プロローグ
聴衆の盛大な拍手を受けながら、彼女はゆっくりと舞台中央へと歩いていく。舞台中央で一礼をして、指揮台へと上がる。一段高い場所から、彼女は楽器隊を眺める。楽器隊を眺める彼女を、彼は舞台袖から見つめている。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、チェンバロ――。つまりはチェンバロ四重奏とも言うべき編成だった。
彼女はピアノと同じくらい、チェンバロの音色が好きだった。この原始的な撥弦鍵盤は、ピアノよりも軽やかで明朗な響きを持つ。
いつか彼女がスタジオで弾いた「きらきら星変奏曲」の旋律が、彼の脳裏をよぎる。第五変奏で旋律に不協和音が交じるとき、ピアノだとその小節は必要以上に不気味な響きを持つ。でもチェンバロならば、不協和音は子供のちょっとした悪戯のような可愛らしさを帯びる――。
彼女が指揮棒を振り上げる。
会場は一瞬の沈黙に浸される。
物音一つ聴こえず、聴衆すべての呼吸まで止まったと思えるほどの沈黙――。
楽曲の最初の小節は、チェンバロの和音から始まる。未だ何一つ音は響いてはいないが、彼の世界はすでに音楽で満たされている。
和音、調和、ハーモニー。
チェンバロの音色が会場内に響き渡り、彼女の創造した調和が聴衆を遍く包んでいく。
1
スーパー花井の事務室へ入ると、人のよさそうな丸顔の老女が、縮こまるように椅子に座っていた。その老女が、ちょうど自分の祖母と同じくらいの年齢だったので、春川遥は思わず足を止めた。遥に父はいないゆえ、母は仕事で家を留守にしがちだった。だから遥は、お婆ちゃん子に育ったのだ。
事務テーブルには、あんパンが一つと、みたらし団子のパックと、牛乳が置かれている。
「つまり合計二八〇円ですね」
エプロン姿の男性店長が、頭を搔きながら言う。
「いやね、僕だって、こんな金額で警察に通報なんてしたくないですよ。でも万引きは、全件通報するって社の決まりなもんですから」
遥は老女の向かいに座って、自分の祖母に尋ねるような口調で訊く。
「お婆ちゃん、どうして万引きなんてしたの?」
老女は俯いて、唇を一文字に結んで、何も言わなかった。その無言の抵抗が、遥には効いてしまう。このまま無罪放免で、家に帰してあげられたらどんなにいいだろう――。
でも、万引きは法的には窃盗罪だ。量刑で言えば、十年以下の懲役または五十万以下の罰金――、この人のよさそうなお婆ちゃんは、それだけの罪を犯したのだ。
「お婆ちゃん、正直に話してくれる? 正直に話してくれたら、警察署で簡単な取り調べをして、家に帰ることができる。でも正直に話してくれないなら、逮捕して勾留しないといけない。送検して裁判しないといけない。そんな大変なことにはなりたくないでしょう?」
すると老女は、おずおずと顔を上げてこちらを見て、ようやく口を開いた。
「娘には言わないでくれませんか」
弱点を突いてくるかの老女の抵抗に、遥は余計に頭を抱えるのだった。
結局、警察署での取り調べの末に、老女は観念して、自宅の電話番号と、万引きをした理由を述べた。節約のためについ盗んでしまった、老女は申しわけなさそうにもらした。でも老女の財布には、数千円の現金なら入っていた。
夕方過ぎに、同居している五十代の娘が、警察署に老女を迎えにきた。五十代の娘は、しきりに頭を下げては謝罪し、老女を車に乗せて家へと帰っていった。遥はスーパー花井の店長に、電話で経過を報告する。電話口で、店長は溜息をもらしつつ、
「でもお金があるのに、なんで万引きしたんですかねぇ」
遥もまた、分からないというふうに溜息を洩らす。店長は、おそらくは電話口の向こうで頭を搔いたのちに、
「やっぱり寂しかったんですかね?」
「でもあのお婆ちゃんは、一人暮らしではなく、家族と同居されてますよ」
「家族と同居していても、寂しさは募るものですよ」
寂しさではなく、節約のため、と老女は動機を語ったが、でもなんとなく、店長の言いぶんも分かる気がした。
その晩、遥は自身のデスクで万引き事件の書類作成を進めた。
