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――噓も百回言えば真実になる。
入社一年目の駆け出しADだったころ、先輩ディレクターから聞かされた言葉だ。
――三田。取材相手の言うことをいちいち真に受けるな。人は誰だって噓をつく。わざと噓をついているやつはまだいい。厄介なのは、本人にも噓をついている自覚がない場合だ。噓も百回言えば、真実になるんだよ。少なくとも当人にとってはな。
その先輩は、二徹した次の日にロケ先でぶっ倒れて会社を辞めた。いまはどうしているのか知らないが、健康でいてくれたらいいな、と思う。
午前二時。真夜中のフロアに響いているのは、キーボードを叩く音とマウスをクリックする音だけだった。同僚がいれば愚痴のひとつもこぼせるけれど、今夜はみんな日付が変わる前に帰ってしまった。金曜の夜くらいは早く帰りたいだろう。と言いつつ、自宅に仕事を持ち帰っている人も何人かいるに違いないけど。
パソコン作業で酷使した目が、悲鳴を上げていた。引き出しから愛用の目薬を取り出して、両目に一滴ずつくれてやる。
「染みるわ」
独り言が口から転げ出た。目薬をさしても一人。
新卒で業界に入った七年前、うちの会社は残業三昧だった。なんの申請もしなくても、いくらでも会社にいてよかった。寝袋で会社に寝泊まりする人もたくさんいたし、わたしもその一人だった。
でも、いまは事情が変わった。
残業は原則、午後十時まで。それ以降の残業には上長、わたしの場合は課長の書面での許可が必要になる……というのは建前で、実際はだいたい無許可で十時以降も残業して、翌日以降にまとめて書類を書いてもらう。課長のほうも、いちいち許可していたらキリがないから目をつぶっている。うちは社員証をカードリーダーに読みこませることで勤怠を管理していて、いったん午後十時前に社員証を切っておきさえすれば、データ上はその時刻に退社したことになる。
とはいえ、そういう規則ができた影響は大きかった。
新入社員に毛が生えたくらいの若い子たちは、だいたい「規則は守れと言われたんで」と言って、十時前には帰っていく。代表や取締役から口うるさく言われている管理職たちも、十時以降に残ることは稀だ。ただ、みんなが早く帰るようになっても、仕事の総量が減るわけじゃない。じゃあ、処理しきれなかった仕事は誰が処理するのか?
必然的に、二十代後半から三十代の実働隊がその任を負うことになる。なかでも、子どもがいない独り身には皺寄せが来やすい。要するに、わたしのような社員のことだ。
最近の代表は、社外との打ち合わせでしきりにこう言う。
――制作会社といえば激務、というイメージは過去のものですから。
おいおい。毎日〇時まで働いて、家庭のある人が避けたがるロケもガンガン行って、土日も出社しているわたしの存在を忘れてませんか。横から言ってやりたいけど、実際に声に出すことはない。口にして残業が減るなら、いくらでも言うけど。
そういえば、ぶっ倒れて辞めた先輩はこんな言葉も教えてくれた。
――賢者は朝早くから働き、愚者は夜遅くまで働く。
でも本当に愚かなのは、徹夜するやつだ。先輩やわたしみたいに。
正直、仕事漬けの毎日を送っていることに大きな不満はなかった。恋人はいないし、欲しいとも思わない。つくったところでほとんど相手はできないから、じきに破局するのは目に見えている。
ノートパソコンの液晶画面には、アドビプレミアプロの編集画面がうつっている。わたしがやっているのは、複数台のカメラで撮った映像、音声を合わせて一本にする作業だ。編集に入る前の下準備で、音声や映像のバーを積み重ねることから「段積み」と呼ばれている。
段積みは嫌いだ。というより、長時間のデスクワークが性に合わない。三時間も四時間もぶっ続けでパソコンと向き合って、マウスをカチカチやるために映像業界に入ったわけじゃない。カメラを持って街に飛び出させてくれ。そう思いながら、毎日のように薄暗いフロアでディスプレイとにらめっこしている。
段積みは、制作会社に入った人間が最初に覚える作業のひとつだ。ADになって数か月は、まともに段積みすらできなかった。段積みをミスするとどうなるか。映像と音声がずれる。結果、ディレクターにボコボコに怒られ、何度も半泣きで段積みをやり直した。おかげで段積みは上手くなった。けど、いまだに嫌いではある。
この作業だって、本来なら若い子に任せるべきなんだろう。でもADに頼むと、段積みが終わるのはたぶん二日後だ。この素材はさっさと編集に進めたい。となると、自分でやるしかない。
「カフェイン含有量が従来の1・5倍!」というふれこみのエナジードリンクを飲みながら、心のなかでカメラマンへの悪態をつく。
――複数台で撮るならフリーラン、って何回言ったらわかるんだよ。
