あなたは目を塞がれている。本来は見えるはずなのに見えないようにされている。
毎日、決まった時間に、あなたは煉瓦塀に囲まれた狭い部屋から出される。監視員に導かれて壁伝いに作業場までたどり着く。そこで手の感触を頼りに決められた仕事をこなす。視界が奪われていることはさほど問題ではない。次々と手の中に流れてくるものに触れては、わずかなひび割れとかささくれとか、そういう違いを発見して排除するのが、あなたの役割だから。
定時に終業の鐘が鳴ると、三十分後には夕食が始まる。座る場所も配膳の位置もあらかじめ決められている。監視員たちは、メニューによって大小の皿の配置が入れ替わることが、混乱と反乱の引き金になると分かっている。あなたに提供されているのは、不満を持つ気力を削ぐほどの予定調和が保証された支配。ここに連れて来られた当初は抱いていた抵抗感や恐怖心も、今では凪いでいた。時折、思い出したように痙攣する瞼を通した不快以外はなにも感じなくなっていた。そんな生活を五年も送っていた。
ところが、ある晩、塞がれた瞼の向こうに感じていた光が消えた。世界は完全な闇に包まれる。複数の監視員の足音が遠ざかっていく。あなたは沈黙の中に取り残されて怯え始める。鍵の掛かった狭い部屋から一人出られず飢えて死んでいくことを初めて意識する。
呼吸が荒くなり、鉄格子にしがみ付いた瞬間、痩せた薄い体の重みであっけなく扉が開いた。
あなたはとっさに右手を伸ばして煉瓦塀に触れる。知っている感触につかの間、安堵する。そして気付いてしまう。
この五年間、毎朝、壁伝いに移動した。回数にしておよそ一八二五回前後。
その間、あなたは週に一度だけ建物の外に出て、確認済みの商品を詰めた箱を荷台に詰め込む作業を行っていた。
この狭い部屋から作業場を迂回して門を出るまでのルートを、たしかに手足は覚えている。あなたは足を一歩踏み出すことを考えて、この場所にもう戻れないという事実に動揺した。
誘導する他人がいないまま、見えない世界を進む。自分を信じられなくなったとき、行きも帰りも消えて暗闇は永遠になる。きっと正気を失うだろう。
今なにが起きているのか分からない。罠かもしれない。暗闇の中で気付いたときには殺されているかもしれない。そんな地面を這ううちに踏みつぶされる蟻のような死は嫌だ。自分が生まれてきたことに一つでも意味があると思いたかった。
とはいえ待っていれば同じ明日が来る保証もない。あなたは決め切れずに焦りばかりを募らせる。昨日までは考えもしなかった。ここを出ることなど。
一瞬たりとも気を緩めることなく、手のひらに触れる一つ一つの煉瓦のざらつきと歩数を確認し続けながら闇に耐えて進む。到底、やり遂げられる気がしない。
それでもあなたは気付いている。どんな恐怖の中でも生きているかぎり、生きたいと願ってしまうことを。それが天国か地獄かは分からない。ただ、もう分かっていた。自分はここから出てしまうことを。
1
劇場内の券売機の前に穂高たちが立ったとき、受付カウンターの中にいた女性スタッフは二人の関係性を確認するように凝視した。
券売機に新札を押し込む後ろ姿は小太りだが、そこまで大柄には見えなかった。花柄のワンピースが足首まで覆い隠していて、下半身まで肉がついているかは分からなかった。シルバーの厚底スニーカーを差し引くと、身長はおそらく百六十五センチ前後だろう。ウィッグにも見える長い髪から覗く横顔で男性だということを確認した女性従業員は、隣にいた穂高へと視線を移した。
穂高は両肩を覗かせた白いオフショルダーシャツを着て、裾にファーの付いたデニムを穿いていた。
彼女がバッグを肩に掛け直すために腕を上げると、ウエストのくびれが露わになった。その動作と格好に新宿特有の猥雑さは感じられなかった。子供の頃にクラシックバレエを習っていた穂高は多くのバレリーナがそうであるように首が長く、胸が薄く、姿勢が良かった。
女装した男の手から、穂高はチケットを受け取った。
「お客さんに激推しされたから観ようと思ってたんだよね」
彼女の呟きに、女装した男はなんの反応も示さなかった。
穂高は壁に貼られた映画レビューの切り抜き記事を気まぐれに眺めた。
それから女装した男を振り返った。
「映画、上の階だって」
男は取り繕う意思のない太い声で
「OK」
と答えた。
階段を上がっていく二人の姿を見送った女性スタッフは強い不審感を抱きつつも、女装はただの趣味なんだから問題が起きるまでは許容する、と心の中で言い聞かせるように呟いた。ロビーの壁に設置された小型スクリーンには近日公開のトランスジェンダーの恋人同士を描いた映画の予告が流れていた。
