確かに天国に一番近い島だった。
 高台の住宅地の緑の生け垣越しに、目を射るほどに鮮やかな深紅やレモンイエロー、純白のつるバラがのぞく。
 芝生に白い板壁の家や、こぢんまりとしているがバラ窓の文様がしゃれている教会。
 ヌメアは花の季節だ。
 小さなフランス。旅先でおいしいものを食べたいなら、旧イギリス植民地ではなく、フランス植民地の国。
 ここにくる直前に、そんな知った風なことを口にしていた同業者の男がいた。
 空港から乗せられた混載バスで住宅地を抜けると、眼下に夏の海が開けた。
 無数の白いヨットを係留した入り江とその向こうにまばゆく輝く海面。明るすぎて水平線も見えない。
 急坂を下り繁華街に入ったとたんに、町の様相は一変した。
 店はある。が、スプレーで落書きされたコンクリートの壁は黒く焦げ、もともとガラスがはまっていたと思しき窓や出入り口には、ベニヤ板が打ち付けられている。向かい側はそれさえなく、真っ黒に焼け焦げた内部が見える。
 バスデポに集まった大柄で色黒な人々の血走った目が、こちらを睨みつけているように見える。
「大丈夫ですよ」とマイクを膝の上に置いたまま、アロハシャツ姿の現地の日本人ガイドが言う。
「暴動は昨年のことで、とうに鎮圧されています。今は市民も普通に生活しています」
「治安がいいというから、私たち来たのに」
 八十過ぎと見える老夫婦の妻の方が、火災の後の黒い壁を晒している道路沿いの廃屋を指差す。
「やはり独立運動は続いているのですか」とその夫がガイドに尋ねる。
「散発的に騒ぎは起きていますが、やってるのは一部の声の大きな連中だけです。過激思想を持った先住民グループに若者たちがそそのかされているんですよ」とガイドは説明する。「三年前の暴動は、宗主国のフランス議会で、十年以上住んでいる市民には地方参政権を与えよ、なんていう動きが出てきたもので、連中が勢いづいて他の先住民をあおった。ですが実際にここの人たちは独立など望んじゃいません。フランスの海外領土のままであって欲しいと願っている人のほうがよほど多いんです。だってそうでしょ。この国には産業なんかない。ニッケルだって今は他の国の方が安く生産できるし、観光なんて国の経済にとっては微々たるものだ。フランスから金もモノも入ってこなくなって困るのは、フランス人だけじゃない。先住民だって同じだ。今独立をすればどうなるか、まともな人間は理解している。フィジーやバヌアツを見てごらんなさい。独立したところで上手くいっているところなどどこもない。バヌアツなんか大地震のときはどうにもならなかった。復興したくても自国だけじゃ何もできない。それに万一、フランスが出て行ってごらんなさい、一番喜ぶのは中国ですよ。港湾を作り道路を作り鉄道を作り、それからあこぎな手段で借金を取り立てにくる」
「債務の罠ですな」と老夫婦の夫が言う。
「まさにそれ。この国を虎視眈々と狙っています。あっというまにフランス軍の代わりに中国軍が駐留ですよ」
 大沢晶は、傍らでしゃべりまくるガイドの「パラダイスツアー 村田」と書かれた名札を一瞥して、車内に目を凝らす。
 四月の終わりだが、まだゴールデンウィークにはかかっていないから、家族連れは少ない。目立つのは老夫婦と女性のグループ。そして二人がけの座席に一人でぽつりと座っている女性客は、晶と同様、独身一人旅か。
 治安がよい、南太平洋のおしゃれなプチフランス。女性の一人旅に何の不安もない観光地。ここは天国に一番近い島……。
 金と時間に余裕のあるおひとりさまの認識など、そうしたものだろうと、晶は小さく笑い、手入れの行き届いたミディアムロングの髪をこじゃれたクリップで留めた女性の後ろ姿を眺める。そんな彼女たちは、さきほど通り過ぎた町の様子に、少なからず衝撃を受けたに違いない。
 繁華街を過ぎれば、島はふたたび天国に一番近い風景に戻る。
 椰子やサキシマハマボウ、プルメリアなどの並木の向こうのビーチには海水浴客の姿が見える。道の反対側には、カフェが立ち並び、そこでくつろぐ人々が必ずしも観光客ばかりではないのが、アジアンリゾートにはない豊かさを感じさせる。
