序
薄暗い川面にいま、ただならぬ死の気配が漂っていた。
午前五時半。靄が立ちこめているが、かろうじて対岸は見える。浮かび、音もなく動き回っている何艘かのボートの姿も。青色の制服に身を包んだ隊員たちが交わす言葉が水面を伝い響き、ボートを漕ぐオールの水を撥ねる音が時折それに入り混じった。
悲劇は、この日の朝午前四時ごろ起きた。
ひとりの女が人生に絶望し、おそらくは深刻な思案と錯乱の合間を行き交った挙げ句、小さなクルマのハンドルを握り締めたまま、まだ春早い川へと身を投げたのである。
川岸の公園を散歩していた住民が、川底に見えたクルマのテールに気づいて警察に通報したのは夜明けから間もない午前五時過ぎのことだ。
だが、冷たい水底から引き揚げられたクルマの運転席に、その女の姿はなく、ドアは開いていた。
自ら死を選んだはずの彼女は、その間際になって生への執着から逃れられなかったかも知れない。
だが、その彼女が見せた抵抗は、低すぎる水温と見た目とは裏腹に強い、水面下の奔流によって虚しく阻まれ、退けられたに違いなかった。
「いたぞ!」
やがて、辺りに立ちこめた異様な静けさの中に誰かの叫ぶ声が響き渡ったとき、水面下を覗き込んでいた三馬太郎は顔を上げ、ボートを漕いでいた藤本勘介もその動きを止めた。
それも束の間、勘介が猛スピードでオールを漕ぎ、声のした方へとボートを滑らせた。岸壁を疎林が埋める岸から、少し離れたところだ。川底にある大きな切り株のようなものに、彼女の体はひっかかっていた。
次第に明るさを増していく空のもと、太郎は、わずか水面から数十センチのところにある彼女のやけに白い顔面を見た。
トビや棒を使ってどうにかその体を水面に引き揚げると、まるで何者かに誘われるようにその体が再び流れはじめ、下流側につけていた太郎たちのボートにせき止められるようにして止まった。
「勘介くん」
声を掛け、太郎は勘介とともに彼女の腕と足を摑み、抱きかかえるようにしてボートに引き揚げた。身長は百六十センチもないだろう。小柄なひとだった。
「陸へ上げよう」
頷いた勘介が、水の流れに逆らいボートを漕ぐ間、太郎は彼女から目を離すことができなかった。
その表情が苦悶に歪み、凄惨な最期の瞬間を留めていたからだ。その圧倒的な死の前に太郎は言葉を失い、ただそれを受け入れるしかない現実に打ちひしがれた。
鑑識が到着し、検分が始まった。
その様子を遠巻きにしながら太郎は、その彼女――篠原玲那の生涯について思いを馳せた。
三十年の短い生涯を、彼女は自ら閉じたのである。
果たしてその人生に何があったのか。それを想像しないではいられなかった。
第一章 町長選挙
1
八百万町長の信岡信蔵が、次期町長選に出馬しないと表明したのは、町長選前年の秋のことであった。
町長選挙を翌年一月に控えたその季節、当然、立候補するであろうと思われた現職町長の辞退表明は、それ自体、八百万町民に驚きを持って受けとられた。仮に出馬していたら、再選される可能性はかなり高いとも思われていたからだ。
不出馬表明の少し前、八百万町内ハヤブサ地区を舞台にした、とある事件が惹起し、そしてそれは意外な顚末を迎えた。それには信岡もまったくの無関係というわけでもなかっただけに、二期八年に亘って町長を務めた信岡にも、おそらく何か思うところがあったのだろう、というのが事情に知悉する者たちに共通した意見であった。
三馬太郎もまた、そのひとりといっていいだろう。
これで信岡の町政は終焉を迎えるだろうが、人口一万人ちょっとの小さな町である。誰が町長を務めたところで大して変わりはしないだろうと、そもそも政治というものに関心の薄い太郎は思っていた。
ところが、である。
「太郎くん、今晩、時間ある? 郁夫さんから、『サンカク』に来てくれっていわれとるんやけど。太郎くんにも声掛けてくれっていうもんでさ」
宮原郁夫は、太郎の住む八百万町ハヤブサ地区の消防分団長である。
