「私は、子どもなんかちっとも欲しないわ。そら、誰か見てくれはんのやったら、産んであげてもよろしいけど」
 ポーンと投げ出された沙都實の声は内庭の苔むした石灯籠にはね返されて、やっと座敷に届いたかのように、おかあさんは一拍の間を置いた呆れ声だ。
「……あんた、ようそんな、えらそうな口がきけたもんや。産んであげてもやなんて、ほんまによう言わんわ」
 有能な仏師の鑿で穿ったような眼を疎ましげに細めているのが、鏡越しに見える。沙都實は鏡台の前で鬢付け油を温めながら、聞くともなしに耳へ入ってくる話に口がむずむずし、思わぬ本心がこぼれて自分でも驚いた。
 そら、子どもがいたら、うるそうて、やかまして、物入りで、わずらわしいだけや。犬猫の子は可愛らしても、人間の子で可愛らしいのはめったにいいひんやないの、と自分に念押ししているが、片やおかあさんは、「この町の子がだんだん少のうなってきた」と、さっきから嘆いていたのだった。
 昭和三十年代も終わりに近づいた今、沙都實のような祇園町の舞妓は五十人以上いて、戦前なみとはいわないまでもそこそこ人数が揃っている。それなのに、
「生まれを聞いたら伏見の子とか、宇治の子やったりするんやわあ。中には岡山とか、もっと遠国の子もいたりしてなあ」
 と不服そうにいったおかあさんを、福實ねえさんはすかさずたしなめたものだ。
「贅沢ゆうたらあきまへんえ。舞妓ちゃんの姿に憧れて来た子も、大切に育てたら立派な芸妓はんにならはります」と。
 にもかかわらずおかあさんは、やっぱり祇園の土地に生まれた子が欲しいといい張ったから、今ここで一番若くてこれから子どもを産めそうな娘はつい口を開かずにいられなくなったのだ。
 沙都實が生まれ育ったのはたしかにこの町で、幼い時分はよく屋上の物干し台にあがって周囲を見渡した。屋根伝いにどこまでも行けそうなくらいびっしりと隙間なくひしめいた甍の波間には、昔から町に棲みついている鼬をしばしば見かけた。沙都實はその小動物を真似たように、いつも背伸びしながらくるくると四方に首を回すのだった。
 遠くに青い峰を聳やかす北山、入り日に赤く染まる西山を眺め、あの山並の向こうには何があるのだろうかと想像した。眼前にこんもり迫る東山に向き合って、緑がいつもより鮮明で木々の樹形までくっきりと見えたら、今日はきっと午後から雨になると予報した。
 もっとも、生まれたのはこの家ではなかった。沙都實を産んだ母親は早くに亡くなったため、五歳の迎えを待たずにここへ引き取られたのである。
 産みの母親の記憶はほとんどない。というのも生まれ落ちてすぐ里子に出されていたからで、乳を飲ませてくれた里親のでっぷりした躰は憶えていても、顔を見るのもせいぜい週に一度だった実母の想い出はなくて当然だろう。
 それでも血のつながった産みの母親がこの町の芸妓だったから沙都實は今ここにいるわけで、
「あんたはいわば祇園町のサラブレッドや」
 と、おかあさんは眼を細めてよく話す。
「元気でいたら、きっと名妓と呼ばれてたやろ。何せ舞が上手でなあ」
 と懐かしむおかあさんは、産みの母親が舞妓になる時に「引いた」姉さん芸妓だったという話だ。花街の芸妓と舞妓は昔からそうした姉妹の契りを結んでおり、沙都實の姉芸妓は福實だったが、
「サトちゃんが育てんでも、私がちゃんと育てまっさかい、出来たらきっと産みなはれや」
 と横合いから口を挟んだあばも、かつてはおかあさんの妹分だったらしい。
「まだ子どもの作り方も知らん子に、ようゆわんわ」
 福實ねえさんはおかしそうに笑いながら、抽斗の付いた箱階段をすたすた昇って二階の自室へ向かう。あばはそれをきょろっとした眼で見送ると、
「そやけどサトちゃんも来年はもう二十歳と違うんか。薹が立つ前にそろそろ知っとかんと、いくらべっぴんさんでも、二十歳を過ぎたら皆えぞくろしいならはるえ」
「えぞくろしい」とは一体どういう意味なのか気になって、沙都實が以前に訊いた時も明快な回答は得られなかったが、いつぞやおかあさんが「あの着物はちょっとえぞくろしいなあ」といったのはゴテゴテして厚苦しそうな柄だったから、あんまり良い意味ではないのだろうと思う。
「昔は十五、六でもちゃんと産んだ妓がいましたで」
 そういっても、あばは自分が産んだ経験を聞かせたことは一度もなかった。
「サトちゃんの産みのおかあはんは、わてと違てべっぴんさんやったさかい、引く手あまたでなあ」
 ともよくいうが、引く手あまたの中で沙都實の父親になった男の話は一度もしなかったし、沙都實もそれを別に知りたいとも思わなかった。
