序章


 好きな靴を履いて出かける日、輝子の胸はいつも躍っていた。
 その頃のお気に入りは赤い革靴で、甲のストラップには小さくて可愛らしいリボンがあしらってある。子供用だからもちろん踵は低く、輝子の足に合わせて作ってあるので、いつもの草履より疲れないし、足が包まれた感じが心地いい。履いているだけで元気が湧いて、どこまででも歩いていけるような気がした。
「テルちゃん、嬉しそう。ほんとにその靴が好きなんだね」
 隣を歩く母が微笑みながら言い、輝子は「うん」と大きく頷く。
 でも、もっと嬉しいのは、母と久しぶりに並んで歩けることだ。
 しばらく臥せっていたせいで、母はずいぶんと痩せている。けれど、この日は体調が良かったのだろう。珍しく洋装で、つばの広い帽子にワンピース、足元は踵の高い黒の靴。普段の草履よりも、ずっときれいに見えた。
 小学校に入って間もない頃だから、六歳か七歳くらいの記憶だ。
 波の音と潮の香り。陽光が降り注ぐ、海沿いの道。
 今となっては、どこへ向かっていたのかも覚えていない。けれどその時、母と話したことは今も輝子の胸に刻み込まれている。
「ねえ、知ってる? テルちゃんがいま履いている靴も、私のこの靴も、お父さんの会社で作ったものなのよ」
「うん、知ってるよ。お父さんの作る靴、大好き!」
「じゃあ、テルちゃんが絶対知らないこと、教えてあげようか」
「知りたい。教えて!」
 母は足を止め、輝子の前に屈み込んで顔を寄せてきた。お化粧の匂いが鼻をくすぐる。
「わかった、教えてあげる」
 輝子の耳元で、母が囁いた。
「お父さんの会社で作ってる靴はね、本当はお母さんがデザインしてるの」
「デザインって?」
「この人にはどんな靴が似合うかな、って考えて、形や色や、材料を決めるの。テルちゃんの靴の形も、お母さんが決めたんだよ」
「本当?」
「うん、本当」と、母は誇らしげに頷く。
「じゃあ、お母さんもお父さんみたいに、靴を作れるの?」
 そう訊ねると、母は首を振った。
「お母さんは、デザインだけ。実際に作るのは、お父さんの方が上手だから」
「そうなんだ」
「今のお話は、お母さんとテルちゃん、二人だけの秘密ね。誰にも言わないって約束できる?」
「うん、約束する」
 幼い輝子には、なぜそれを秘密にしなければいけないのか理解できない。ただただ、母と二人だけの秘密を持つということが嬉しかった。
「フランスに、こういうことわざがあるの。〝素敵な靴は、あなたを素敵な場所へと連れていってくれる〟」
 輝子の頭を軽く撫で、母が姿勢を正す。
「私はどこへも行けなかった。だから、あなたは素敵な靴を履いて、素敵な場所へ行きなさい」
 呟くように言う母の横顔が、輝子にはなぜか悲しげに見えた。

