薫りは視覚化できる。
それが特異なものであればあるほど。
薫りは熱を孕んでいる。静かな炎のようにゆらめき、龍のように尾をなびかせてただよう。そして、霧のように場を充たす。薫りを視ることは、肌で捉えることは、わたしの家では当たり前のことだった。
だから、それを目にした時、頭より早く体が理解していた。
骨が薫っていることを。
わたしの、たったひとりの妹の骨が。
骨に妹の面影はなく、灼けきった白い欠片にしか見えなかった。あちこち黄ばみ、煤をまとい、ひび割れたばらばらの欠片が、銀色の台車に敷かれた灰の上でかろうじて人型を保っている。
その無数の欠片のまわりで薫りがゆらめいていた。まるで生きているかのように。
部屋に足を踏み入れた親族たちは、一瞬、目をさまよわせ、けれどすぐに薫りの元を見定める。信じがたいという表情を浮かべ、それでも香気に抗えず、虫が花に誘われるように台車へ近づいていく。
喪服の一群が、黙したまま妹の骨をかこんだ。
がらんと無機質な部屋の一面には、エレベーターのような両開きの金属扉が並び、わたしたちが取りかこむ台車の前の扉だけが開いている。閉じた金属扉の向こうでは別の遺体が燃やされているのだろう。
目はここがどこであるか認めているのに、重く艶やかな色が頭の芯を侵していく。視界を歪ませるほどに圧倒的な、極彩色の香気。ゆらめく香気は台車から流れだし、うねりながらたち昇り、殺風景な部屋をゆるゆると満たしていく。
ああ、やはり、あの子は特別だった。
歓喜と悼みが薫りとないまぜになり色を深めていく。
「伽羅の奇気……」
しわがれた声が響いた。振り返ると、車椅子と一体化した祖父が皺だらけの唇をわななかせていた。祖父の言葉らしい言葉を耳にしたのは何年ぶりだろうか。
けれど、炉前に集まった親族の誰もが薫りに意識を奪われていた。あまりに若すぎる、と控室で泣いていた伯母の手から白いレースのハンカチが音もなく落ちたが、拾う者はいなかった。皆、惚けたような顔をしている。
違う、と胸のうちで祖父の言を断ずる。これは、骨だ。わたしの、妹の骨。伽羅の如く薫るのは、彼女が特別だったあかし。
火葬場のスタッフのひとりが、喪主である父に骨上げの箸を差しだした。
「さすがは瑞雲堂さま、素晴らしいお香ですね。このように芳しい仏様はわたくし共も初めてでございます」
父は身じろぎひとつしなかった。ぼんやりと虚空を見つめていた。薫りに呆然としていた親族たちがちらちらと父の様子を窺う。
父は誰とも目を合わせなかった。妹の骨にすら視線を落とさない。
黒服のスタッフが困惑した顔をわたしたちに向けてくる。親族は目を泳がせた。出棺時に経を唱えた坊主の袈裟に焚きしめられた香も、遺影の前で白い煙を吐いている線香も、わたしたちの喪服に浸み込んだ防虫香も、わたしたちの会社が作ったものだったが、この部屋に漂う香気とは比べものにならなかった。これは、人の手によって作れるような薫りではない。少なくとも、この場にいる者には無理だ。
「わたしが」と、台車に一歩近づき、父の代わりに長い箸を手に取る。「叔父さん、お願いします」
叔父に頭を下げると、親族がざわめきながら配置を変えた。
震える箸の先を白い骨にのばす。触れるか触れないかの距離で、骨が乾いた音をたててくずれた。香気がゆらりと色を深めた。
その瞬間、丹穂の髪が香った。濡れたような質感の、細く長い黒髪がするりと頰をかすめ、弓なりの眉が見えた。その下の、矢のような目がわたしを射抜く。
ゆらめきの中に、丹穂がいた。骨になったはずの妹が、白く笑っていた。頰から首へと皮膚があわだつ。薫りと感情の濁流に吞み込まれる。とめられない。
「真奈ちゃん」
誰かがわたしの名を呼んだ。無機質な部屋に意識が戻ってくる。
箸を持ちなおし、骨をつまむ。メレンゲの菓子のように軽い。
骨壺に骨が落ちる乾いた音が響き、また香気がゆらめいた。丹穂の笑い声が耳をかすめる。
丹穂だ、と思う。丹穂が薫っている。
わたしの妹は永遠になったのだ。
黒い水牛の印を朱肉に沈ませて、紙に垂直に捺す。
朝からもう何度目だろう。わたしの手にはやや重すぎる印のせいで手首が鈍く痛む。重厚な焦げ茶色の家具に埋めつくされた明治期の書斎のような社長室は薄暗く、捺し損じないように気をつけているだけで肩が凝ってくる。書面の文字も数字も頭の中をすべっていき、わたしがろくに内容を理解していないことは、立ったまま待っている経理部長もわかっている。わたしに求められているのは代表取締役社長の父の代わりに滞りなく印を捺すことだけだ。
香原料の販売や薫香の製造・販売を細々と続けてきた会社なので、革新的な経営転換や難しい判断が必要な状況は滅多にない。むしろ、昔からの慣習や顧客を守ることが優先される。
