*瀬戸美駒

「双子か?」
 仔馬が生まれ出てきた次の瞬間、矢島誠一が目を瞠った。
 仔馬が小さかったのだ。母馬のお腹にもう一頭いたとしてもおかしくはない。
 見守る人間たちの困惑をよそに、母馬――アイタナは仔馬の羊膜を舐めとりはじめた。しばらく様子を見守ったが、もう一頭が生まれてくる気配はなかった。
 仔馬は栗毛のようだった。尾と鬣の色が薄い。父であるオルフェーヴルらしさが出ている。
 それにしても小さい。瀬戸美駒は矢島牧場で働くようになって二年。馬のお産に携わった経験はさほどないが、目の前の仔馬が異常に小さいということはよくわかった。
「二頭目はいないみたいですね」
 場長の友田康晴が矢島誠一に言った。矢島はこの牧場の三代目で、矢島牧場の専務という肩書きを背負っている。社長は二代目の矢島隆だが、ほとんど現場を退いて、趣味のトマト栽培に日々勤しんでいる。
「一頭にしては小さすぎるベや」
 矢島が嘆息した。
「こんなにちっこいんじゃ、順調に成長してもたかが知れてる。セリには出せないべね」
 友田が首を振る。
 美駒はふたりの会話を聞きながら、仔馬から目が離せないでいた。
 本当に小さい。こんな小さな体で立ち上がることができるのだろうか。生きていくことができるのだろうか。
「オルフェの産駒は小さく出るって話、最近耳にしたけど、それにしてもなあ」
 矢島が言葉を続けていた。
「母馬は現役時代、五百キロを切ったことないんだぞ」
 アイタナは大型の牝馬だった。現役時代は常時五百十キロ前後の体重で競馬を走り、引退して繁殖牝馬となった今の体重は優に六百キロを超えている。
 オルフェーヴルは日本競馬界が生んだ最高の怪物と言われる名馬だ。オルフェーヴルの現役時代は、体重四百五十キロ前後。体格としては中型だった。矢島と友田は、だから、オルフェーヴルを種付けする相手としてアイタナを選んだのだ。アイタナほどの大型馬なら、オルフェーヴルをつけてもそれなりの体格の馬が生まれるのではないか。
 だが、その期待は脃くも崩れ去った。
「あ――」
 美駒は思わず声を上げた。仔馬が体を震わせながら、立ち上がろうともがきはじめたのだ。
「専務、仔馬が立ちます」
「まだ早いベ」
 矢島は腕時計に視線を落とした。仔馬が生まれてからまだ三十分も経っていない。一般的には、生まれたばかりの仔馬は一時間前後で立ち上がり、母乳を飲みはじめる。
「立とうとしてますよ、専務」
 友田が言った。
「ちっこいけど、いい根性してるな」
 頑張れ、頑張れ、頑張れ――美駒は声に出さずに仔馬を応援した。
 立って、お母さんのお乳を飲むのよ。それができれば、生きていけるから。
 仔馬はよろめきながら立ち上がった。震える四肢で踏ん張り、四方を見渡す。
 美駒と目が合った。漆黒の目は吸い込まれてしまいそうなほど純粋だった。流星と呼ばれる額から鼻先まで伸びる白い模様は細くも太くもなく、左右均等でバランスが取れている。
「お美人さんだ」
 美駒は呟いた。
 しばらくすると、仔馬はよろめくように歩き、立ち上がった母馬の腹の下に潜り込んだ。乳を飲みはじめる。
 一安心だった。せっかく生まれてきても、そのまま立ち上がることができずに死んでしまう仔馬もいる。
「どうしますか?」
 矢島と友田がまだ話し合っていた。
「どうもこうも、こうやって自分で立って母乳を飲んでるんだ。死なすわけにもいかねえべ」
「でも、売れませんよ、こんなちっこい馬」
「もしかしたら、ぐんと成長するかもしれない。とりあえず、様子を見るべや」
 牧場はサラブレッドを生産し、それを売ることで利益を上げている。一頭の馬を繫養するには月額数十万の金がかかるのだ。矢島牧場は売れる目処の立たない馬を繫養できるような牧場ではなかった。
「専務――」
 美駒は右手を挙げて、矢島に声をかけた。
「ん?」
 矢島が視線を向けてくる。
「この馬、わたしに担当させてください」
 矢島が腕を組んだ。
「一年経ってもちっちゃいままだと、処分することになるかもしれない。辛いぞ。おまえには他の馬を任すから――」
「やらせてください」
 美駒は声を張り上げた。
 仔馬は長く生きられないかもしれない。だからこそ、愛情をこめて世話をしてやりたかった。
「それほど言うなら、やってみればいい」
 矢島が言った。
「ありがとうございます」
 美駒は深々と頭を下げた。