 観光客を乗せたバスが到着したのは、五つ星ホテルのラ・ポンシュだった。
 現地ガイドの村田が最初に降り、客たちがそれに続き、ドライバーから受け取ったキャリーケースを転がして、吹き抜けのロビーに入る。
 まだチェックインタイムではないので部屋には入れず、客たちは村田の指示に従い、荷物をクロークにあずける。定刻になったら再びここに集まり、手続きを済ませた村田から各自鍵を受け取ることになっていた。
「三井久仁子さん」
 二度、三度、自分の名前を呼ばれて、大沢晶は我に返った。慌てて走り寄り、荷物の預かり札を受け取る。
 大沢晶はペンネームだ。三年前、二十九歳のときに海洋冒険小説でデビューして以来、仲間うちでもその名で通している。晶はショウと読む。小説のジャンルからして、あえて性別不明の名前にした。親のつけてくれた名前は、皇室の嫁さん候補のようでずっと居心地が悪かった。
 札を受け取った客たちは、ホテル内のカフェやショップなどへと散っていく。
 晶は、ロビーの向こうに開けたプライベートビーチにちらりと目をやったが、コットンパンツにポロシャツ姿ではビーチバーでビールを飲む気もせず、ましてやデッキチェアでくつろぐ気分でもない。
 同じツアーの日本人客たちが座り込んでいるカフェラウンジを突っ切り、エントランスを出て町に向かう。
 砂浜に椰子の葉葺きのパラソルが点在するパブリックビーチ沿いの道路を挟んだ向こうに、カフェや雑貨屋が入っている低層のビルがあった。
 日陰を求めてそこの二階にあるカフェに入り、アイスコーヒーを手に海に面したテラス席に陣取った。
 パブリックビーチはホテルのビーチと違い観光客の他に地元の人々でにぎわっており、手前の木陰にはペタンクに興じる老人たちの姿もある。
 海面に視線を転じれば、黄色っぽく砂の巻いた遠浅の海で波と戯れる子供たちやカップルの姿が見える。
 波打ち際から二、三十メートル離れたところを風のようにサーフボードが飛んでいく。海面に大きなうねりがないにもかかわらずすさまじいばかりの速さだ。
 目を凝らせば海面から数十センチ浮き上がっている。
 ボードの下にハイドロフォイルという水中翼を取りつけているのだ。直接水を切っていく普通のサーフボードに比べ、水中翼によって揚力が生じ、波から浮き上がるため抵抗が小さくなるから、ごく小さな波にも乗れる。何よりそのスピードで最近人気を集めていると聞くが、思わず舌打ちした。
 周りには、水中から顔を出して不様なクロールをしている白人の男や、砂色の波間で器用に水中に潜ったり、顔を出したりして遊んでいる地元の子供たちがいる。あのスピードでぶつかって来られたら大けがをする。
 とそのとき、宙を飛ぶように進むサーフボードの背後に目を凝らして、二度、三度瞬きした。傷痕のように細く水を切り裂いて進むボードのほんの二、三メートル後ろに確かに三角型の背びれが見えた。
 ハリウッドから始まり、B級C級ホラー映画でお約束の光景だ。あまりにも見慣れていてまたか、と感じ、一瞬後に、これは現実の海だと気づき戦慄した。
 サーファーは何も知らない。亜熱帯の気候のせいだろう、ラッシュガードは身につけておらず、真っ白な裸の上半身とサーフパンツから出た長い足がボードに乗っている。
 早く浅瀬に逃げろ、気づけと、無意識に拳を握り締め腰を浮かせた。
 サーファーは大きく方向を変えて沖に向かう。
 ボードを追っていた三角のヒレは、波間に消えた。
 息を吞み、目を凝らす。
 一瞬置いて、海面上に現れた青味を帯びた灰色の体がサーフボードを跳ね上げ、サーファーの体を咥えて波の下に再び消える様を思い浮かべた。
 しかし何も起こらなかった。
 サーファーは悠々と第二、第三のうねりに乗って、はるか彼方まで行くと大きく弧を描いてこちらに戻ってくる。
 実際のところ、サメはやたらに人を襲ったりしない。
