序章 ノモンハン
命を惜しむな。名こそ惜しめ。
朝倉九十九は大隊長の言葉を胸で反芻しながら自分の小隊の持ち場に向かっていた。ほんの五分前、この高地を死に所と定めた大隊長は、九十九をはじめとする下級指揮官を集めてこのように言い放ったのだ。
地面を二メートルばかり掘り下げた塹壕のなかを歩いて陣地に戻ると、小隊の兵士たちが目前に迫った戦いの準備に追われていた。
ある者は複数の手榴弾を針金でひとつにまとめて結束手榴弾を作り、ある者は竹竿の先に地雷を結びつけ、またある者はサイダー瓶にガソリンをそそぎ入れていた。これらはすべて、肉薄攻撃用の対戦車兵器だった。
作業が進むかたわら、九十九は塹壕から頭を出して外の様子をうかがった。
眼下に、一望千里の大平原が広がっていた。
点々と緑が混じる赤茶けた大地は、見渡す限りどこまでも真っ平らで、澄み切った空には恨めしいほど輝く太陽があるほかは、雲ひとつない。あまりの暑さに腰の水筒に手を伸ばしかけるが、小隊の兵士たちの軍服に白っぽく塩が浮いているのを見て、ぐっとこらえる。
すぐ近くを流れるハルハ河まで水を汲みに行けなくなって、五日が経っていた。ドラム缶のガソリン臭い水が今朝で尽きたことを思い出し、水筒に少し残った水は部下のために取っておかねばならないという理性が働いたからだった。死に水を取る、という儀式のために。
昭和十四年夏、ノモンハン─。
満州とモンゴルの国境紛争に端を発したノモンハンでの争いは、ほどなく双方の後ろ盾となっている日本とソ連との全面的な軍事衝突に発展した。
牛刀をもって鶏を割くがごとき、と豪語して兵を送り出した満州防衛の任に就く日本軍、つまり関東軍は、ソ連軍の物量に圧倒されて各所で敗退を重ね、ハルハ河沿いの高地に布陣した一個大隊も、五日前から続く激戦ですでに戦力の半分を失っていた。
一週間前、九十九の工兵小隊には三十人の元気な男たちがいた。それが今や十五人を残すのみで、その十五人とて手傷を負っていない者はひとりもない。進むもならず、しりぞくもならず、数倍の敵に包囲された男たちにとって、陣地を枕に討ち死にを遂げる以外の道は残されていなかった。
「朝倉小隊長」
塹壕の外を眺めていると声をかけられた。小隊の先任、竹中軍曹だ。
「大隊長はなんと」
最前行われた指揮官会議のことだった。
「死ねと言われたよ。靖国で会おう、とも」
初めて任された小隊であり、初めて持った部下である彼らを十死零生の死地に投じなければならないと思うと、肩に重たい物がのしかかってくるようだった。それは、十五人に減ってしまった兵士たちの命の重さであった。
「そうですか。われわれはやはり助かりませんか」
「寸土も敵に渡すべからず。死んでも高地を守れ、という命令を、後方のお偉方は変える気がないらしい。死んだあとのことまで責任なんて持てないが、勝手に逃げても銃殺刑だからな。どのみち、俺たちは死ぬしかない。だけどな」
九十九は小隊の兵士たちに目をやった。
「鈴木のところ、先週だったよな。兄貴が支那で死んだの。兄の葬式も済んでいないのに弟まで死なせたらと思うと、どうにもな」
「わかります」
「それに、向田のやつはあと半年で兵役が終わる。国に帰ったら家業の酒造りを手伝うんだとうれしそうに言っていた。一本贈られたことがあるが、これがなかなかうまくてな。できることなら、俺は向田二等兵の造った酒をいつか飲んでみたい」
「ええ、自分もです」
「それから竹中軍曹、君は来月父親になる予定だろ。自分のところに来てくれる嫁がいるなんて、と言って君が号泣したのは一昨年だったか。俺は、そんな泣き上戸の先任軍曹に赤ん坊を抱かせてやりたいと本気で思っている。叶わぬ夢とわかっていてもな」