 この町には父親の顔も名前も知らない子が大勢いて、みんなそれを苦にするどころか、気にしてもいないようだった。父親不在でも子どもはここで立派に育つし、ここは子育てに長けた女手があり余るほどだから、
「でけたら産みよしや。子どもがいたら将来が安心やさかい」
 と年輩の誰もが勧めるのだった。子どもはまるで大人の安泰のために存在するものであるかのように。
 子ども好きの女もいれば、子ども嫌いの女もいるのは周りを見てわかったし、それは案外わが子のあるなしに関係しないような気もするが、この町では子のあるなしにかかわらず年輩の女は大概「おかあさん」と呼ばれ、沙都實が「おかあさん」と呼ぶ女は町でも「芙實家のおかあさん」といわれている。
 芙實家はこの町で「屋形」と呼ばれる置屋、つまり福實や沙都實ら芸舞妓が日常生活を送る家だ。こうした屋形の主のみならず御茶屋の女将も「おかあさん」であり、主になれなかった女たちを「あば」というのだった。
 先年の皇太子御成婚パレードを見たいために何処の家でもテレビジョンを購入して「一家に一台」という言葉が流行るせいか、福實ねえさんは「ここは一家に一台あばやで」とふざけて話した。
 かつて富美弥を名乗る芸妓だったおかあさんは、鼻筋が通って眦の切れあがったいわゆる京美人だし、舞の名手だった上にお座敷でも人の気をそらさない話術に長けた、掛け値なしの名妓だったらしい。早くに落籍せた旦那さんが亡くなってからも次々と後援者が現れて、一代で今の屋形を築きあげ、経営者としても一流の腕なのだという。
 片やあばは本人がいうほどの不美人ではなかったし、むしろ昔はさぞかし可愛らしい舞妓さんだったに違いない人相をしていた。ふっくらした頰に円らな眼、歳の割に口角の上がった厚みのある唇はいかにも優しそうで、時に辛辣な毒舌を揮うようにはとても見えない。
「あの人もそこそこ売れた舞妓さんやったけど、気の毒に、あの戦争でなあ……」
 とは何度もおかあさんに聞かされた。
 第二次大戦中によくここを訪れていた「海軍さんに恋をして、操を立て通さはったんや」と古風ないいまわしで述べられた事情は当初さっぱり理解できなかったものの、沙都實は年頃になってから何かとそれで想像を逞しくした。
 京極の映画館のスクリーンで見た海軍将校の白い制服と、あばの舞妓姿を重ね合わせて乙女心をときめかせたり、疼かせたりもした。今はもう平和な時代で胸をかきむしられるような悲恋もなければ、身を焦がして一生を燃え尽きさせても悔いのないような相手は出てこないのかもしれない、と残念がりもした。
 あば本人の口から真相を聞く機会はなかったので、おかあさんの話もどこまで信じていいものやら。この町では誰しも切ない恋話の一つや二つなくてはならないムードがあって、おかあさんの話にもロマンチックな潤色が多分に混じっているか、あるいは全くの作り話であってもおかしくはなかった。
 それを承知で沙都實は一時期その話を膨らますのに熱中した。あばの実家が丹後の宮津辺にあったのは本人から聞いていたし、近くには舞鶴軍港があったはずなので、あばと将校は幼馴染みの恋仲だったという設定を勝手に拵えたりした。
 結局あばの口から海軍将校の話を聞くことは一度もなくて、何度も話に出るのは決まって恐ろしい昭和二年に起きた北丹後の大震災だ。それはあばが五つの時に起きて「天地がひっくり返ったんや。表に出たら前の通りが真っ二つに割れててなあ。その裂け目に落ちたら地獄の底まで吸い込まれるちゅうて、そら、恐ろしいのなんの」と聞かされた話は沙都實の幼心をいたく刺激して夢に出てくるほどだった。
 あばの実家は丹後縮緬の織り方でそこそこ羽振りがよかったのに、震災で工場が倒壊してから暮らし向きは立ち直らず、あばは七歳で祇園へ奉公に出された。当時は宮津にも祇園に匹敵するほどの格式高い花街があったものの、さすがに家の近くは親が避けたのだろうという。
 あばが来た当時の祇園は今とはずいぶん違って、相当に酷い扱いをされた娘もいたらしい。
「わては幸い親が縁のあった呉服屋に口利きを頼んで、ええ屋形に奉公でけたさかい、そう酷い目に遭わんでも済んだし、廃めた後もここのおかあさんに拾われて助かったんやがな。
 なあ、サトちゃん、人には誰しも運と御縁ちゅうもんがある。わては運と御縁に恵まれたんや。この歳になると、つくづくそう思えてきてなあ」
 と感慨深げな面もちで話すのを何度か聞いているうちに、沙都實の幼心にも「運と御縁」が居座ってしまったようなところがある。
 あばは舞妓になるまでの仕込み期間も屋形で想ったほどの苦労はさせられずに済み、苦労したのは舞の稽古くらいだったという。その稽古の厳しさは、沙都實もそれなりの経験で少しは想像がつくのだけれど、