関野警察署刑事課の所属になって、もうすぐ半年が過ぎる。関野市は関東平野のほぼ中央に位置する、郊外とも田舎とも言えるような町だ。市街地にはイオンがある。住宅地の近くのロードサイドにはカスミやベルクもある。でも市街地や住宅地から少し離れると、延々と田園風景が続いたりする。
遥はこの半年間で、関野市で発生した六件の万引き事件の処理をした。四件が高齢者で、二件が青少年だった。次の人事異動まで、自分はこの小さな町で、高齢者や少年少女の万引き事件の対応をしていくのだろうと思う。
いや、万引きだけじゃない。この半年の間に、食い逃げが一件あった。無賃乗車が一件あった。小学生に下半身を露出して逃げていく変質者がいた。いずれにせよこの土地で起こり得る犯罪は、その程度のものだった。
遥は掛時計で時刻を確認し、せっせとボールペンを走らせる。書類作成を終えたら、ファミレスに寄って帰ろう、十一時前に署を出れば、ラストオーダーに間に合うはずだ。目玉焼きハンバーグとコンソメスープのセットを頼もう、デザートに好物のプリンを頼んでもいいかもしれない、などと考えていると、空腹だった遥は腹が鳴った。
予定通り、十一時前に書類は完成した。あとは村木課長の確認を取って、今日の業務は終了だ。遥は書類を手に、席を立って背伸びをする。
と、フロアに通信指令室からのアナウンスが流れた。
一一〇番入電中――。
所轄内の緑町第三公園で、切断された女の頭部が見つかったという。
村木課長に急き立てられて、遥は捜査車両に乗り込んだ。捜査車両は赤色灯を明滅させて、サイレンを唸らせて現場へと急行した。
緑町第三公園は市内南西部に位置していて、遥も何度か巡回で付近を通ったことがあるが、市民の憩いの場という印象しかない。車両には、絶え間なくノイズ混じりの無線が入ってくる。
――緑町第三公園……噴水広場……若い女と思われる……死体遺棄事件か……。
ノイズ混じりの無線と、サイレンの音と、赤い点滅は、否応なく遥の心拍を速めていく。
「ちくしょう、悪戯電話じゃないのかよ、しかもよりにもよって今日かよ、明日は娘とディズニーランドへ行く約束をしているんだぜ!」
村木課長が苛立たしげにもらし、交差点で荒っぽくハンドルを回す。
「おまえ、死体見たことあるか?」
遥は無言で首を振る。
「刑事なんだから、現場で失神して鑑識に迷惑かけるなよ!」
公園沿いの道路には、すでに何台ものパトカーが停車していた。夜闇の中で、赤色灯が眩く点滅している。課長が勢いよくドアを開けて、車外へ飛び出していく。遥はダウンジャケットを羽織ると、課長に続いて公園入口へと駆けた。三月の夜気を顔に受けるが、不思議と冷たさは感じない。
やがて並木が開けて、前方に噴水広場が現れる。夜間は噴水が止まっているので、ただの人工的な小池だ。その池を大きく囲むようにして、蛍光色の規制テープが張られている。
遥は白手袋を嵌めて、規制テープの内側へと入る。噴水池の外堀の一角に、数人の鑑識が集まっていた。そして噴水池の石製の枠の上に、確かに人間の頭部が置かれている。
顔に外傷はなく、血痕はなく、それは人形の頭部に見えた。月明かりを斜に受けて、彼女の頰は陶器のようにつるりとしている。遥は軽い眩暈を覚えて、足元がふらついた。でも課長の言うように、刑事が死体を見て倒れるわけにはいかない。
と、隣で写真を撮っていた鑑識が、低い声で呻いた。カメラから顔を離すと、遥に向かって、
「これをやった犯人は、明らかに頭がイカれてるぜ」
「殺人をするくらいだから、まともではないでしょう」
遥が答えると、鑑識は無言でカメラをこちらへ差し出してきた。
「正面から写真を撮ってみろ」
遥は言われた通り、カメラのファインダーを覗き込んで、シャッターボタンを押そうとする。でも人差し指は、シャッターボタンを押せなかった。
ファインダーの中には、正円を描く噴水池がある。噴水と人間の顔が一直線上に並んでいるから、正面から写真を撮ろうとすると、左右対称の一枚の絵のように写る。
