第一章 旅立ち

(一)

 比叡山無動寺は平安時代の貞観七年(八六五)に、千日回峰行の始祖である相応和尚によって創建された。
 以来千日回峰行の拠点となり、東塔の谷のひとつでありながら「南山」と呼ばれて敬われるようになった。
 寺の一画に大乗院がある。ここの庵室に後醍醐天皇の皇子である懐良親王が身を寄せたのは、延元元年(一三三六)五月のことである。
 この年帝は北朝を擁立した足利尊氏に都を追われ、東坂本に難をさけられた。懐良も他の皇子たちと同行したが、帝はまだ八歳の幼子を陣中におくのをはばかり、無動寺で預かるように天台座主に命じられた。
 それから二年、懐良は大乗院で学問や歌道に打ち込んだり、回峰行者たちに手ほどきを受けて身心を鍛えながら来るべき日に備えていた。
 その時が来たのは延元三年(一三三八)閏七月十日、比叡山に秋風が吹き、山頂の木々が紅葉し始めた頃だった。
「宮さま、吉野の帝から勅命がとどきました。当月二十日までに𠮷水院の行宮に参じよとのご下命でございます」
 側近で教育係の五条良氏が、三宝にのせた勅書をうやうやしく差し出した。
 懐良は姿勢を正して受け取り、形だけ目を通した。十歳にして四書五経を読みこなすほどの才に恵まれているが、複雑に崩した早書きの文字を読むことはできなかった。
「他には何と書かれておる。父君は息災であられるのか」
「お健やかに朝敵討伐の指揮をとっておられます。越前で新田義貞どのが討死なされましたので、当山も安全ではない。それゆえ吉野に移るべきだと、ご叡慮なされたのでございます」
「それにしても二十日までとは急すぎる。何か変事があったのではないだろうか」
 勅書の末尾に勢いよく記された花押を見ると、懐良の脳裡に帝の険しい表情が不吉な影のように浮かんだ。
「それは身共にも分かりませんが、吉野までは五、六日を要します。急いで仕度にかからねばなりません」
 懐良は早速、良氏の弟の良遠の手を借りて吉野に移る仕度にかかった。二十歳の良遠はいつも懐良の身の回りの世話をしている。厳格で生真面目な兄と違い、時には山歩きに連れ出してくれる気さくな従者だった。
「吉野に行くとなると、もうここにはもどれないだろうな」
 懐良は棚におさめた書物や書き物をなごり惜し気に見つめた。
 比叡山はこれまで帝の側に立って奮闘してくれたが、近頃は足利尊氏が擁立した北朝に従うべきだと主張する輩が多くなっている。しかも北陸を征圧していた新田義貞が八日前に討死したばかりなので、勢力を回復できる見込みもない。
 もう二度ともどれないのならみんな持っていきたかったが、吉野までの山道は遠く険しいので勝手なことは言えなかった。
「お気の毒ですが、書物などは当院に預けていくことになります」
「比叡山が敵方になったなら、私の荷物など焼き捨てられるだろうな」
「ここは御仏を奉ずる寺でございます。そのような無慈悲なことはいたしません」
 良遠は当面必要な懐良の衣類をまとめ、手際良く麻の袋に詰めていった。その多くは大乗院で使っていた僧衣だが、吉野で参内する時に必要な狩衣や直衣も新しい順に選り分けていた。
「ちょっと待て、それは」
 良遠が脇に押しやった若草色の直衣を、懐良は急いで引きもどした。二年前に無動寺に入る時、母親である二条藤子が仕立ててくれたものだった。
「それは持っていく。こちらの袋に入れてくれ」
「ずいぶんと小さくなって、もう着られないと存じますが」
「これは母君が下さったものだ。吉野でお目にかかった時に、この衣を見せて大事にしていたと伝えたい」
 この衣を渡す時、藤子は風邪などひかないようにと言って抱き締めてくれた。その温もりと着物に焚きしめた香のかおりが、今も鮮やかに記憶に残っていた。
 閏七月十二日の夜明け前、懐良らの一行は鈴懸の衣をまとい修験者に身を変えて無動寺を出た。
 供をするのは良氏、良遠兄弟と、五条家の供僧である隆慶、吉野から案内役としてつかわされた橋本次郎貞宗の四人である。
 良遠は弓の名手だし、隆慶は大柄で棒術の達人、次郎貞宗は忍びの技に長けているが、四人だけで懐良を警固して山中を行くのは心許ない。そこで無動寺の行者六人が刃を仕込んだ錫杖を持ち、行者の一行のように装って警固に当たっていた。
 無動寺から西の尾根にあがる険しい道を登りながら、懐良は住みなれた無動寺を離れる淋しさと、この先何が起こるか分からない不安に、腹に力が入らないような頼りなさを覚えていた。
 生まれた頃から父帝は倒幕のために奔走しておられたし、建武の親政の成功と失敗による戦乱も経験しているので、何があっても動じない覚悟は身につけているつもりである。
 だが南朝方は劣勢に立たされるばかりで、兄弟の中にも命を落とした者が何人かいる。大塔宮護良は鎌倉で殺されたし、一の宮尊良は越前金ヶ崎城で討死した。この時足利方に捕らえられた五の宮恒良の行方は知れないままである。
 やがて自分にもそうした運命がふりかかり、どことも知れぬ野辺の草むらに屍をさらすのではないかと、不吉な予感が日ましに切実になってくるのだった。
 一行は比良山地の尾根の道にあがり、南に向かってひたすら歩いていく。懐良も皆に遅れまいと足早に歩いていたが、頭上で突然猿のけたたましい鳴き声がした。
 見上げると赤ら顔の大きな猿が牙をむき、クヌギの枝を揺らしながら威嚇していた。
「ここは我らの縄張りだ。とっとと出ていけ」
 そう警告しているのである。
「おのれ。畜生の分際で」
 脅されてカッとなった次郎貞宗が、つぶてを打って追い払おうとした。
「やめよ。投げてはならぬ」
 懐良はいち早く異変を察した。目をこらして頭上をながめると、薄闇に包まれたクヌギの樹上に猿の群れがひそんでいた。
 百匹、いや、二百匹はいるだろう。比叡山の神獣とあがめられる猿たちが、今にもとびかかれるように前かがみの姿勢をとって一行を見下ろしていた。
「くわばらくわばら。悉皆仏性」
 次郎貞宗が肩をすくめてつぶやきながら、腰の革袋につぶてをもどした。
「おい次郎、お前はいつも軽はずみなことをする。やがてそれが命取りになりかねぬぞ」
 隆慶が錫杖でどんと地面を突いて忠告した。
 その音を合図にしたように、猿たちはいっせいに姿を消していた。