「小隊長……」
竹中軍曹は一瞬目を潤ませた。
「小隊長、弱気は禁物です。生きようと戦えばかえって死を招き、死ぬつもりで戦えばむしろ生き永らえると言いますから」
「誰の言葉だ」
「たしか、春秋戦国時代の兵法書に載っていたかと。呉子だったかもしれません」
「支那と戦争している俺たちが、支那の賢人の言葉を借りるのか。だが、いい言葉だな。小隊の皆にはそのように伝えよう。ただ死ねと言われるより、よほどいい」
九十九は腕の時計を見た。陸軍士官学校に入学するとき姉から贈られた精工舎の腕時計だ。針は午前五時を指そうとしていた。
「皆を集めてくれ。そろそろ敵の準備砲撃が始まるだろう。その前に話しておきたい」
竹中軍曹が小隊に集合を命じているあいだ、チッチッと動く時計の秒針を凝視した。時間を知りたかったわけではなく、時計をくれた姉の言葉を思い出していた。
人を殺してなんぼの商売、それが軍人でしょ。そんなろくでもない仕事に就きたいって言うあんたは、どこか頭のネジが外れているのね。
竹を割ったような気性の姉は、思ったことをすぐ口に出す。軍人を馬鹿にするようなことを外で言って、万が一憲兵や特高に目をつけられでもしたら、と親父は常々心配していたが、姉の意見にはどこか同調するようなところがあった。徴兵されて海軍で顔の形が変わるほど殴られた親父は、軍隊というものに心底嫌気が差していたのだろう。
だからこそ、俺は陸軍を志願したのだ。
いずれ赤紙がきて徴兵されたら、親父のように古参兵にいやというほど殴られる。そう思ったから、海軍ではなく陸軍士官学校に入って将校となる道を選択したのである。将校になれば理不尽なしごきと無縁でいられるだろう、とソロバンを弾いたからだった。
だが今思えば、そういう貧しい発想しかできなかったかつての自分は、姉の言うようにネジが一本外れていたのかもしれない。兵役が終わるまでの何年かを我慢すれば済んだものを、職業軍人の道を選んだことで、生涯人を殺し続けなければならなくなったのだから。
いや、違う。
殺すこと、殺されること、その両方を兵士たちに強要し続けなければならなくなったと言うべきなのかもしれない。将校とは、そういう因果な立場に置かれた暴力の管理者であった。
「小隊長、集まりました」
竹中軍曹の声で顔を上げた。
十五人の傷ついた男たちが整列していた。
いつも裸踊りで宴会を盛り上げる宮本、万葉集をそらんじて学者先生なるあだ名をつけられた塚原、小隊対抗の相撲大会で三年連続優勝の土屋、ひとりしかいない兄を亡くしたばかりの鈴木や、造り酒屋の跡取りである向田もいる。二十一歳で小隊指揮官を拝命してより二年と半年、同じ釜の飯を食い、苦楽をともにしてきた男たちが、希望と絶望が混じり合った顔つきで小隊長の言葉を待っていた。
「皆、いい顔になったな。俺が女だったら惚れてしまうところだ」
どっと、笑いが起きた。
九十九は笑いが収まるのを待ち、表情を改めてから言った。
「俺たちの戦いは、今日が最後だ」
男たちの背筋が伸びた。
「まもなく敵の攻撃が始まるだろうが、われわれに残された弾薬はあとわずかである。水も糧食も尽き、たとえ今日の攻撃をしのいだとしても、明日を戦うことはできないだろう。従って、結果がどう転んでも今日の戦闘が最後となる」
陣地の外に見えていたのは、広大無辺の大平原だけではない。
それは高地を取り巻くように掘られた長大な塹壕線であり、砲塔だけを地上に出した戦車の群れであり、空気を震撼させるほどの殺意を秘めた幾千、幾万のソ連軍将兵であった。
「俺たちが明日を生きて迎えるのは難しいと思う。しかし先ほど、先任がいいことを教えてくれた。なんであったか、先任」