撮影した素材には、一フレームごとにタイムコード(TC)が振られる。TCは映像の番地みたいなもので、それを基準にして段積みを行う。TCの進み方にはレックランとフリーランがあって、複数台で撮った時にレックランになっていると段積みは地獄と化す。各カメラの映像と音声を、いちいち手作業でつなぎあわせる必要があるのだ。いま編集している素材は一カメと二カメだからましだけど、三カメ、四カメまであってレックランだと技術班を呪いたくなる。
背後で執務フロアのドアを開ける音がした。振り返ると、吉沢さんがいた。白のTシャツに黒のデニムという出で立ちは、ほぼ年中同じだ。無造作な黒髪は、毛量が多すぎるせいかヘルメットのように盛り上がっている。手にはポリ袋を提げていた。社員証に印刷された「吉沢達」の文字は、かすれて半分読めなくなっている。
吉沢さんは、社歴でいえば三年先輩のディレクターだ。年齢は六つ上。大学を卒業した後、しばらくフリーターをやりながらバンド活動をしていたらしい。
「おはようございます」
「おう、三田。一人?」
「ですね」と答える声はかすれていた。愛用しているチープカシオの腕時計は、二時二十七分を示していた。
「吉沢さん、えらい早いっすね」
「これからロケ。機材とか取りに来た」
吉沢さんは自分のデスクをいじりながら、情報番組の名前を口にした。その番組には関東各地の朝市を取材するコーナーがあり、ロケの集合時間が異様に早いことで知られる。
「今日は茨城だからまだましだけど。はい、これ」
振り返ると、吉沢さんは右手をこちらに差し出していた。その手には、袋入りのドーナツが握られている。近くのコンビニのプライベートブランドで、一袋に四個入り。安くてたっぷりカロリーが取れることで、社員のあいだでは有名だった。
「えっ、わたしここにいるの知ってました?」
「知らないけど、誰かいるかなと思って」
「あざす」と礼を言ってドーナツを受け取る。流れるように口へ運ぶと、油っこい甘さが口のなかに広がる。疲労と空腹、深夜に食べる背徳感が合わさって、とてつもなく甘美だった。
「この時間に食べるドーナツが、いちばんうまいっすわ」
「三田って結構食う割に太らないよな」
吉沢さんの口から、デリカシーゼロの発言が飛び出した。
「基本、一日二食なんで」
「腹減らない?」
「別に。それに食事を抜くのも、時間節約術のうちですから」
「社畜だね」
カメラやマイクをバッグに詰めた吉沢さんは、「行ってきます」と言い残してフロアを後にした。わたしはまた一人に戻る。
「社畜ねぇ」
マウスをすばやく操作しながら、つい独り言がこぼれた。
表面上はそう見えるのだろう。家畜のように従順に業務をこなしているという点で、わたしは社畜以外の何者でもない。ただ実際のところ、会社のために、という意識はこれっぽっちもなかった。わたしが必死で仕事をやっているのは、わたしのため。はっきり言えば、キャリアのためだった。
首から下がった青いストラップつきの社員証には、「三田紗矢子」という氏名と、七年前に撮った顔写真、それに「株式会社牛尾プロダクション」という社名が記されている。
牛尾プロダクション、通称「ウシプロ」は、主にテレビ局向けの映像を手がける制作会社である。一口に制作会社と言っても、その内実はさまざまだ。ドラマばかり制作している会社もあるし、バラエティ番組に特化した会社もある。むしろ会社によって得意分野があるのが普通で、なんでもかんでもつくります、という制作会社があったとしても、局からの信頼は得られにくいだろう。
ウシプロは、情報番組や報道番組の制作を得意とすることで知られる。わたしが新卒でウシプロに入ったのも、それを踏まえてのことだった。つまり、会社そのものに魅力を感じたわけではなく、ドキュメンタリーが撮れる環境を探した結果として、ウシプロを志望しただけなのだ。
わたしは昭和のサラリーマンのように、この会社に骨を埋めるつもりはない。近いうちにディレクターとして独立すると決めていた。こうして深夜にせっせと段積みをしているのは実績づくりのため、いわば将来のためだ。たぶん、社員の半分くらいは同じようなことを考えているのではないか。事実、毎年のように誰かが退職してフリーになっている。
あらためて、社員証の顔写真をまじまじと見る。リクルートスーツを着た二十二歳のわたしは、顔がパンパンだった。前夜に飲みすぎたのか、単にいまより肌に張りがあったのか。入社前は、いまより健康的な生活だったのは間違いない。
肩の凝りを覚えて、手で揉んでみる。鉄板が入っているかのように硬い。二十代前半のころは、肩凝りなんて感じたことすらなかったのに。今年で三十になる身体は、徐々に、だが確実に衰えている。
「帰りてぇ」
思うと同時に、口が動いていた。お湯を溜めた浴槽に肩までつかって、風呂上がりに発泡酒を一気飲みして、そのまま熟睡したい。でも現実には、段積みの終わっていない素材が山と残っている。この調子だと、朝までかかるだろう。
あー、とうめきながらマウスを動かす。
――賢者は朝早くから働き、愚者は夜遅くまで働く。
朝まで働いたらある意味賢者だな、と意味のないなぐさめを思い浮かべた。
(続きは本誌でお楽しみください。)