* * *

「それでね、マロンてば、体は小さいのに、すごいきかん気なのよ」
 美駒は言葉を切り、アイスティーを啜った。向かいに座る遠藤圭吾はスマホの画面を見つめていた。
「なによ、人が話してるのに、さっきからスマホばっか見て」
「美駒だって、久々のデートだってのに馬の話しかしないじゃないか」
 圭吾はスマホを見つめながら顔をしかめた。
「だって……」
 美駒は言葉を濁した。圭吾の言うとおり、自分が口にするのは馬のことばかりだ。朝から晩まで週六日、ずっと馬のそばにいるのだから、話題といえばそれしか頭に浮かばない。流行りのゲームやドラマにはすっかり疎くなっているし、ファッションも機能性が最優先。普段の付き合いも、牧場関係の人間ばかりだし、そのほとんどが中年男性だ。圭吾が食いついてきそうな話題など、どこにもない。
「この後どうする?」
 圭吾がやっとスマホから目を離した。
 美駒は店内に視線を走らせた。すすきののカフェは、平日ということもあって客の姿もまばらだった。
「買い物に付き合ってくれる?」
 美駒は言った。途端に圭吾の表情が曇る。
「どうせ、スポーツか登山メーカーの服だろう。つまんないんだよな」
 美駒は頰を膨らませた。貴重な休日に、いつものように早起きをして、日高の浦河町から札幌まで車を走らせてきたのだ。興味がなくても、付き合ってくれてもいいはずだ。
「なあ、いつまで牧場の仕事続けるつもりだよ」
 圭吾が言った。美駒は聞こえないふりをした。
 圭吾と知り合ったのはおよそ二年前だ。札幌で大学の同窓会があり、その二次会で立ち寄った居酒屋で隣り合わせた。圭吾が、当時、美駒がはまっていたバンドの大ファンだということを偶然知り、意気投合してふたりで飲みはじめた。
 LINEを交換し、メッセージのやりとりを繰り返している内に恋心に火が点いた。三度目のデートで体をゆるし、以後、遠距離恋愛を続けている。
 圭吾は神奈川生まれの北大卒。故郷には帰らず、札幌の金融関連の会社に勤めている。優秀な証券マンらしく、高給取りだった。デートの費用はいつも圭吾が持ってくれる。
「やっぱり、浦河は遠いよ。休みだって週に一日しかないから、日帰りだろう。おれだって、たまには美駒と一緒に朝を迎えたいよ」
 基本的に休みは週一だが、有給をまとめてとることもできるし、夏休みや正月休みもある。だが、そういうときは圭吾が忙しくてゆっくりできることはまずなかった。
「牧場やめて、札幌に来いよ。おれと一緒に住もう」
 圭吾の言葉が本心だということはわかっていた。だが、素直にうなずけない自分がいる。
「もうちょっと考えさせて」
 美駒は言った。
「いつもそれだ」
 圭吾は舌打ちしてそっぽを向いた。

