序章 二〇二四年 春


 会場の入口に茶碗が一つ、むき出しで飾られている。
 ひどく歪んだ紫蘇色の茶碗は無造作に台の上に置かれていて、「ドゥムカ 深田天河」と銘が記されていた。ドゥムカというのはスラヴ、ウクライナ地方の民謡だ。哀歌と訳されることもあるが、本来は思索、瞑想といった抽象的な意味の言葉だ。
 僕は茶碗の位置をほんの数ミリ左にずらすと、後ろに下がって全体を眺めた。照明の当たり具合や影の落ち方、台座とのバランスを確認する。これできちんと台座の中央に置かれているだろうか。いや、今度は左に寄りすぎたように見える。しばらく悩んだ挙げ句、器の位置を元に戻した。
 先程から同じことばかり繰り返している。どうやっても「ドゥムカ」が台座の上でしっくりこないように思えるのだ。
「城、いつまでやってるん」
 香月が呆れた顔をしたが、眼は笑っている。ひとつ深呼吸をして肩の力を抜いてから、すこし大げさに言い返した。
「香月だって落ち着かん。パネルの前を行ったり来たりして」
「それはそう」
 香月が真っ赤な髪をかき上げ、くすっと笑った。思わずどきりとした。照明を反射して髪から火花が散ったようだった。以前は顎より上の短いボブだったがこの三年でかなり伸びた。
「難しいな。『ドゥムカ』は僕の器じゃないし。責任重大」
 自分で焼いた器なら自分の責任で展示できる。どれだけ中心からずれていようと、どれだけ照明で不自然な影ができようと、それは展示した本人の責任だ。だが、この「ドゥムカ」は違う。これは父の器だ。僕の展示のやりかたがまずくて「ドゥムカ」が不格好に見えたとしても、父はやり直すこともできないし文句を言うこともできない。
 明日はいよいよ「深田城 深田香月 合同作品展」の初日だ。仰々しいオープニングイベントはしなかったから、明日が文字通りの初日だ。
「香月、音楽流してみて」
 会場にごく静かに美しい旋律が流れ出した。とっくに日常の一部になった曲なのに、今でも出だしの哀しいヴァイオリンの音に胸が締め付けられるような気がする。
 ドヴォルザーク「スラヴ舞曲集第二集第二番ホ短調 ドゥムカ」だ。どうしてもこの曲を使いたくてわざわざ申請して許可まで取った。クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団、アンチェル指揮ベルリン放送交響楽団、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏で順繰りに流す予定だ。六分弱の短い曲なのでリピートが耳につかないよう三分のインターバルを取ってある。
 クーベリック版の音量は問題なしだ。戻ってきた香月と黙ってうなずき合い、それからしばらく二人で曲の続きを聴いていた。
 曲が終わると、香月が眼を伏せて小さく笑った。 
「お義父さんのテーマ曲だね」
「ああ。テーマ曲がある陶芸家って珍しいよな。……ってか他にいるんか。そんな人」
 三分のインターバルが終わり今度はアンチェル版が流れ出した。
 昔、父が教えてくれた。
 ――この曲は休符からはじまる。
 以来、僕は聞こえない休符を聴くようにしている。見えない海を見るようにするのと同じだ。
 やがて、曲調が変わった。この曲は中間部でハ長調に転調し、柔らかで晴れやかなメロディになる。そして、また最初の哀しい旋律に戻って終わるのだ。
「さっき、昔の事務所の先輩に嫌み言われた。……女はいいよな。結婚しただけで芸術エリートになれるんだから、夫ガチャ成功だな、って。わざわざ前日に電話してきてケチつけるんだから」
 芸術エリートと言われても仕方ない。祖父は人間国宝の深田路傍。父は轆轤の名手である深田天河。そんな僕と結婚した香月は妻というだけでその恩恵を受けている、と。
「はは。香月が夫ガチャ成功なら、そもそも僕は親ガチャ成功じゃ」
「だから、夫に感謝してまーす、って言うといた」
「すごい。大人じゃな」
「大人になったのは城でしょ? ほんまに変わった」
「もう三十になったからな。でも、もっと変わろうと思うとる。加害者になろうと思っとんじゃ」
「……え?」
「加害者になるんじゃ。でも、安心して。犯罪者にはならんから」
 香月は当惑していたが、はっと気付いてスマホを見た。慌てて上着を羽織る。
「灯のお迎えの時間。ちょっと行ってくるわ」
「うん。気を付けて」
 香月を見送って展示室を一回りした。なんだか足が震えておぼつかない。これは武者震いだろうか。落ち着け、落ち着け、と深呼吸を繰り返しているとスマホが鳴った。見ると兵藤さんだ。
「城君。今、大丈夫か?」
「はい。お久しぶりです」
「いよいよ明日だな。きっと君は緊張してるだろうな」
 やかましくてよく聞こえない。電話の向こうでは風がごうごう吹いて、何人もの人が叫んでいる。一体どんな撮影現場なのだろうか、とおかしく思いながら声を張り上げた。
「ええ。落ち着きません」
「明日は必ず行くから。会場、伊部駅だっけ?」
「ええ、駅直結の備前焼伝統産業会館の三階です。でも、現場が大変なんじゃないですか。無理されんでいいですよ」
「なに言ってるんだ。僕は楽しみにしてるんだよ。久しぶりの伊部、久しぶりの備前焼だからな。それに初日の緊張と興奮を撮らないでどうする? こんなイベントを無視するバカはいないよ。こっちの撮影片付けてなんとか明日にはそっちに行くよ」