「サトちゃんのお稽古なんか、ちっとも厳しいうちに入ったあらへん」
 と常にあばはいうのである。
「先代のお師匠さんは、当代の何倍も怖かったんやで」
 といわれても、当代すら怖くてたまらない沙都實には全く想像が及ばなかった。
「女紅場」と昔通りに呼ばれる花街の学校の稽古場で、お師匠さんにきつく𠮟られると全身が洗濯板のように固まって、躰の動きが余計にギクシャクした。稽古場に集まった大勢の前で、変に固まった手足にピシッと張扇が当たると皮膚より心が痛かった。
 その何倍も厳しかったという舞の稽古にあばが耐えられたのは、「当時この町には娼妓さんがまだいはってなあ。どんなに辛うても、芸をしっかり習て身を立てたほうが何倍かましやと思えた」からだそうである。
「ショウギさん」の意味も当初はもちろん知らなくて、この町の瓦屋根に必ず飾ってある鍾馗様の人形のような怖い顔をした人だと思い込んでいたくらいだ。躰を売るよりも芸で身を立てたいという当時のやるせない女の矜持を、戦争さえ知らずに生まれた沙都實にはわかるはずもなかった。
 当時と変わらないのは、ひょっとしたら化粧の仕方だけなのかもしれない。沙都實はさっきから掌で温めて溶かした鬢付け油を額から首筋にかけて、肩のあたりまでむらなく塗って、しっかり擦り込んでいる。これをすると皮膚がつっぱって、しばらく痛いのにも馴れた。そこに板刷毛で水白粉をまんべんなく塗り重ね、うなじは二本の足を塗り残して仕上げるが、その足も最初の頃は歪んだり短すぎたりと、失敗してばかりだったのも今や懐かしい想い出だ。
 中学卒業から一年ほどして舞妓の店出しをし、早や三年が近い。もうベテラン舞妓の域でも、先輩がまだまだいた。
 この町で生まれた子は、中学卒業後にひと月ほどの修業で舞妓になるのが多い。沙都實もそうするはずが、卒業前に風邪をこじらせたのが思わぬ大病につながった。といっても後で軽い肺炎とわかったのだけれど、実母が結核で亡くなっているため京大病院で何度も検査を受けさせられた。沙都實はこの病臥になすこともなく蒲団の中でひたすら悪い想像や、逆に夢見るような空想に耽ったりして、以来、何かと余計な想像を巡らす癖が高じたところもある。現実にはこの病気で近所に悪い噂が立ったため、おかあさんは店出しを一年遅らせたのだった。
 だから同い年でも先輩の舞妓がいてそれなりに気を遣わなくてはならないし、年上の芸妓さんが多いお座敷だと今でも胃のあたりがきゅっと硬くなる。何せ今ここには舞妓がざっと五十人、芸妓はその五倍の人数がいるそうなので、お客さんより芸妓のほうが多いお座敷も稀ではなかった。
 姉妹の契りがなくても先輩は必ず「おねえさん」と呼ぶが、この町では舞妓が芸妓を「○○さんねえさん」と二度もさん付けして呼ぶくらいに恐れていた。沙都實は舞妓になったばかりの頃、その怖いおねえさんたちに襖の開け閉めが粗略だと𠮟られて、何度もやり直しさせられた。手にしたお盆が右に傾きすぎだとか、お酒の注ぎようが速いとか、やることなすこと一々注意されていたのも今となっては有り難い想い出なのかもしれない。おかげで手足がごく自然に動いてくれるから、もうどんなに立派なお座敷でもびくびくしないで済むのだ。
 とはいえ、お座敷での舞の披露にはまだ緊張する。それでも近頃は見巧者といわれるお客さんに「沙都實も舞いぶりが大きゅうなったなあ」と賞められて、天にも舞いあがる心地がした。
 見巧者のお客さんよりも怖いのは、やはりおねえさんたちの目だろうか。舞の伴奏で弾き唄いする地方の滋次ねえさんに、
「あそこは扇をもっと速うサッと開かなあかん。逆に扇を翳して回す時はもっとゆっくりせな。めりはりが付かなんだら舞は死んでしまうえ」
 と注意してもらったのは有り難かった。自分も上手なおねえさんの舞を見れば、緩急自在な間の取り方で自ずと呼吸が止まって引き込まれるし、定間の続くだらだらした舞にはあくびが出てしまうのだ。
 昔に比べると近頃のお座敷は舞を好んで見るお客さんが減ったという話だし、
「今の舞妓ちゃんはまあ『京の四季』と『松の緑』と『祇園小唄』の三曲が舞えたらそれで合格やてゆわれるんやさかい、ほんま気楽でよろしいなあ」
 と皮肉を飛ばすねえさんもある。
 しかしそんなふうにいわれたら、毎日あれほど厳しい稽古に耐えてきたつもりの沙都實はとても心外だし、たとえ舞を所望するお客さんが減っても、舞妓はやはり舞えてなんぼという意識がある。だから今は舞に打ち込む情熱をお座敷で発散させられない分、心が舞台に向かうのかもしれなかった……。

(続きは本誌でお楽しみください。)