師走も半ば過ぎ。この時期の作家は案外と忙しい。印刷所が正月休みになるため、それに合わせていつもより締め切りか早まるからだ。これを業界では「年末進行」という。
日々、原稿と格闘している太郎ではあるが、そういえばここのところ忙しすぎてサンカクに顔を出してなかったこともあり、
「ああ、大丈夫だけど」
気楽に答えたのである。サンカクというのは、賀来という夫婦が営むハヤブサ地区唯一の居酒屋だ。「賀来さん」だから、逆にして「サンカク」である。
「何時から?」
「六時に来いって。消防の他の連中にも声掛けとるらしいで」
「何の集まり?」太郎はきいた。
「特に何ってことはないみたいやけど。ただ吞みたいだけなんやない? 猪鍋も出るらしいよ」
それはいいな、と内心太郎は愉快になった。
このハヤブサ地区に住み始めて丸二年。都会の便利さはない代わり、田舎には田舎の良さがあることを太郎は知っている。
濁りない満天の星や静寂、澄み渡る空気だけではない。天然の鮎や鰻、タケノコやワラビといった山菜。ヘボと呼ばれる地蜂といった珍味も中には含まれるが、イノシシの肉の美味さといったら、太郎にとっては特筆ものなのであった。地元のハンターが仕留めた肉を鍋にして囲み、気が置けない友人たちと酒を吞む楽しさは、決して都会では味わえまい。人付き合いの緊密さもまた、田舎ならではだ。
「じゃあ、行こうかな」
「ほんなら、俺が迎えに行っちゃるわ」
ということで、話はトントンと決まった。
太郎は、その日の午後もいつもと同じように、パソコン相手に原稿を書いたが、作家としての環境は、この数か月で劇的な変化を遂げようとしていた。
というのも、三か月前に草英社から発表した新作『都会で鳴く郭公』というミステリ小説が望外の好評を得て増刷を重ね、デビュー五作目にして初めて太郎は「本が売れる」という、エンタメ作家として何物にも代えがたい収穫を得たのである。
するとゲンキンなもので、それまでは何の連絡もなく、新人賞でデビューしたときパーティで名刺一枚を交換した程度だった編集者の何人かから小説連載の依頼が来た。
草英社の中山田洋は間髪を容れず太郎に続編を依頼してきて、いますでに『小説れもん』での新連載が始まっていた。この他にも、月刊の小説誌に二本、新たな連載を始める準備が着々と進んでおり、ここにきてようやく、太郎は、文芸界の一隅に居場所を見出した気分であった。
そんなわけで、午後の間中、中山田を担当編集者とする新作『暗黒で踊れ』の原稿を十枚ばかり書いた太郎は、午後六時ごろ、勘介の運転するクルマで居酒屋サンカクへと繰り出したのであった。
そこにはすでに宮原を中心とした消防団の面々が、七、八人集まっていた。
いつから吞んでいるのか、生ビールのジョッキがいくつか空になっており、地酒「ヤオロズ」の一升瓶がすでに封切られている。
「おお来てくれたか、勘介。太郎くんも。ありがとな。まあ、そこに座って。おい、サキちゃん。生ビール、大ジョッキでふたつ頼むわ」
実はサンカクには、大ジョッキも中ジョッキもないのだが、すぐに太郎たちの前にクリーミーな泡のビールが運ばれてきた。サンカクは、生ビールが美味い。ビール党の女将が、サーバーのホースを毎日掃除しているからである。
「ほんなら乾杯や」
コップ酒を掲げた宮原につられひと口ジョッキのビールを吞み込んだ太郎だが、
「ところで、何のための乾杯やの」
という勘介の質問にはまったくの同感であった。「また忘年会?」
実は忘年会はもう終わっている。先週、八百万ダムに近い料亭「青葉」で羽目を外し、あわや出禁を喰らいそうになった。
「いや、そうやない。今日は、出陣式や」
このときを待っていたとばかり、宮原が重々しくいった。
勘介がぽかんとして言葉を吞んだ。「出陣式……?」
勘介だけではない、太郎も、そして他の消防団の面々もまた怪訝な表情を浮かべて宮原を見ている。
すると、その全員のもの問いたげな視線を受け、宮原はおもむろに立ち上がった。立ち上がるついでに醬油の瓶をひっくり返したが、そんなことには目もくれず、