 まくし立てるだけまくし立てて、じゃあな、と切れた。スマホをポケットに収めて気付いた。足の震えが止まっている。兵藤さんの嵐のような電話が緊張を解してくれたのだ。
 そこへ、灯を連れて香月が戻ってきた。
 灯は先週三歳になったばかりですこし人見知りがある。はじめての場所が不安なのか、ぴったり香月にくっついていたが、抱き上げるとほっとしたようにしがみついた。
「灯、今日は保育園でなにしたん?」
「ねんどとピアノ」
 得意げに報告する。上気した頰がまるで桃のようだった。
「面白かった?」
「おもしろかった。いっぱい」
「そうか、よかったな」
 床に下ろすと、しばらくきょろきょろとあたりを見回していたが、ふいに大きな声を上げた。
「じゅんかー」
 灯は入口に向かって駆け出した。突然のことで僕も香月も止めることができなかった。
「あ、待って、灯」
 慌てて後を追った。
「じゅぶか」
 灯は父の茶碗に駆け寄ると手を伸ばした。どうやらドゥムカと言っているようだが、舌足らずで言うたびに違う言葉に聞こえる。
「じゅむかー」
 灯がドゥムカに触れようとした瞬間、後ろから抱き上げて引き離した。
「こら、灯。おえん。触んな」
「いや、いや。じゅむか、さわるー」
 足をバタバタさせて暴れる。日頃から聞き分けがよくてイヤイヤを言わない子なのに一体どうしたのだろう。
「おえん。それはじいじの大切な茶碗じゃ。おもちゃじゃねえ」
「いや、いや」
 灯が興奮して激しく身体をくねらせた。また勝手に走り出したり、展示物に触れたりしたら大変だ。一度気分転換をさせたほうがいい。
「ちょっとその辺散歩してくる」
 灯を抱いて外に出ようとすると、香月に呼び止められた。
「ねえ、その茶碗、触らせてやったら? 落としたくらいじゃ割れんでしょ」
 一二〇〇度の高温で十日ほども焼き締める備前焼は非常に堅牢で、多少乱暴に扱っても割れたりしない。もし、灯が落としたとしても問題ないのは確かだ。だが、これは父の遺作だ。
「お義父さんだって喜ぶかもよ。だって、生きてる間に会えんかった孫が自分の茶碗に触りたい、って言うてるんでしょ。私なら絶対に嬉しい」
 香月の言葉が胸に刺さった。最期の茶碗と言って特別扱いをすることは、父の茶碗をみんなから遠ざけ壁を作るということではないか。それは畢竟、自分がまだうまく父との関係を受け止められていないからではないか。
 灯を床に下ろして「ドゥムカ」を渡した。
「灯、それはじいじが作った茶碗じゃ」
 灯は「ドゥムカ」をぎゅっと抱きしめていたが、やがて顔を上げて嬉しそうに笑った。
「てんじょうのおんがく」 
 雷に打たれたような気がした。僕も香月も絶句して、呆然と「ドゥムカ」を抱きしめる灯を見ていた。
「スラヴ舞曲集第二集第二番ホ短調 ドゥムカ」。今、流れているのはジョージ・セルの指揮だ。
 ――天上の音楽だ。
 父はいつもこの曲を聴きながら土を練り、轆轤を挽いていた。窯焚きのときでさえ、焚口から襲う熱気で焼かれながら聴いていた。父の顔は汗が滴り熱で真っ赤になっていたが、それでもどこかひんやりとして見えた。薄暗い密やかな影が射す。黒でも白でもない。灰色がかった青。青備前の色だ。
「てんじょうのおんがく」
 茶碗を両手に捧げ持ち、頰を紅潮させて繰り返す。天上の音楽という言葉を一体どこで憶えたのだろう。灯が父の言葉を知っているはずがない。灯にとって深田天河は写真の中の「じいじ」のはずだ。
「もしかしたら、灯はお義父さんの生まれ変わり?」
 香月の顔からは血の気が引いているように見えた。
「はは。考えすぎじゃ」
 バカバカしいと思いながらも、心のどこかで否定しきれない。灯の前に膝を突き、目線の高さを合わせた。
「まさか、父さんなんか?」
 灯はきょとんとした顔でこちらを見返した。
「灯、おまえ、父さんの生まれ変わりなんか?」
 灯は黙っている。質問の意味がわからないようだ。もう一度訊ねた。
「なあ、あんた、父さんなんか? 深田天河なんか?」
 灯はしばらく困った顔をしていたが、やがて左手で茶碗を胸に押しつけるようにして持つと、右手の指を三本立てて教えられたとおりの言葉を口にした。
「ふかだとう、さんさい」
 その言葉を聞いた途端、香月がほっと安堵の息を吐いた。
「城がお義父さんの言葉を無意識に口にして、それを灯が憶えてたのかもね」
「ああ、じゃろうな」
 ほっとして思わず笑ってしまった。笑われたことが心外だったのか、灯はすこし怒ったような泣き出しそうな顔をした。
「ごめん、ごめん。パパが悪かった」
 灯の頭を撫でて「ドゥムカ」を受け取った。元の陳列台に戻そうとして、すこし迷ってから今度は無造作に真ん中に置いた。そうだ。たとえこれが父の末期の水を取った茶碗だとしても、これくらい適当なほうがいい。
 もう一度、灯と手をつなごうとして気付いた。灯がじっと僕の顔を見上げている。
「てんじょうのひは……せんさんびゃくど」
 たどたどしい口調だったが表情は真剣そのものだ。その眼は黒々と深く輝いて、ふいに吸い込まれそうになった。まるで真夜中の窯のようだ。濃い闇が落ちて静まりかえった夜、ごうごうと音を立てて燃える窯だ。窯の中では炎が渦を巻き、器が真っ赤に焼けている。祖父から父へ、父から僕へ、そして僕から灯へとつながっていく、燃えたぎる天上の火だ。


