。凱旋門賞だって勝てたかもしれない。
それだけのポテンシャルのある競走馬だったのだ。
だが、どれだけいい馬体、いい筋肉を有していても、それが競馬の結果に繫がらないのなら話にならない。競馬は白黒がはっきりしている世界だ。勝つか負けるか。勝つ馬は賞金を稼ぎ、スター扱いされる。牝馬なら引退した後に産む子が期待されるし、牡馬は種牡馬として第二のキャリアを歩む。GⅠの勝ち鞍の多い馬ほど、産駒が活躍する馬ほど種付け料は上がり、集まってくる牝馬の数も跳ね上がる。
ナカヤマフェスタの産駒は走らない。それは生産者や馬主の間では通説になっていた。これまでに重賞を勝った産駒は一頭のみ。安い種付け料と、オルフェーヴルやゴールドシップという怪物級のスターホースと同じ父を持つのだからもしかするとという期待、このふたつを胸に抱いてナカヤマフェスタを種付けする生産者は細々と繫がっている。
無事受胎して出産にこぎ着けても、セリで高値は付かないし、多くは主取り─買い手が付かずに終わる。
牧場は馬が売れてなんぼの商売だ。値が付かないとわかっている馬の種を付けたがる生産者などいない。
「いい加減、諦めろよ」
徹は言った。収が首を横に振った。
「凱旋門賞を勝つには、スタミナが豊富な在来牝系にステイゴールドの血を加えるのが一番なんだ。それはナカヤマフェスタとオルフェーヴルが証明してるだろう」
収の声は相変わらずかたくなだった。ナカヤマフェスタの話をするときは決まってそうなのだ。
同じくステイゴールドの産駒であるオルフェーヴルはクラシックと呼ばれる三歳馬のGⅠレース三つをすべて勝った。三冠馬と呼ばれる馬は、日本の競馬史においても七頭しか出ていない。どれもこれも名馬中の名馬だ。
三冠を制した年の暮れ、オルフェーヴルは格式の高い有馬記念というGⅠレースで古馬たちを蹴散らして勝ち、その年の年度代表馬の称号を得た。
翌年の秋、オルフェーヴルはフランスへ飛び、世界一とも称される大レース、凱旋門賞に出走したのだ。雨降る重馬場もなんのその、オルフェーヴルは直線で先頭に立つと他馬を置き去りにしてゴールを目指した。だれもが日本調教馬による悲願達成を確信した次の瞬間、信じられないような出来事が起きた。ゴール直前、オルフェーヴルが右にもたれて失速したのだ。そのせいで後ろの馬に抜かれ、オルフェーヴルは二着でゴールを通過した。
全国のテレビの前で、ほとんどの競馬ファンが悲鳴をあげたに違いない。
ステイゴールドの血が、歴史的快挙の目前でへそを曲げたのだ。
オルフェーヴルは翌年も凱旋門賞を目指したが、やはり、二着に終わった。
多くの日本調教馬が凱旋門賞に挑戦し続けているが、四度の二着が最高成績だ。そのうち三度はステイゴールドの産駒の成績である。収がステイゴールドの血にこだわるのは理解できる。
ステイゴールドの血を引く馬たちは、日本の競馬場では苦戦することが多い。ディープインパクト産駒のように切れ味を武器とする馬に向いた馬場作りが主流だからだ。日本の競馬場の芝は、ヨーロッパなどに比べると時計─走破タイムが速い。爆発的な加速力とスピードがなければ勝ちづらいのだ。ステイゴールドはディープインパクトと同じサンデーサイレンスの息子だが、その産駒の性質は真逆だった。
開催が長引いて馬場が荒れてきたり、雨が降ったりすると、ステイゴールドの血を引く馬たちが台頭しはじめる。スピードよりパワーに寄った血統で、スタミナ勝負向きなのだ。
良馬場だろうが重馬場だろうが圧倒的な勝ちっぷりを見せたオルフェーヴルは突然変異的な怪物だ。怪物はそう簡単には生まれない。
「オルフェーヴルは種付け料が高すぎる」
収が続けた。
「だったらフェスタしかいないだろう」
オルフェーヴルは引退後、日本最大の種牡馬牧場、社台スタリオンステーションで種牡馬入りした。当初の種付け料は六百万。三冠馬の種付け料としては破格の安さだ。しかし、小さな牧場にはそれでも高すぎる。
対してナカヤマフェスタの種付け料は二十万だ。この値段なら、なんとかなる。それにしたってセリで馬が売れなければ話にならない。
フラナリーは三年連続でナカヤマフェスタを種付けしている。放牧地にいるとねっこもナカヤマフェスタの子だ。上の二頭はセリでも売れず、親しい馬主に庭先取引─直接交渉して買ってもらった。どちらも百万円。種付け料と売れるまでの世話にかかった金を合わせると完全な赤字である。
「道楽で牧場をやってるわけじゃないだろう」
徹は言った。
「わかってる。だから、他の繁殖の相手はおまえの意見に従ってるだろう。フラナリーだけは、おれの我が儘を聞いてくれ」
フラナリーは収が探してきて買った牝馬だ。血統を徹底的に見直し、ステイゴールドの血に一番合うはずだと、顔見知りの牧場主に無理を言って譲ってもらった。
フラナリーは収の執着が凝り固まってできたような馬だ。
凱旋門賞で勝つ馬を作る─それが収の執念だ。
「ナカヤマフェスタとフラナリーの子が、万一、凱旋門賞を勝てるような能力を持ってたとしても、日本の馬場で勝てなかったらそもそも凱旋門賞に行けないじゃないか」
徹は吐き捨てるように言った。凱旋門賞に挑戦する馬の多くはGⅠを勝った馬だ。
「またその台詞か」
収が立ち上がった。リストを傍らのテーブルの上に置き、上着を羽織る。
「夢を見なかったら、こんな商売、やってられんだろう」
そう言って、収は事務所を出ていった。
「夢で腹が膨れるなら、いくらでも見りゃいいんだよ」
でも、そうじゃないだろう─徹は最後の言葉を飲み込んだ。
自分にだって夢はある。まずは未勝利戦を勝つ馬を送り出したい。オープン馬を作りたい。できれば自分が生産した馬が重賞を勝つ姿を見たい。そして、いつか、GⅠを勝てたら︙︙。
日本の競馬はクラス分けがなされている。まだ一度も勝ったことのない馬たちが走る未勝利戦。一勝馬たちが走る一勝クラス。さらに、二勝クラス、三勝クラスと上がっていき、四勝すると晴れてオープン入りということになる。
祖父の代のころは、オープン馬が何頭も出ていたらしいが、ここ十年以上、三上牧場の生産馬でオープン入りをした馬は出ていない。
いつか、この手で─収の言うとおり、夢を見なければやっていけないのがサラブレッドの生産だ。
それでも、凱旋門賞は夢のまた夢だ。こんな小さな牧場は夢見ることすらゆるされない。
「くそったれ」
徹は毒づき、カップの中身を啜った。