二人は階段の途中の女子トイレまでやってくると、軽く目線を重ねた。
女子トイレの入り口から個室へと向かう最中、穂高は歪んだ自分自身が隣を横切った気がして、壁を見た。手洗い場の脇に細い姿見が取り付けられていて、穂高の背後に女装した男が佇んでいた。薄化粧のわりに厚い唇だけを真っ赤に塗りつぶした顔が小さく笑った。二重の薄い瞼を押し開いた目の奥には、収集癖のある者がレアアイテムを手に入れたときのような湿度が籠っていた。
穂高は一番奥の個室の扉を引いた。彼女の背中を押すようにして女装した男も中に入ってきた。
個室内で向かい合うと、男は軽く呼吸を荒らげながら、ワンピースの裾を捲り上げた。そして突き出た腹を晒して、襟ぐりから頭を引き抜いた。背中のファスナーにウィッグが引っかかって外れた。
男の頭はウィッグ用の黒いネットに覆われていた。下半身は黒いブリーフパンツ一枚だった。脱毛は済んでいて、太腿に無数の毛穴がぽつぽつと鳥肌のように浮き上がっていた。重量感ある腰回りとの対比で足首が貧弱に見えた。
男は急かすように穂高を見つめた。彼女は軽く笑うと、白いオフショルダーシャツのボタンを上から順番に外していった。脱いだシャツは男がそのまま受け取った。
薄い胸を覆うGUのカップ付きタンクトップ一枚になった穂高は、穿いていたデニムの前ボタンに手を掛けた。男が耐えかねたように穂高の脱いだ白いオフショルダーシャツを広げてまじまじと見た。そして嬉しそうに腕を通し始めた。その間に彼女はデニムから筋肉質な足を抜いた。
穂高は白いカップ付きタンクトップにグレーのボクサーパンツという格好で、浮き出た自分のあばらを軽く撫でさすりながら、女物のデニムに腹を押し込む男を淡々と見守った。男は当然ファスナーを上げることはできなかった。それでも満足げに軽く露出した腹を無視して微笑むと、ウィッグをかぶり直した。
着替えを終えた男は脱いだばかりの花柄のワンピースを摑んで、無遠慮に穂高に押し付けた。
穂高はなにか足りないという目をして、右手の人差し指をタンクトップの胸元に引っ掛けると、自ら軽く胸を見せるようにして生地を押し広げた。
男は穂高の胸の浅い谷間に目をやると、思い出したようにヴィトンの財布を摑んだ。小銭入れから透明なミニサイズのジップ袋を引っ張り出して、彼女の胸元に押し込んだ。袋越しに砂色の雑草が透けていた。
穂高は胸元から人差し指を外して、花柄のワンピースを着た。
長身で肩の張った彼女には、袖の付け根にギャザーが寄ってふわりと膨らんだワンピースはまったく似合わない。そんな感想を胸の内に抱いた男相手に
「謝謝。We need to follow the law」
穂高が棒読みの発音で告げると、男は軽く声を漏らして笑いながら
「路上小心」
と返した。
歌舞伎町タワーのふもとで封鎖されたシネシティ広場の柵の前には、折り畳み式の簡易椅子を開いて座る男女混合の集団が睨みをきかせていた。格好こそ若いが、肌には長年の不摂生の疲れが蓄積した中年たちだった。すぐそばに待機する警察官たちはなにかあれば取り締まれるように監視を続けていた。
その通り沿いの数十メートル先では、コンセプトカフェの若い店員たちが笑顔を振りまいて店名の書かれたフリップを振っていた。
その人混みをすり抜けて歩く女性たちに声をかけているのは歌舞伎町のホストだった。路上での客引きを禁止されている彼らはナンパを装って新規の女性客を摑まえようとしていた。
穂高が赤い絨毯の敷き詰められた階段を上がり、キャバレーの跡地を利用した歌舞伎町の喫茶店に到着したのは午後六時過ぎだった。
ボックス席では、首までタトゥーを入れた青い髪の男と横並びになった心春が緑色のクリームソーダを飲んで待っていた。店内には他に一組の若い女性四人がいて、写真を撮り合っていた。
穂高は心春と色違いの青いクリームソーダを頼んだ。
運ばれてきたクリームソーダを前にした穂高は、青い髪の男にスマートフォンを手渡した。
「時々、角度変えて、色んなパターンで撮ってほしい」
「おけ。二人とも少し遠いから、もっと近付いて」
そう言ったときに上唇が捲れて剝き出しになったピンク色の歯茎に、穂高は軽く目を奪われた。審美歯科通いが当たり前の時代に治療もせず、唐突に撮影係を押し付けられても文句ひとつ言わずに
「今の二人とも可愛い、もう一枚」
と笑顔で指示を出す青い髪の男の素朴さに軽く胸を打たれた。
撮影を済ませた穂高はようやくクリームソーダを半分飲んだ。
青い髪の男が軽く周囲を見回してから、穂高に耳打ちした。その様子を心春は黙ってぼんやり見守っていた。