* * *

 馬房の清掃が終わって廏舎を出た。目の前の放牧地で母馬ととねっこ――その年に生まれた仔馬たちが草を食んでいるのが見えた。
 ひときわ小さなとねっこが、ひときわ大きなとねっこを追い回していた。
 小さな栗毛の馬はマロン。美駒が名づけた。
 サラブレッドは普通、馬主が決まるまで正式な名前はつかない。母の馬名に生まれた西暦を付け足して、アイタナの2015。それが今現在のマロンの正式名称だ。だが、自分の担当するとねっこを正式名称で呼ぶ廏務員はひとりもいない。みな、適当な愛称をつけて呼んでいる。
 栗毛だからマロン。身も蓋もない命名だが、美駒は気に入っていた。
 生後三か月が過ぎたが、マロンは相変わらず小さかった。同じ時期に生まれたとねっこたちと比べても一回り以上は小さい。ただ、気持ちの強さは体に反比例するように強く、気に入らないとねっこを追いかけ回しては居丈高に振る舞うことが多かった。
「相変わらず威勢だけはいいな、あのお嬢は」
 場長の友田がやって来て、美駒と肩を並べた。
「アイタナも現役時代は名うての気性難だったし、オルフェーヴルにいたってはな」
 友田は被っていた帽子を脱ぎ、頭を搔いた。
 マロンの父であるオルフェーヴルはGⅠと呼ばれる最高グレードのレースを六度も勝った名馬だが、金色の暴君と呼ばれるほどに気性が激しかった。デビュー戦で勝った直後に、騎手を振り落とした姿は今でも語り草になっている。
「売れますかね」
 美駒は訊いた。
「無理だな」
 友田が即答した。
「いくらなんでも、競走馬としては小さすぎるのさ。うちも経営が楽なわけじゃないから、売れるもんなら売りたいが、買い手がつかんべ」
 最近のサラブレッドは体重が五百キロを超えるものが多くいる。小さくても四百数十キロ。マロンの馬体は今のままの成長曲線なら、三百五十キロまで行くかどうかというところだった。
 矢島牧場は北海道日高地方、浦河町の野深というエリアにある生産牧場だ。日高地方はサラブレッドの一大生産地であり、数多くの牧場が存在する。かつては大きなレースを勝つ馬はほとんどが日高の生産馬だった。
 しかし、今は千歳周辺で牧場を経営する社台グループ、中でもノーザンファームのひとり勝ちという様相を呈しており、日高の馬がGⅠを勝つことはほとんどなくなった。
 それでも、日高の牧場で働く者たちは、いつか、自分が生産した馬が、自分が手がけた馬が、GⅠを、日本ダービーを勝つ日を夢見て働いている。
 きつい仕事だから、馬への愛と情熱がなければ続けられない。
「そろそろ収牧するか」
 友田が言い、指笛を鳴らした。それぞれの作業をしていたスタッフたちが集まってくる。
 馬を放牧地に出すことを放牧、放牧地から馬房に戻すことを収牧という。
 収牧された馬たちは馬房に戻ると飼い葉を食べ、しばらく休んだ後でまた放牧に出される。最近では昼夜放牧と言って、夜から朝まで、馬を放牧地で過ごさせるのが通例になっていた。放牧地を動き回ることで健全な筋肉が発達し、デビューに向けたいい下準備になるのだそうだ。
 人間の姿に気づいた馬たちが、放牧地の出入口に集まってきた。馬房に戻ればすぐに食事だということを理解している。馬は賢い生き物だった。
 馬が外に出ないように気をつけながら放牧地の中に入り、それぞれが担当の母馬と仔馬の、無口と呼ばれる馬装に引き手を取り付ける。