第一章


 お父さんは魔法が使えるんだと、輝子は思った。
 最初はあんなにも分厚くて固かった革が、父の膝の上で見る見るうちに靴の形になっていく。
 木型に合わせた生地を釘で仮留めし、金づちで叩き、ワニという変わった形の道具で挟んでぐいぐいと引っ張る。
 父の息遣いは荒く、腕には筋が浮いていた。時々大きく息を吐いて、袖で額の汗を拭っている。相当、力を使うのだろう。輝子も隣に座る兄も、自分が作業するかのように力を籠めて、父と靴を見入っていた。
 父が工房として使っている自宅の離れが、輝子は好きだった。
 革や削り落とされた木屑、接着剤。いろいろな匂いが入り混じっている。机の上のミシン。部屋の隅に積まれたたくさんの木型。壁にかけられた鋏や金づちや革切り包丁や、何に使うのか見当もつかない道具たち。眺めているだけで、なぜか気持ちが浮き立ってくる。
 釘を抜いて余った部分の生地を切り落とすと、ほとんど靴の形が出来上がったように見えた。
「お父さん、もうできたの?」
 輝子が訊ねると、父は「いいや」と笑って首を振る。
「まだ、底の部分が無いだろう? これからソールを作って、縒り合わせた糸で縫い付ける。その後はウエルトの調整と染め、コテかけ。最後に木型を抜いて磨き上げれば完成だ」
「そうなんだ」
 よくわからない言葉がたくさんあるけれど、そう語る父は楽しそうで、輝子も嬉しくなる。
「本当に、手間のかかる仕事なんですね」
 溜め息を吐きながら、兄の憲一が言った。この靴は、父から兄に贈られる誕生祝いだった。
 輝子は、机に置かれた未完成の靴をじっと見つめる。
 皺一つない滑らかな曲面が、窓から射し込む日の光を照り返してきらきらと輝いていた。それは本当に魔法のようで、見ていると心が弾んでくる。
 そうだ。お気に入りの靴は、履いているだけで元気になれる。だから、母が気に入るくらい素敵な靴を作ってあげれば、きっと病気もよくなるに違いない。
「ねえ、お父さん。輝子も、こんな靴が作りたい!」
「そうか。〝欲しい〟、じゃなくて〝作りたい〟か」
 何が可笑しいのか、父は声を上げて笑った。
「靴作りは男の人の仕事だから、輝子にはちょっと難しいかもしれないな。輝子は女の子なんだから、靴を作るよりも、素敵な靴が似合う人になりなさい」
「女の子だって……」
 言いかけた刹那、輝子は息を吞んだ。
 なぜか、父の顔が醜く歪んでいる。いつか読んだ絵本に出てきた鬼のように、両目も口の端も吊り上がり、この世のものとは思えない。あたりを見回すが、兄の姿はどこにもない。
「どうした、輝子。父さんの言うことが聞けないのか?」
 立ち上がり、父がこちらへ手を伸ばす。

 びくりと体が震え、輝子は目を覚ました。
 ひどい夢だった。大きく息を吐き、額の汗を拭う。頰杖を突いて考え事をしている間に、寝入ってしまったらしい。
 そうだ、今は授業中だった。慌てて教壇に顔を向けるが、教師は気づいていないようだ。ほっと胸を撫で下ろす。先週の席替えで窓際の席が当たったことを、輝子は神さまに感謝した。
 机に広げた帳面には、板書ではなく、何足もの靴が描き込まれていた。紳士用の外羽根に内羽根、ストレートチップやウイングチップ、婦人用のパンプスにローファーなどなど、種類も様々だ。
 いま頭を悩ませているのは、婦人用の短靴だった。
 輝子の通う高等女学校は、筒袖の着物に袴が制服だ。履物に規定はないけれど、華美ではないものが推奨されているため、革の編み上げ靴を履いている生徒が多い。
 編み上げ靴は丈夫でおしゃれだけれど、もっと歩きやすくて可愛らしい、学校に行くのが楽しくなるようなものが作れないだろうか。そう思って考えはじめたものの、爪先の形や踵の高さ、色に材質と、どれを取っても悩ましい。
「……テルちゃん、テルちゃん」
 隣の席のフミが、鉛筆で肘をつついてきた。
「……先生が見てるよ」
 小声で言われて、「あ」と思わず声が漏れる。
 まずい。また没頭してしまった。今は、何の授業だっけ。
「内山君。内山輝子君!」
「は、はい!」
 慌てて立ち上がった。教師の顔と黒板を見比べ、ようやく歴史の時間だったと思い出す。
「今を去ること十三年前の明治三十八年。日露戦争の趨勢を決したる日本海海戦において、指揮を執った連合艦隊司令長官は、どなただったかな?」
 四十絡みの担当教師が、自慢の八の字髭をいじりながら訊ねた。この教師はいつも不機嫌ないわゆる〝常習イライラ〟で、生徒たちからはすっかり嫌われている。
「え、ええと……」
 頭の中にある数少ない知識を引っ張り出し、最初に浮かんだ名前を答えた。
「山田馬三郎さん……ですか?」
 八の字髭はしばし口を開け、困惑した様子で言った。
「それは……いったい誰だ?」
 誰と言われてもわからないので、「わかりません」と答えた。隣の席で、フミが笑いを堪えている。
 もういい、しばらく立っていろと言うので、立ったまま靴の構想を練った。たぶん、もう当てられることはないだろう。
「まったく、昨今はデモクラシーだの女性の社会進出だのと喧しいが、我が国が誇る偉大な名将の名も知らぬようでは本末転倒も甚だしい。そもそも、高等女学校とは良妻賢母を育成するためのもの。諸君はくれぐれも流行に流されず、良き妻、良き母親としてお国のために……」
 そうだ、後でフミに足を測らせてもらおう。ついでに足の悩みも聞けば、どんな靴がいいか見えてくるかもしれない。頭で考えるより、まず行動だ。
「あ」
 思い出した。山田馬三郎さんは、日本で最初の製靴工場、伊勢勝造靴場の靴職人だった。