「どこ?」
穂高は無言で花柄ワンピースの胸元を押し開いて白い肌を覗かせた。青い髪の男は素早く彼女の胸元に鼻先を寄せた。そして一度だけ強く嗅ぐと
「おけ。いくら」
と訊いた。
「一。二人分のクリームソーダ代も」
と穂高は告げた。
「了解」
「これ。西武線のロッカーで番号は十一」
青い髪の男は財布から一万二千円を抜いて穂高に手渡した。穂高は彼の空いた右手にコインロッカーの鍵を握らせた。彼はすぐに席を立って、店を出ていった。
二人きりになると、心春は急に泣き出しそうな目をして、穂高を見た。
「どうしよう。頭ずっとぐるぐるしてる。瑛人がいなくて生きていける気がしない」
「うん。だからお守りあげる」
穂高は折り畳んだハンカチを開いてみせた。別のジップ袋に小分けした乾燥大麻だった。
心春はそれをバッグの内ポケットにおさめると、財布を出した。穂高はその手を右手で制した。
「お金とかいいよ」
「ありがとう。もう毎日やだ。仕事もなにもぜんぶダルい」
心春は途方に暮れたようにテーブルに顔を伏せた。
「それ売って、またホストに使うのも無しだよ」
「これ売っても、初回行って飲み直ししたら、もうお金足りないよ」
「マジか。えぐ」
「それに色恋してくれなかったら意味ない。愛が欲しかっただけだから」
穂高は少し考えて、言った。
「愛はタダでもらいなよ」
「たしかに。穂高からは今タダでもらったもんね」
心春は今日初めて気を許したような笑顔を見せたものの、すぐにその表情を打ち消した。
「穂高、今日の服ダサいね。香水強いし」
「さっき女装好きの外国人に声かけられて、その服どこで買えるのって訊かれたから古着だって答えたら、五千円か草と交換してくれって頼まれて、全とっかえしてあげた」
「どこで? 西武新宿駅の公衆トイレ?」
「空いてる映画館の女子トイレで着替えて、その後、私だけ映画観てきた。チケット買ってもらったしラッキーだったよ」
「そのまま映画観たの? すごい神経だね。しかもただ洋服交換しただけ?」
「うん」
「危ないこととか、変なこと要求されなかった?」
「うん」
穂高は淡々と頭を振った。
心春はぶかぶかの花柄のプリントワンピースを着た穂高を見返した。
瞳はやや離れぎみで、白目が目立つ。鼻筋は通っており、唇は常にリップで上塗りしたように赤く厚みがある。額が広く、アッシュグレーに染めたボブヘアの髪を掛けた両耳は大きかった。顔の皮膚が薄いために、やや青白く見える。
穂高は分かりやすく可愛いってわけではないんだけどなんだろう……と心の中で言葉を探していた心春は、透明、という表現を連想した。
そうだ、穂高は透明なんだ。誰と話しても、なにをしても、その対象と混ざって濁らない。
彼女の目に宿る感情は変化に乏しく、人間の気持ちになんて関心がないんじゃないかと思わせる。透明感とは違う。本当に内側までなにもないように思わせる、透明。
それでいて数カ月前にシネシティ広場周辺で出会ってから、穂高はずっと心春に親切にしてくれた。
心春は同性と深いところまで打ち解けたことがなかった。最初こそ愛想の良さを発揮して親しくなるものの、気付かぬうちに自分だけが周囲から浮いていて、居場所がなくなることを繰り返していた。
穂高と出会った夜は曇天で春風も冷たく、歌舞伎町に人の姿はまばらだった。シネシティ広場周辺には行き場のない少女たちが数人たむろしていた。ごく自然に声をかけ合った彼女たちは喋っているうちに盛り上がり、SNSをフォローし合った。
そのうちの一人が
「私めっちゃ連投するから、ウザいときはミュートにしてね」
と冗談で言った。
真に受けた心春は即答した。
「うん。読みたくないときはそうするね」
それまで途絶えなかった笑い声が消えた。誰からも反応がなかったことで、遅れて心春はようやく失言に気付いた。
他人と自分を比較してしまうから、誰のアカウントも見たくないときがある。深い意味はないのだと説明したかったが、言い訳じみて聞こえるかもしれないという逡巡に搦め捕られてぐずぐずしているうちに、まったく別の話が始まっていた。
そのとき心春の隣でスマートフォンをいじっていた穂高が呟いた。
「私、全員ミュートしてる」
皆の笑い声と重なって、その台詞が聞こえていたのは心春だけだった。
「え、全員?」
心春は驚いて訊き返した。
「うん」
「なんで?」
「あ、人数が多くて、よく分かんないから」
あまりに頓着しない様子でそう言い放った穂高に心春は興味が湧いた。この子は変わっていることを許されてると思った。
(続きは本誌でお楽しみください。)