プロローグ
M警察署のロビー正面には、『警務課住民相談係』の窓口があった。右側には『犯罪被害者相談所』『犯罪被害者支援キャンペーン』ののぼりがあり、長テーブルとパイプ椅子が並んでいる。
虹ヶ谷礼太郎は、ここまでの事態になるとは思わず、ただ驚きと共にその光景を眺めていた。
今、M警察署にはキャパシティを超える人々が詰めかけていた。老若男女、年齢、性別は様々だ。一様に、心配そうな表情や不安に押し潰された表情を浮かべている。
「まだかよ!」
「早くしてよ!」
壁に貼られた交通安全や痴漢撲滅を謳ったポスターも見えなくなるほどの人々が怒声を上げていた。原因不明の感染症が蔓延するパンデミック映画を彷彿とさせる光景だった。パニックに駆られた市民が押し寄せる病院は、まさにこのような感じだろう。冷房が効いている署内も、今や熱気が籠もり、灼熱地獄の様相を呈している。
あふれ返る集団に対応する警察官たちは、誰もが右往左往していた。
「落ち着いてください、皆さん!」
「順番にお願いいたします!」
「お話はきちんと伺いますから!」
一般市民たちは列を成したりはせず、無秩序に散らばり、各窓口も無視していた。『落とし物窓口』や『免許受付窓口』に群がっている集団もいた。
「話を聞いてくれよ!」
「同じ警察だろ!」
警察官が「向こうでお待ちください」と訴えても聞く耳は持たず、金切り声を上げている。
受付の前に立っている女性は、襟ぐりが大きく開いたシャツとミニスカート姿だった。お洒落な服装とは対照的に、切迫した形相をしている。
「警護してよ! こっちは税金を払ってんだから! 私が殺されてもいいって言うの!」
真後ろで順番を待っている細面の青年が舌打ちした。開襟シャツから覗く胸元に、蛇のタトゥーが見え隠れしている。
「キャンキャンキャンキャン、うるせえな。頭痛くなる。さっさと順番替われよ」
振り向いた女性が怒鳴り返した。
「離れてよ! 私に近づかないで!」
「はあ? 誰もお前を殺したりしねえよ」
「誰かは殺すのよ!」
隣の窓口では、若い女性が泣きわめいていた。黒髪で顔立ちも整っており、清純派女優のような雰囲気を醸し出している。夏に相応しい涼しげな水色のワンピースだ。
「どうして私が……私が殺されなきゃいけないの……。私が何をしたっていうんですか!」
年配の警察官が「どうか落ち着いてください」と必死でなだめていた。
ロビーの中央では、男二人が小競り合いをはじめていた。眼鏡の奥の眼光が鋭い男と、頭髪が薄い男だ。
「押すなよ、お前!」
「そっちが足を踏んだんだろ!」
「こんな人込みじゃ、仕方ないだろ!」
「俺の台詞だ!」
誰の顔にも不安と恐怖が滲み出ている。一部の人々は手に持った書類やスマートフォンをいじっていた。
虹ヶ谷は下唇を嚙み、拳を握り締めた。
早く〝奴〟を捕まえなければ――。
この事態は警察の不甲斐なさが原因だ。全て後手に回り、いまだ〝奴〟の尻尾すら摑めていない。
虹ヶ谷は玄関のガラス戸に目をやった。M警察署の前に陣取ったメディア関係者たちが建物に目を向けている。リポーターらしき男性がマイクを握り締めているのが見えた。
〝事件〟の性質を考えれば、生放送ではなく、一般市民の顔にモザイクも入るだろう。
それにしても――。
マスコミは面白がっているとしか思えなかった。連日のワイドショーの報じ方や演出を見れば分かる。
「何よそ見してんの!」
女性の怒声が鼓膜を打ち、虹ヶ谷は顔を向けた。茶色の巻き髪の女性は、ラメ入りのシールが貼られたピンクのスマートフォンを握り締め、苛立った表情で突っ立っていた。
「申しわけありません。ご用件は?」
答えが分かっていながらも訊いた。
「説明いる?」
「事情は人それぞれ違いますから」
女性はネイルが塗られているにもかかわらず爪を嚙み、絶望が刻まれた深刻な顔でスマートフォンの画面を突きつけた。
「SNSで『死ね』って書かれたのよ!」
1
岩崎拓也は、1LDKの部屋に所狭しと山積みになった段ボール箱を見つめた。
「おーい、ちゃっちゃと働けよ!」
玄関から先輩の怒鳴り声が聞こえ、拓也は「は、はい!」と肩をすくませた。
一個の段ボール箱を抱え上げ、玄関へ向かう。
紺の作業服の上からでも筋肉質の体軀が分かる先輩が立ちふさがり、「おい!」と声を荒らげた。
「な、何でしょう」
彼は二十代半ばで、自分より何歳か年下だが、職場では先輩なので常日ごろから居丈高な態度をとる。
「一個ずつって舐めてんの? お前、サボってんのかよ。二個纏めて運べよ!」
「す、すみません!」
拓也は玄関脇に段ボール箱を置き、慌ててリビングへ駆け戻った。抱え上げようとした段ボール箱はずっしりと重く、腰が悲鳴を上げた。鉄アレイでも詰め込まれているかのようだ。ラベルを見ると、『本』と書かれていた。
重いはずだ。
拓也は諦めて隣の段ボール箱を選んだ。ラベルには『衣料』と書かれており、かなり軽かった。
――これなら持てる。
段ボール箱を抱え上げ、玄関へ戻った。置いてある箱と二段重ねにする。視界が遮られ、ろくに前が見えなくなる。