「小隊長殿が酒好きだというお話のことでしょうか」
「違う。そこじゃない。命を捨てる覚悟で戦えばかえって生き延びるという話だ。わかっていて茶化すな」
「申し訳ありません!」
列中から忍び笑いが漏れた。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉もあるが、わが小隊はこれでいく。死ぬ気で戦い、死なずに勝つ。これだ。これでいく」
遠くのほうで、ドンッと腹に響く音がした。
「おいでなすったぞ。いいかお前たち、命を惜しまず戦うのだぞ。そして吹くはずのない神風を吹かせてみせろ。わかったら配置につけッ」
兵たちは得物を手に四方に散り、塹壕線の前に掘られたそれぞれのたこ壺に飛び込んでいった。
彼らは対戦車戦闘専任の工兵だ。
だが戦車どころか速射砲の一門さえ持たない小隊にとって、鋼鉄製の怪物と戦う術は結束手榴弾であり、竹竿つきの地雷や火炎瓶であり、なにより兵士個々の勇気に支えられた肉薄攻撃、すなわち肉弾である。
九十九は頭上に降りそそぎ始めた敵の砲弾を塹壕のなかでやり過ごしながら、そっと軍刀を握り締めた。戦車の装甲を切り裂く力がこいつにあれば、と思うと、心底悔しかった。
三十分もすると砲撃が止んだ。
間髪を入れず、高地のふもとで喊声が上がった。ウラーッ、ウラーッという突撃の雄叫びである。外を見ると、五十を超える戦車が菱形隊形で斜面を登ってきていた。その背後に、おびただしい数の歩兵が徒歩で続いている。
隣の小隊が軽機関銃を撃ち始めた。
擲弾を撃ち込む者もいる。
しかし焼け石に水という有様で、ほどなく敵の一群が陣前に掘ったたこ壺の線に接触した。
一両の戦車にぱっと火の手が上がった。一瞬ののち、車体全体が炎の柱に包まれた。火炎瓶が命中したのである。ところが戦車は炎上しながら前進し続け、再度火炎瓶を投げつけようと立ち上がった兵が、後方の戦車から機銃掃射を浴びて倒れた。兄を失った鈴木だった。
地雷を踏んで履帯が外れ、身動きの取れなくなった戦車に飛び乗った者があった。造り酒屋のせがれこと向田だ。彼は外に出ようとした戦車兵を手にした円匙で殴りつけ、開けっぱなしのハッチから結束手榴弾を投げ入れた。
ハッチから勢いよく火柱が吹き上がった。だが向田二等兵は周囲を随伴する歩兵から銃弾による報復を受け、踊るように体をくねらせながら地面に落ちて後続戦車の下敷きになった。履帯に踏まれて押しつぶされていく内臓が、逃げ場を求めて口から飛び出す。
敵は塹壕線に達した。
九十九は軍刀を抜いた。
と、足元にこぶし大のなにかが転がってくる。手榴弾だ。
帝国陸軍少尉 朝倉九十九 享年二十三歳─。
おのれの墓碑銘がさっと頭をかすめた。
「小隊長!」
突然誰かに突き飛ばされた。
バンッという破裂音がすぐ近くでしたかと思うと、生温かい物が顔にべしゃりと張りついた。
顔をぬぐうと、蛇のような赤黒い物体が地に落ちた。人間の腸だった。
腹のあたりからふたつに裂けてしまった竹中軍曹が、散乱する臓物のなかで倒れていた。彼は手榴弾に覆いかぶさったのだ。不甲斐ない小隊長を守ろうとして。
ウラーッ!
銃剣をきらめかせたソ連兵が目前に迫った。
九十九は吠えた。なにを叫びながら刀を振り下ろしたかはわからない。
だが戦場に夕暮れが訪れたとき、彼の周りには五つの斬殺体があった。そしてより多くの日本兵の亡骸に、彼は囲まれていた。
同日九月十五日、日本とソ連のあいだに停戦協定が結ばれた。
この日行われたノモンハンを巡る最後の戦闘で、朝倉九十九は小隊唯一の生き残りとなった。
(続きは本誌でお楽しみください。)