「みんな聞いてくれ。不肖この宮原郁夫、このたび町長選挙に立候補することにした」
まさかの発言に、今度は全員がひっくり返った。酒はこぼれるわ、ジョッキは倒れるわでてんやわんやの騒ぎになり、それがようやく一段落したところで、
「アホか、お前は」
冷ややかにいったのは、宮原と同年の山原賢作であった。「町長って柄か」
「あの信岡みたいなクソがやっとっやないか。俺ができんわけがない」
宮原は自信満々で言い放った。「俺は、この手でこのハヤブサを、いや八百万町を変えちゃるでな」
ひと筋の北風が吹き込んだときのように、シラッとした風が吹いたように太郎には思えた。もっともそれも一瞬のことで、
「どういうふうに変えるの」
勘介の無邪気さにかき消されてしまう。
「まず、町おこしや」
宮原はいった。
「どうやって」
冷静な口調で尋ねたのは、副分団長の森野洋輔である。森野は、八百万町役場の土木課に勤める男で、太郎の見たところ宮原よりも町政には詳しい。
「それは――これから考えるんやないか」
ガクッと来ることをいった宮原は、「あの信岡が何かしたか? 何もせんもんで、八百万はこんなことになっちまったんやないか」
「こんなこと、とは」
森野のツッコミを、「黙れ、森野」、暴言で制した宮原は、「とにかく、俺は出馬するでな。一旦、男が決めたことや。本気でやるぞ」、と恫喝まがいの宣言をした。「ついては、消防団で応援してもらいたい。頼むぞ、みんな」
有無をいわせぬ口調である。
「町長選って、いつなの」
太郎同様、さして政治に関心の無さそうな勘介が誰にともなくきいた。
「来年の一月やと思うけど」
応えた中西陽太は、消防団最年少で職業は大工だ。中西工務店の刺繡入りの上っ張りを着て、胸ポケットに三色ボールペンを挿している。
「アホか。お前なんかが勝てるわけねえやろ」
賢作が吐き捨てるようにいうと、
「なんやと。ほんならお前なら勝てるんか」
宮原が言い返した。
「そういうこといっとるんやないわ、アホ」
賢作は吐き捨てた。「だいたい、お前、政治のことなんか知らんやろが。お前が町長になれるんなら、そのヘンの子供でもなれるわ」
「なにっ」
ふたりは相変わらず、犬猿の仲である。
「だいたいお前、町のためとかいっとるけどな、そんなら町会議員から始めりゃええやないか。なんでいきなり町長なんや。結局のところ、お前の目的は信岡への当てつけなんやないんか?」
賢作の指摘はおそらく図星であっただろう。たちまちのうちに宮原の顔色が変わった。
「この野郎っ!」と宮原はすでに喧嘩腰である。それを、まあまあ、と他のメンバーが宥め賺し、半ば無駄とは知りつつも、出馬を思いとどまらせようと説得が始まった。
宮原が町長の椅子に座る図を太郎はまるで想像できなかったが、それはここにいる誰もが同感であったに違いない。
「ハヤブサ地区から町長を出そうと思わんのか、みんな」
どんと拳をテーブルに叩きつけ、宮原は全員を睨めた。「いっつも町長は八百万の奴ばっかや。たまにはハヤブサから出してもバチは当たらんやろ。郷土愛では、俺は誰にも負けん」
もうこれ以上、何をいっても無駄だ。
「勝手にせいや」
やがて賢作がそっぽを向き、「サキちゃん。これ、もう一杯」
いつのまにか空になった一升瓶を指さした。
そこに、猪鍋が運ばれてきた。
「俺が町長になったら、あのソーラーパネルを全部取っ払ってやるでな。それから――」
宮原の演説を聴きながら食す肉は、美味いはずなのに違う味がした。
「面倒くさいことになったなあ……」
隣で勘介がぼそりとつぶやくのが聞こえた。
「告示までひと月近くありますから」
何かの期待をそこに込め、これも小声で森野が耳打ちする。気まぐれな宮原のことだ。「やっぱりやめた」、と心変わりをしないとも限らない。
太郎もそれを願っていたが、残念ながら、そうはならないまま新たな年が幕を開けたのであった。
(続きは本誌でお楽しみください。)