苦労しながら靴を履いてマンションの廊下へ出たとき、拓也はよろめいた。あっ、と思ったときには、上の段ボール箱が滑りはじめた。慌てて持ち直そうとしたことが裏目に出て、支えを失った下の箱が地面に落ち、それを受け止めようとしたせいで上の箱も落としてしまう、という失態を犯した。
――しまった。
ひざまずいて歯嚙みした瞬間、視界に人影が被さった。恐る恐る顔を上げた先には、先輩が仁王立ちになっていた。
「何してんだよ、お前。お客さんの荷物落とすとか、マジありえねえ。会社の賠償問題になるんだぞ」
眉間に皺が刻まれた鬼の形相だが、廊下という共用のスペースで人目を気にしたからか、押し殺したような声だった。それでも充分怒りは伝わってくる。
「すみません。前が見えなくて、つい……」
「はあ? 遠回しに俺のせいにしてんの、それ?」
「いえ、そんなつもりは――」
拓也は『生活用品』のラベルが貼られた段ボール箱を取り上げ、立ち上がろうとした。
「自分がひ弱で役立たずだからってなあ、それを――」
激昂の気配が高まった瞬間、軽い靴音が近づいてきて、先輩が振り返った。
廊下の先から近づいてきたのは、若い女性だった。薄いブルーの綿のシャツに、緑のミニスカート姿だ。素足にサンダルを履いており、太ももやふくらはぎの肌がまぶしい。
彼女が『オオクマ引越センター』に依頼してきたのは急で、荷造りも完全には終わっていなかった。
彼女は地面に落ちている段ボール箱を目に留めるなり、不快そうに眉を顰めた。
先輩が慌てたように言った。
「申しわけありません、お客様! 言いわけにならないのは重々承知ですが、彼はバイトで、まだ日が浅く……」
先ほどまでの態度とは一変し、先輩は好青年の皮を被って頭を下げた。
「任せた俺の責任です!」
彼女は呆れ顔でかぶりを振った。
「本当に申しわけありません!」
先輩が何度も頭を下げる姿を見て、拓也ははっとして立ち上がり、段ボール箱を抱えたまま謝った。箱が邪魔になり、頭だけを軽く動かす謝罪になってしまった。
謝るなら段ボール箱を置いてからにするべきだった、と気づいたときには後の祭りだった。
拓也は彼女の冷ややかな一瞥を浴び、居心地の悪さを覚えた。思わず視線を逸らしたことで、態度も悪いスタッフだと誤解されたかもしれない。
そんなつもりはないのに――。
拓也は奥歯を嚙み締めた。
「じゃあ、私は残った荷物を纏めてきますから」
彼女は露骨なため息を漏らし、拓也の横を素通りした。マンションの部屋へ姿を消す。
突然、頭に弾けるような衝撃があり、拓也は顔を向けた。先輩に帽子ではたかれたのだと分かった。
「愚図! 迷惑かけんなよ!」
拓也は「すみません……」と頭を下げた。
頭上に小馬鹿にするような声が降ってきた。
「お前、ずっと引きこもってたんだろ。これだから社会を舐めた奴は困るんだよな。責任感も皆無だしよ」
拓也は屈辱を嚙み締め、段ボール箱を摑む手に力を込めた。重さのせいではなく、腕がぶるぶると震えていた。
「さっさと荷物運べよ」
拓也は「はい……」とうなずき、段ボール箱を重ねて持ち上げた。箱の横から顔を差し出し、辛うじて視野を確保する。今度は落とさないよう、慎重に運んだ。
階段では細心の注意を払った。
一階まで下りると、会社のトラック――『オオクマ引越センター』のロゴと青色の熊のイラストが描かれている――の荷台に段ボール箱を積み込んだ。
ふう、と息を吐き、額の汗を拭う。早くも作業服の下のシャツはびしょびしょで、肌に張りついているのが分かる。真夏の引っ越し作業は地獄だ。
ひと休みしていたら、先輩に𠮟責される。
拓也は気合いを入れ直し、二階の部屋へ戻った。先輩は木製の本棚を抱え上げていた。これくらいは働けよ、と言いたげな一瞥を向けてから廊下へ消える。
彼女の姿は見当たらない。ドアの向こう側から物音が聞こえるので、寝室にいるのだろう。
拓也は次の段ボール箱――比較的軽いものを選び、二段重ねにして運び出した。
汗だくになりながら、一時間、作業を続けた。『化粧品』とラベルが貼られた段ボール箱を抱え、トラックへ。
息を乱しながら部屋へ戻ったとき、彼女はキッチンでコップに口をつけていた。
拓也は喉の渇きを覚えた。ごくり、と喉が鳴る。
飲み物の一つでも出してくれたら――。
そんなことを思いながら、先輩と入れ違いで寝室に入った。今は奥にベッドと机とタンスが鎮座しているのみで、がらんとしている。
自分の人生のようだ――。
ふとそんなことを思った。
拓也は自嘲の薄笑いをこぼし、他に残っているものがないか、チェックした。
ベッドに近づき、壁との隙間を覗き込んだ。タオルかハンカチか、布製品が落ちているのが見えた。
隙間に落としたまま気づかなかったのだろう。
腕を差し入れ、取り出した。
「あっ――」
思わず声が漏れた。
ベッドと壁の隙間に落ちていたもの――それはレースが施されたピンク色のショーツだった。
動揺してショーツをベッドに放り投げた。
こんなところを見られたら――。
拓也は後方を振り返り、ドアが開けっぱなしの出入り口を見やってから下着に目を戻した。
変質者として扱われかねない。
どうしよう、と思ったとき、ピコンッと電子音が耳に入り、拓也は驚いた。
ズボンの尻ポケットにしまっている自分のスマートフォンだと気づき、慌てて取り出した。
――今日のリアルだ。
(続きは本誌でお楽しみください。)