 懐良らは追分を抜けて近江に向かい、音羽山、千頭岳をこえて岩間山正法寺で宿を借りた。白山を開いた泰澄大師が創建した真言宗の寺である。
 六里(約二十四キロメートル)ちかい修験者の道を歩き通すのは、十歳の懐良には容易ではない。だが、無動寺で回峰行の見習いをし、歩き方と呼吸法を身につけていたことが功を奏し、供の者たちの手をわずらわせずにたどり着くことができた。
 二日目は役小角が開いたと伝わる鷲峰山金胎寺。三日目は後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げられた笠置山のふもとにある笠置寺。四日目は宇陀の榛原に近い香酔山青龍寺。そして五日目に吉野の金峯山寺に着く予定だった。
 いずれも山の霊気に包まれた山岳信仰の拠点だが、四日目、五日目になるとさすがに懐良の体力は限界にたっした。
 皆の足手まといになるまいと懸命に歩きつづけるが、疲れのあまり意識が遠のいて道の岩場につまずいたり、よろけて谷底に転げ落ちそうになる。
 すると巨漢の隆慶がひょいと抱え上げ、軽々と背負ってくれる。懐良は牛のように広い背中で眠り込み、身をゆだねたまま夢とも現とも分からない世界に迷い込むのだった。
 吉野に着いた時もそうである。
 隆慶の背中で深々と眠り、虚空で法を説かれる黄金の仏を拝していた。天上からふりそそぐ光を全身にあび、体中が得も言われぬ歓喜に満たされている。
 これは法華経に記された虚空会だ。しかし、どうして自分が参加しているのだろうと不思議に思っていると、
「宮さま、そろそろでございます」
 遠慮がちな良氏の声がした。
 懐良は即座に目を覚ましたが、とっさには現実にもどれない。ここはどこで自分は何をしているのかと、隆慶に背負われたままあたりを見回した。
 目の前にいかめしい黒門がそびえ、鎧をまとい槍を手にした兵たちが警固に当たっている。黒門の右手は山、左手は険しい谷で、敵の侵入を厳しく拒んでいた。
「金峯山寺か。ここが」
 懐良は隆慶の背中からすべり下り、両足で地面を踏みしめた。
「さようでございます。帝の行在所である𠮷水院は蔵王堂の奥でございます」
 良氏が来意を告げると、山門の兵たちがすぐさま奥に通した。
 巨大な銅の鳥居をくぐると狭い上り坂がつづき、道の両側に民家が立ち並んでいる。以前は参拝客相手に茶屋やみやげ物屋を営んでいた家だが、帝が寺に移られてからは軍勢の宿所にされ、戦にそなえて頑丈に造り変えられていた。
 驚いたことに、懐良らが境内に足を踏み入れたとたん、宿所から将兵たちがいっせいに出てきた。そうして片膝をつき頭を垂れて整然と沿道に控えている。
 およそ千人ばかりだろうか。平時だというのに鎧を着込み身形をととのえ、はるか向こうまで列をなしていた。
「これは、どうしたことだ」
 懐良は夢のつづきを見ている気がした。
「昨日、次郎貞宗を先触れに出しておきました。それゆえ帝がはからって下されたのでしょう」
 良氏と良遠の父頼元は、勘解由次官として帝に近侍している。こうした配慮をしていただくのも、頼元の力があるからだった。
 将兵たちの間を歩きながら、懐良は一軍の大将になったような気持の高ぶりと、奈落の底をのぞき込む戦慄を覚えた。彼らは朝廷のためなら生死を忘れ水火をいとわず戦うだろう。その指揮を任され見事に勝ちを収めればいいが、一敗地にまみれたなら多くの者を死なせることになる。
 それを承知で戦に出よと命じる立場に、やがて自分は立たされる。その時に平常心を保ち、まともな判断ができるだろうか。そんな不安が腹の底からわき上がり、喉元までせり上がってきた。
 やがて二層造りの巨大な仁王門が現れ、門を抜けた所に蔵王堂が天を衝く高さにそびえていた。
 高さ十九間(約三十四メートル)、幅は二十間(約三十六メートル)で、二階建てのように見える。だが一階建ての高楼の中程に庇をつけた一重裳階付きと呼ばれる造りである。
 堂の中には修験道の本尊である巨大な金剛蔵王権現像が安置してあるが、秘仏なのでご開帳の時しか拝することはできなかった。
 蔵王堂をすぎると、吉野山の尾根伝いに大峯山寺(山上蔵王堂)に向かう参道がつづいている。参道の両側にはいつの頃からか桜が寄進され、ご神木として崇められるようになった。
 そうした信仰が盛んになるにつれて全山が桜の森になり、下千本、中千本、上千本、奥千本という地名がついたのだった。
 尾根の参道から脇道にそれ、わずかに下った所に𠮷水院があった。金峯山寺の塔頭のひとつで、源頼朝に追われた義経が奥州に逃れる途中に立ち寄ったことで知られている。
 帝は半年前からこの塔頭をご在所とされ、退勢を挽回するために諸国の身方に檄を飛ばしておられた。
 𠮷水院の表門で五条頼元と北畠親房が待ち受けていた。
「宮さま、お待ち申しておりました。皆も役目大儀であった」
 狩衣姿の頼元が低頭して迎え、良氏らにもねぎらいの言葉をかけた。
 学問をもって朝廷に仕える清原家の出身だが、帝に近侍するようになって五条の姓を下賜された。懐良が三歳の頃から養育係をつとめていたが、二年前に帝のはからいで無動寺に預けられたので、息子の良氏と良遠を近侍させたのだった。
「初めてご拝顔の栄に浴します。権大納言北畠親房でございます」
 親房は四十六歳。頼元より三つ年下で、後に『神皇正統記』を記したことで知られている。頭を丸め僧衣に身を包んでいるのは、養育してきた世良親王を失った時に出家したからである。
 二年前の一月には義良親王(後の後村上天皇)や嫡男顕家とともに奥州軍をひきいて上洛し、足利尊氏を九州に追い落とす働きをしたが、頼りの顕家が三月前に泉州堺で討死する悲運にみまわれていた。
「主上はただ今、御敵調伏のために明王堂にこもっておられます。こちらでしばらくお待ちくだされませ」
 頼元が御座所に案内した。二十畳ばかりの部屋を上下二段に分け、間を御簾でへだててある。部屋の外には廻り縁をめぐらし、中千本から上千本につづく吉野山の山容を一望することができた。
「このながめを俗に一目千本と申します。桜の時期には見事なもので、主上もいくつか歌を詠んでおられます」
 中でも知られているのは、