捺印した書類を渡すために立ちあがる。立って手をのばさなくては届かないほどデスクが大きい。受け取りかけた経理部長の手がかすかに泳いだ。「あ」と声がもれ、慌てて書類を引っ込める。
小箱に重ねられた和紙の切れ端を取り、まだ濡れた朱に押しあてる。父は包装ででた和紙の切れ端を捨てずにメモや吸い取り紙として使うことを推奨していた。父よりも年嵩の経理部長が「それでいい」とでもいうように、わずかに頷く。重箱の隅をつつくように父と同じやり方を求められるたび、胃の底がずんと重くなる。書類を手渡すと、彼は「ありがとうございます。お手数おかけしました」と白髪交じりの頭を下げた。言葉と礼だけは丁寧だ。
ドアが閉まり、思わずため息をついてしまう。古びたデスクチェアが軋んだ音をたてた。和紙の切れ端が二枚、足元に落ちているのが目に入る。急いで取ったせいだ。落ち着きのない仕草をすると父に嫌な顔をされたことを思いだす。さっきの経理部長は和紙が落ちたことに気づいただろうか。確か名前は浦田さんのはず。長く勤めてくれているのに、間違えていたらと不安で名前で呼べない。失敗を恐れるわたしが威厳を得ることはかなわないだろう。ずっと父の代わりをつとめることは不可能だ。
父はもう三ヶ月近くも会社に顔をだしていない。会社どころか、同じ家にいても会うことは稀だ。ずっと自室にひきこもっている。開発担当だった丹穂の代わりもおらず、新製品も作られていない。そろそろ限界なのではないだろうか。
また、ため息がもれた。朱肉で汚れた和紙を丸めて足元のゴミ箱に捨て、床に落ちた和紙を拾う。古びた床に指が触れて、重い湿気を感じた。和紙もいつもよりふにゃりとしている気がする。
ブラインドの隙間から外を見る。針のような雨がオフィスビルの並ぶ烏丸通を灰色に沈ませていた。
丹穂は雨が苦手だった。匂いが濃くなりすぎる、と言って。蒸れた人ごみなんて耐えられへんわ、と雨の日はバスや地下鉄に乗るのを嫌がった。たとえ音のない霧雨でも、降りはじめる前から、彼女は雨がやってくることを嗅ぎつけることができた。
そして、母も。母が玄関で傘を渡してくる日は、下校までに必ず雨が降った。丹穂は渡される前に傘を手にしていた。だから、赤いランドセルに似合うキティちゃんの傘はいつも丹穂が取り、わたしは交通安全用の黄色い傘を手渡された。姉だからと我慢を強いられたことはないけれど、欲しいものはいつだって妹の手の中にあった。
通りを行き交う車を眺めながら昔のことを思いだしていると、ドアが二回ノックされた。間隔の短い尖った音だったので、何回か声をかけられていたのかもしれない。「は、はい」と声がうわずる。
すぐにドアが開いた。秘書の小南さんが体を半分だけ覗かせた。「失礼します」と標準語の早口で言う。我が社で唯一の秘書なのに、事務の女性たちと同じ紺色の制服をきっちり着ている。受付の女性たちのようにスカーフを巻いたり、アクセサリーをつけたりもせず、自社の香の薫り以外をただよわすこともない。
「調合体験の方々がお見えです。お通ししてよろしいでしょうか」
はっと壁の古時計を見る。針は出勤した時と同じ八時五分を指し、振り子は止まっている。わたしの目線を追って小南さんがつけつけと言う。
「あの時計はゼンマイ式です。一日一回、巻かなくてはいけません。社長は始業前に巻くのが日課でした。明日からは私が致しましょうか」
引き出しから携帯電話をだす。調合体験の時間まで五分を切っていた。個室で携帯電話を出したままにしていますと仕事中に私信をしていると思われても文句は言えませんよ、と朝一番に小南さんに注意されたのでしまったままだった。
「あ、いえ、わたしが巻きます……」
後で、壁掛け時計のゼンマイの巻き方を調べなくてはいけない、と思いながら携帯電話の画面を見ると、着信が十五件も入っている。留守番電話も一件。番号に心当たりがなく、かけなおすのが怖い。いや、その前に調合体験の用意をしなくては。
「お忙しそうだったので、準備は致しました。こちらが本日の刻み香料になります」
記された九つの香原料名に目を走らせる。これなら説明できる。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げて部屋を出ようとすると、「社長の印鑑は金庫に保管しておいてください」とぴしゃりと言われた。戻って、へどもどと謝りながら、デスクの上に放置していた黒い印をケースにしまう。こういう時、わたしは目を合わすことができなくなる。怯えて、ミスにミスを重ねてしまう。
子供の頃からずっとそうだった。そんなわたしに父は失望を隠さず、年子の妹は憐れみの眼差しを向けてきた。母はどんな顔をしていただろう。あまりに昔のことで、よく思いだせない。
(続きは本誌でお楽しみください。)