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味噌汁の椀を置き、真室深雪は壁の時計を見やった。
そろそろ午前八時になる。
息子はまだ寝ているらしく、二階の自室から下りてくる気配はない。だからテーブルの向かい側にセットされたもう一人分の朝食は、まったく手つかずのままだ。
深雪は階段の下まで行き、おーい、と二階に向かって声をかけた。
「朝ごはん、要らないの? 早く来ないと、あんたの分まで食べちゃうよ」
すると何秒か置いてから、
「いま行く」
眠気の混じった英慈の声で、そう返事があった。
深雪はキッチンに戻り、自分の使った皿や箸を食洗機に放り込んだ。
洗面所まで移動する時間を節約するため、流し台で歯を磨く。そしてうがいをし、口元をハンカチで拭きながら、キッチンを出て隣のリビングへと入った。
床に膝をつき、簞笥を開ける。
男もののTシャツが、きちんと畳んだ状態で重ねられていた。ざっと見ただけでも七、八枚はありそうだ。
そこから一枚を手にし、そっと鼻先に押し当ててみた。洗剤の匂いに混じって、息子の体臭がかすかに感じられる。
そのとき背後で人の気配があった。ようやく英慈がキッチンに入ってきたようだ。
振り返ると、彼はいつものようにタブレットの端末を手に持ち、小さな黒いバッグを斜めに肩から掛けていた。
「養母さんは、もう食べ終えたの?」
「ええ、とっくにね」
「だったら、お茶を淹れようか」
「お願い」
英慈はタブレット端末をテーブルに置くと、電気ポットの前に立ち、ほうじ茶の入った茶筒を手にした。
その背中に向かって深雪は訊いた。「あんた、タッパはいくつだっけ?」
「え?」
「タッパだよ」
英慈は体をひねり、三十四歳にしては少々あどけない顔を向けてきた。
「それって、身長のこと?」
「そう」
「だったら普通に『身長』って言えばいいのに」
「建端」は大工仕事において「高さ」を意味する言葉だ。知り合いに建設業界の人間が多いせいで、彼らの使う用語がこんなふうに自然と口をついて出てしまう。
「去年測ったときは百七十センチだったよ。――はい、お茶どうぞ」
英慈は湯気の立った湯飲みを、さっきまで深雪が座っていた席の前に置き、その向かい側に腰を下ろした。
黒い小さなバッグは肩に掛けたままだ。せめて食事をするときぐらい、あれを体から離しておくことはできないかと思うのだが、中に入っているものが自分の命を支える機器である以上、それは無理な相談だ。
「この簞笥にしまってあるあんたのTシャツだけどさ、見たところ、けっこう余っているんじゃない?」
「そうだね」
「じゃあ、ほとんど着ないものも混じってる?」
「うん、混じってる」
「だったら、二枚ぐらいもらっていってもいいかな」
百七十センチか。今日これから刑務所を出てくる男も、ちょうど背丈はそれぐらいのはずだ。これをあてがってやっても、大きくサイズが違うということはないだろう。
「いいよ。好きなの持ってって。――いただきます」
英慈は右手に箸を持つと、白米を口に入れはじめた。ただし茶碗を左手で持つということはしていない。それはテーブルに置いたままだ。
では空いた左手は何をしているかというと、タブレット端末のフリックだ。そのようにして食事の合間に英語の医学論文を読むのが、医師である彼にとって毎朝の日課だった。
休職して現場を離れているあいだも、遅れを取らないように努力しているのだから立派だとは思う。しかし、行儀という観点からは、けっして褒められた行為ではなかった。
深雪は二枚のTシャツをきちんと畳んで紙袋に入れ、通勤に使っているバッグに詰めた。そうしてからキッチンに戻り、英慈が淹れてくれた茶に、立ったまま二、三度口をつける。
「じゃあ行ってくるね。今日も留守番よろしく」
体の向きを変え、リビングを出て玄関へ向かおうとしたところ、
「養母さん、ちょっと待って」
英慈の声に呼び止められ、深雪は振り返った。
「ほら、ここ」