ここにても雲居の桜咲きにけり
ただかりそめの宿と思ふに

 という歌だと頼元が詠じてくれたが、懐良には歌の意に心を寄せる余裕はなかった。
 物心ついて以来、帝と会ったことは数えるほどしかない。父とはいえ親子の情愛など感じたことはなく、御前に出ても眼光の鋭さにすくみ上がり、非礼のないようにかしこまっているばかりである。
 しかしこのままでは、帝との距離をちぢめることはできない。自分も元服が近い歳になり、お召しによって比叡山から駆け付けたのだから、頼り甲斐のある皇子だと思っていただきたい。
 そのためにはどうすればいいかと案じながら、懐良は動かぬ御簾をじっと見つめていた。
 四半刻(三十分)ほど待っていると、
「主上、ご出座」
 そう告げる声がして、上段の間に帝がお出ましになった。御簾の向こうで大きな影が動き、玉座につかれる気配がした。
 懐良も頼元も床板に額をすりつけるほど平伏し、お声がかかるのを待った。
「懐良、伺候大儀である。面を上げよ」
 玉声は低く重く、深い洞窟から響いてくるようだった。
 懐良は許しを得て上体を起こしたが、帝を直視してはならない。いつものようにかしこまり、伏し目がちに上段の間の縁を見つめた。
「立派になった。望みがあれば申すがよい」
「金剛蔵王権現さまを、拝しとうございます」
 懐良は勢い込んで答えた。
 本当は母に会いたいと言いたかったが、女々しい奴だと思われたくなかった。
「四日後には皆がそろう。蔵王堂で顔合わせをするゆえ、楽しみにしておくがよい」
 帝はふいに立ち上がって退座された。
 久々の再会なのに御簾も上げない対応ぶりである。懐良は少なからず気落ちしたが、立派になったと言ってもらえただけで良しとしなければならなかった。

(続きは本誌でお楽しみください。)