一枚の絵になるように、犯人はここへ人間の頭部を置いたのだ。
遥は再び眩暈を覚え、カメラを鑑識へ返した。
と、背後から男性警察官に声をかけられ、遥はびくりとして振り向く。
「第一発見者の女に話を聞いているんだが、どうも要領を得ない。すっかり怯えきっちまってる。こういうのは同じ女のほうが得意だろう」
遥は彼から聴取を引き継いだ。
第一発見者の重原里子は未だ膝下が小刻みに震えていて、頰には涙の白い痕が残っている。一方で足元では、ポメラニアンが尻尾を振っていた。
里子は近所のマンションに住む二十三歳の会社員で、犬の散歩中に公園へ立ち寄り、噴水池を時計回りに半周したところで、頭部を発見したという。
里子もやはり最初はマネキンか何かだと思ったらしい。誰かが悪戯で、マネキンの頭をここに置いたのだ。近づいてみると、よくできている。マネキンとは思えないほどに、よくできている。でも人間であるはずがない。
里子は屈み込んで、十センチの距離でマネキンを見た。頰には産毛が生えていて、細かな青白い血管が透けていた。マネキンは人間だった。悲鳴をあげて震える手でスマホを手に取り、一一〇番を押した。遥が関野署のデスクで聞いた、あの緊急通報だ。
遥はしゃがみ込んで、ポメラニアンの頭を撫でた。ポメラニアンは嬉しそうに口を半開きにして舌を出した。きっと飼い主に愛されているんだろう。
「この子、名前はなんていうの?」
「ハナっていいます」
「ハナは何歳?」
「一歳」
「まだ飼い始めて間もないのね」
「半年前に、ペットショップで購入したばかりです」
「わたしは子供のころから、柴犬を飼っているの。学校帰りに捨てられた子犬を拾ってきて、でもお母さんが飼うのを許してくれなくて。どこにでもある話ね。ちゃんと面倒をみるよ、番犬がいれば泥棒も逃げていくよ、そんなことを言って、ようやく飼うことを許してもらえたの」
「名前は?」
「きつね」
「犬なのに、きつねなんですか?」
「お婆ちゃんが、柴犬はきつねみたいだとか言って、きつねきつねって呼ぶうちに、そのまま名前がきつねになっちゃったの」
「柴犬ときつねは、ぜんぜん違いますよ」
「でもどっちも、毛色はきつね色だから」
それで里子は、くすりとだけ笑った。
「この公園は、ハナの散歩コースなの?」
「はい、噴水池を一周して帰るのがいつものコースなんです」
「公園内で、不審な人物は見ていない?」
「この時間帯は、公園内にいつも誰もいません。今日も誰もいませんでした。公園脇の街路に、特に不審な車両なども見かけませんでした」
「ありがとう、参考にするわ」
遥は愛用のスヌーピーの手帳に、聴取内容を書き留める。課長の下へ駆け寄り、聴取を終えて連絡先も聞いたから、重原里子は自宅へ帰してもいいか訊く。鑑識とやり取りしていた課長は、聴取したならかまわんとぶっきらぼうに答える。
「あとは周辺の地形を見ておけ、ただ散歩するわけじゃない、犯人ならどうするか、考えながら周辺を見ておけ!」
遥は里子を帰したのちに、課長に言われた通り、地形を見るべく公園周囲を歩いた。噴水池があるものの、それほど大きな公園ではない。芝生の広場があり、滑り台とブランコと砂場があり、所々にベンチが設置された、典型的な郊外の市民公園だ。
遥はブランコに腰かけて座板を軽く揺らしながら、課長の言う、犯人ならどうするかについて考えてみる。でも人殺しをして、首を切断するような人物の思考など、自分にはまるで理解できない。
芝生の広場には、時計塔がある。時刻はもう日を跨ごうとしていた。街路では、未だ捜査車両の赤色灯が夜闇の中で点滅している。
もう自分はファミレスでプリンを食べることはできない。課長は娘とのディズニーランドを棒に振るだろう。
遥はなぜか今ごろになって、スーパー花井の事務テーブルに置かれた、あんパンとみたらし団子と牛乳パックを思い出した。
あのお婆ちゃんの万引きの動機が分からなかったように、犯人がなぜこんなことをしたのか遥には見当もつかなかった。
(続きは本誌でお楽しみください。)