英慈は自分の袖口を指さしている。
そこで自分が着ているブラウスの袖口に目を向けてみると、二つあるボタンのうち一つが取れかかっていた。右腕の方だ。いつの間にか、糸一本だけでぷらんと下がっている状態になっている。
「そこに座ってよ。すぐ直してあげるから」
英慈がテーブルの向かい側を指さした。
深雪は腕時計に目をやった。通勤に使っているバスの時間までにはまだ少し余裕があるため、息子の言葉に従うことにする。
英慈は箸を置き、今度は自分がリビングの方へ移動すると、プラスチック製の小さなツールボックスを手に提げてから戻ってきた。
彼の手がその箱を開けたところ、ハサミや接着剤など日常的に使う工作用具に混じって、針や糸といった裁縫道具も入っているのが見えた。
英慈は、深雪の袖口で使われているものと近い色の糸を手早く探し出し、ワイヤー式のスレッダーを使って縫い針に糸を通した。
「腕を出して」
言われたとおり、深雪は右腕をテーブル越しに英慈の方へと伸ばした。
こちらの手首を取って位置を微調整すると、英慈は手早くボタンを縫い留めていく。
外科医だけあって、手先はかなり器用だ。
視線を上げると、俯き加減になっている息子の顔が、前より少しほっそりしたように見えた。それが気になり、
「あんた、ちゃんと食べてる? また少し痩せたんじゃない?」
そう言葉をかけてみたところ、英慈はいったん顔を上げた。そこには、心外だという表情が浮かんでいる。
「食べてるよ。いま六十四キロもある」
「本当に?」
それより四、五キロばかり少なく見えるが。
現在の仕事を始める前は、深雪自身も四十年以上、医師をしていた。その経験から、誰かの前に立てば、その人の見た目で、ほぼ正確な体重が分かってしまうのだ。
「本当だよ。六十四だってば」
「わたしの目測だと、せいぜい六十キロってところだけれど」
「たしかに、ぼくの本体は六十しかないよ。でも――」
英慈は右手で持っていた縫い針を少し持ち上げ、その先端を自分の胸へと向けた。ちょうど心臓のあるあたりだ。
「まず、これの分があるでしょ」
「……ええ」
いま英慈の体内に埋め込まれている補助人工心臓の重量は、たしか約一キロだ。
「それから、この分もね」
そう言って英慈は、縫い針の先端を、今度は肩から下げているバッグへと向けてみせた。その中身は補助人工心臓のバッテリーとコントローラーだ。それらの重量は、合計して三キロほどになるはずだった。
「なるほど、そういうことね」
「人を心配する前に、養母さんだって健康に気をつけなきゃだめだよ。だいぶヒンミャクみたいだからね」
ヒンミャク? 一瞬、何を言われたか分からなかったが、すぐに「頻脈」だと見当がついた。
「六秒で十回だったから、一分間に百回のペースだよ」
つい先ほど、こちらの手首に触れたとき、英慈はちゃっかり橈骨動脈に指を当て、血液の流れ具合を調べたようだった。拡張型心筋症で休業中の身とはいえ、彼は現役の医師だ。検脈にはかなり慣れている。
「もしかして、施設に新しい人が入って来るのかな。養母さんが緊張するときって、だいたいそういう場合だから」
「あんた、よく親のことを見ているわね」
「今日は特に頻脈だったから、ひょっとすると、ちょっと特別な人かもね」
「まあ、そうとも言える」
今日これから入所してくる中郷隼人という男は、自身の犯した罪で裁判を受けた際、全国的に話題になった人物だから、ほかの入所者に比べたら「特別」であることは間違いない。
英慈は縫い針にくるくると糸を巻き付け、玉留めを作った。「はい、オペは無事に終了しましたよ」
「ありがと」
テーブルから右腕を持ち上げ、深雪は自分でも脈を測ってみた。
たしかに速い。
更生保護施設の施設長になってから、もう五年になる。英慈が言ったとおり、新しい入所者を迎え入れるときは、どうしても緊張してしまうものだが、最近はだいぶ慣れてきていた。
こんなに胸騒ぎがするのは、久しぶりのことだ。
(続きは本誌でお楽しみください。)