 大抵の馬は頭絡と呼ばれる細い革でできた装具を頭部に装着されている。頭絡と手綱を繫いだり、馬を制御するためのハミと呼ばれる馬具を吊すのに必要なものだ。無口は、そのハミを吊す部分がない。牧場などでスタッフが引き綱をつけて一緒に歩くための馬具だった。
 廏舎の中で、母馬と仔馬の体を丁寧に拭き、ブラシをかける。汚れが酷いときはシャワーを使うのだが、冬のシャワーは拷問だった。寒いのを通り越して凍てついてしまう。
 母仔を馬房に入れると、アイタナが足踏みをはじめた。飼い葉の催促だ。現役の競走馬時代に比べると、ずいぶん丸くなったそうだが、もともと気性が荒い馬だ。美駒のことも子分ぐらいに思っていて、気に食わないと嚙みにくる。急いで飼い葉桶を運び、馬房の内側の器具に引っかけて吊す。
 アイタナとマロンはがつがつと食べはじめた。
「たくさん食べて、大きくなるんだよ」
 マロンに声をかけ、美駒は廏舎を後にした。任されているのはアイタナとマロンだけではない。他に三組の母仔を収牧しなければならないのだ。
 矢島牧場の放牧地は五つあるが、どれも広い。収牧のために放牧地を歩き回るだけで一時間は軽くかかる。
 収牧と飼い葉付けが終わっても、一息つく暇はない。傷んだ牧柵の修理や放牧地の雑草取り、草刈りとやらなければいけないことが山積している。出産シーズンが一段落したのが唯一の救いだった。
 昼休みになると、車で荻伏というエリアまで出かけ、セイコーマートで昼食を見繕った。セイコーマートは北海道を中心に展開するコンビニチェーンだ。ホットシェフと呼ばれる、店内で作る弁当や惣菜が美味しい。道民からは親しみをこめてセコマと呼ばれている。
 ベーコンおかかのおにぎりと、味付き茹で玉子、蕗を使った惣菜、お茶を買うと、また車を走らせた。海岸線沿いの国道を数分走ると、隣町の新ひだか町だ。三石の道の駅で車を停める。道の駅の裏手は、海岸に芝生を敷き詰めた広大なオートキャンプ場だ。お盆休みのころは盛況だが、今はまだ五月。人の姿もまばらだった。
 ベンチに座り、昼食を取った。目の前に広がる太平洋は穏やかにうねり、春の日差しを浴びて煌めいている。
 おにぎりを頰張りながら、先日のデートのことを思い浮かべた。
 結局、渋る圭吾を引っ張ってスポーツグッズの専門店へ行き、夏用のTシャツやレインウェア、スニーカーを買った。その後は圭吾のマンションで慌ただしいセックスをし、午後八時には帰路についた。札幌から浦河まではおよそ三時間強。アパートに到着したときには午後十一時半を回っており、洗顔や歯磨きを済ませた時には日付が変わっていた。
 牧場の朝は早い。翌日、美駒は欠伸を嚙み殺しながら馬たちの世話に走り回った。
「牧場やめろ、か。簡単に言ってくれるよね」
 美駒は呟いた。
 圭吾と結婚することになるのだろうか。そうなったら、牧場の仕事はやめるしかない。圭吾に浦河に来いとは言えない。
 将来に対する漠然とした不安はいつも胸の奥に居座っている。
 日高地方の牧場は、後継者や人手不足などの問題で、少しずつ、その数を減らしている。
 専務の矢島誠一には息子がひとり、娘がふたりいるが、三人とも、牧場を継ぐ気はないらしい。そうなると、いずれ、矢島牧場も廃業するしかなくなる。
 いつまで馬の仕事を続けられるのか。
 不安はあるが、馬は可愛く、愛おしい。牧場の仕事もコツを摑んで楽しく思えてきたところだ。今やめるのは口惜しい。
「もう、わたしにどうしろって言うんだよ」
 美駒はおにぎりの最後の一口を飲み込むと、髪の毛を搔きむしった。


 

(続きは本誌でお楽しみください。)