 昼休み、輝子は周囲が啞然とする速さで弁当を搔き込むと、紙と巻き尺を取り出した。
「フミちゃん、ちょっとこの紙の上に立ってみて」
「テルちゃん。私、まだ食べてるんだけど」
「うん、食べながらでいいよ」
 諦めたのか、フミが弁当箱を持ったまま立ち上がった。足長と足幅を測ると、巻き尺を足に巻きつけて足囲を測定していく。
「それでね、春江。昨日、またお兄ちゃんと喧嘩しちゃってさ……」
 フミは立ったまま弁当を食べながら、春江とお喋りを続けている。できれば真っ直ぐ立って力を抜いてほしいのだけれど、あまり我が儘も言えない。
 輝子はいつも、昼休みをフミと春江と一緒に過ごしていた。二人とも、一年生の時から同級で、二年生になった今も仲良くしている大の親友だ。
 フミは桜木町で医院を開いているお医者様の娘で、春江は造船業を営む傍ら横浜市会議員も務める大金持ちの御令嬢。フミは闊達でお喋り、春江はおとなしくておっとりしている。二人は履き慣れた靴みたいに、ずっと一緒にいても疲れない。
「お兄様はなんて?」
 玉子焼きを口に運びながら、春江が訊ねる。
「〝女にも教育が必要という理屈が、俺はいまだに納得できん。家事なら家でも学べるだろう〟だってさ。ほんと、頭にきちゃう」
「あらあら、フミさんのお兄様は、ちょっと時代に遅れていらっしゃるわ。ご結婚なさったら、奥様はさぞや苦労するでしょうね」
 春江はおっとりした口調でたまに毒を吐くので、聞いていて面白い。
「そういえば、輝子さんのお兄様ってどんな御方? 東京の大学に通ってらっしゃるのよね」
「うん。今は寄宿舎にいるけど、昔から小説ばっかり読んでる。藤村とか樋口一葉とか、ドス何とかっていう、フランスだかイギリスだかの……」
「ロシアのドストエフスキーね。文学青年だなんて、素敵なお兄様じゃない」
「少なくとも、うちのお兄ちゃんみたいに〝女に教育なんて贅沢だ!〟とか言わなそう」
「まあ、そうだね。ちょっと頼りないけど」
 口を動かしながら、巻き尺で測った結果を紙に書き込んでいく。
「フミちゃん、座っていいよ。今度は靴を測らせて」
「はいはい、好きにして」
 気づくと、話題は雑誌で連載中の少女小説の話に変わっていた。
 同年代の女子は話題がぽんぽん飛ぶので、ぼんやりしがちな輝子はついていけなくなることも多い。
 春江は、『少女画報』に掲載されている「花物語」という小説がお気に入りだった。
「私も早く、心から分かり合えるエスさまに出会いたいわ」
 夢見るような顔つきで、春江が言う。
〝エス〟というのは定義がいろいろとあってわかりにくいけれど、Sisterの頭文字のSから取った言葉で、要するに、強い絆で結ばれた女性同士のことらしい。
「私はエスさまより、素敵な殿方の方がいいな。女性に理解があって、懐の深い、お兄ちゃんとは正反対の人」
「輝子さんは、どんな恋愛がしたいの?」
 春江に話を振られ、ちょっと考えてみた。
「うーん、わかんない」
「やれやれ、十四歳にもなってそれじゃあ、先が思いやられるねえ」
 フミが呆れたように言うけれど、今のところ恋愛にはまったく関心が湧かない。
 輝子にとって、今は素敵な殿方やエスさまよりも、素敵な靴を作れるようになる方がずっと大事だった。

(続きは本誌でお楽しみください。)