 のこぎり状の歯の並ぶ口と赤い歯茎を見せて大きく口を開けたサメが海底から上がって来たかと思うと、水しぶきとともに美女に襲いかかり、海面が真っ赤に染まる、などというイメージが広がったのは、例のハリウッド映画とそれに追随したB級C級D級の映画や、B級C級D級小説のせいだ。人間なんぞ彼らの捕食リストには入っていない。本来の食物ではない人間をサメが襲うときは、必ず理由がある。
 ほとんどの場合は、ヒトがアザラシやオットセイや、他の生き物に間違えられるケースだ。そして水面上で手足をばたつかせたために、弱った魚と間違えられるケース。さらに濁った視界の悪い水中で、それが何なのか確かめようとしたサメに一咬みされるケース。
 サメは、獰猛で残虐な海の殺人マシーンなどではない。太古から生き残ってきた生物であり、彼らなりの生存戦略に従い、生態系を守るのに欠かせない水中の頂点捕食者として君臨している。
 それが海洋冒険小説でそこそこのヒットを飛ばしている大沢晶が、作品を生み出すために調べ上げたサメの実像だ。
 テーブルの上の紙コップを手に、テラス席からエアコンの効いた店内に戻ろうと立ち上がりかけたそのとき、浅瀬に近づいてきたサーファーのすぐ後ろの海面が泡立った。砂の巻いた黄土色の水が赤く染まったように見えた。
「え……」
 テラス席の手すりに駆け寄り、目を凝らす。
 一瞬、人の頭が見えたような気がしたが、すぐに砂と血の色の入り交じった海中に没した。
 危惧したことが起きてしまった。
 ハイドロフォイルの堅く刃物のように鋭い水中翼が人の体に接触し、その皮膚を切り裂いたのだ。
 紙コップを握り締めたまま食い入るように見つめている間に、海岸にいた数人が海に入り泳ぎ出すが、サーファーは打ち寄せる波を横に切り裂き、再び沖に向かっていく。
 人を引っかけたことに気づいていない。
 怒号が聞こえてきた。海岸にばらばらと人が集まってきた。
 浅瀬を走り救出に向かった男が、海中に潜ったかと思うと小さな体を引っ張り上げた。数人の人々が走り寄り、怪我人を抱きかかえて砂浜に上げる。
 人々に囲まれ、怪我人の様子は見えない。波打ち際から砂浜まで、黄色っぽい砂の上に赤黒い水路のようなものが出来ているところを見ると出血がひどいようだ。
 風に乗ってサイレンの音が近づいてきた。救急車かパトカーか。
 そのとき少し離れたところにも人垣が出来た。先住民のカナク人と思しき人々が叫び声を上げており、警察官と海岸のライフガードたちがそれを制している。
 傍らにハイドロフォイルを装着したボードが横倒しにうち捨てられていた。
 救急車が道路に停まり、背後のドアが開けられストレッチャーを手にした男三人が怪我人に向かい、人をかき分けて近寄っていく。
 その脇で、先住民の男の一人が半裸の白人の男に殴りかかろうとして、警官に引き離されたのが見えた。あのハイドロフォイルのサーファーだ。
 白人の男は何か叫んでいる。
 傍らで固唾を吞んで見守っていた東洋人の男と目があった。
「彼は、俺がやったんじゃない、と主張している」
 男が英語で説明した。 
 人だかりが割れて、ストレッチャーが戻ってくる。オレンジ色の毛布に包まれた小さな体。距離があるからはっきり見えないが、目をぽっかりと開いた顔は子供だ。短い巻き毛の、先住民の男の子……。
 警官に守られるように白人の男も人垣から出てくる。
 男の叫んでいる声が、晶の耳にも届いた。
「サメだ、サメだ、俺じゃない。俺がやったんじゃない」
 いや、自分は確かに見た。海岸の人々も見たはずだ。
 男のボードが通り過ぎた直後に、砂色の水に血の色が広がったのを。
 言い逃れるつもりなのか、とパトロールカーに乗せられる男を見届け、晶は紙コップを屑籠に捨てて店を出る。
 階段を下りてくるとちょうど救急車がサイレンを鳴らして走り去るところだった。
 初日からなんてものを見てしまったのだろう。何とか助かってくれないものか、と祈るような気持ちで、去って行く救急車のテールランプを見送る。

(続きは本誌でお楽しみください。)