 ――天上の火は一三〇〇度。地上の火を軽々と超えていく。


 父、深田天河の遺した言葉だ。
「ああ。灯。おまえの言うとおりじゃ。天上の火は一三〇〇度じゃ」
 灯を抱き上げた。三歳になったばかりの息子は小さな手足をばたつかせ、弾けるように笑った。


第一章 窯の町


 帰りの挨拶が終わるやいなや、僕は教室を飛び出した。
 階段を駆け下りて大急ぎで靴を履き替えると、思い切り駆け出す。背中でランドセルが弾んでガチャガチャ鳴った。
 今日は久しぶりにお茶の稽古の日だ。家には茶室があって、毎週、岡山市からこの伊部の町までわざわざお師匠さんが来てくれる。小学校に上がったときからお祖父ちゃんとお父さんと三人で一緒に稽古をしているけれど、全然上手くなった気がしない。六年生になった今でも失敗ばかりだし、毎回の稽古が面倒で逃げ出したくなるときもあるほどだ。
 校門を出たところで、後ろからやっぱりガチャガチャという音が聞こえてきた。振り向くと、先月の下旬に転校してきたばかりの浜本香月だった。
「……あの、さっき、落としたから……」
 息を切らしながら差し出したのは、昼休みに友達から借りたゲームの攻略本だった。
「あっ、落としたんか。全然気付かんかった。ありがとう」
 礼を言うと、浜本さんが大きく息をついてほっとした顔をした。
「よかった。追いつけないかと思った」
「ごめん。急いどった。今日はお茶のお師匠さんが来るから。あと、テレビのロケも」
「え、え? まさか深田君って芸能人?」
 浜本さんが驚いてまじまじと見た。
 ああ、そうか。浜本さんは伊部に来たばかりだから僕の家のことを知らないのだ。
「うちは窯元なんじゃ。天上火窯。お祖父ちゃんが人間国宝じゃから取材はしょっちゅうじゃし、旅番組だってロケに来るんよ」
「人間国宝? じゃあ、深田君もテレビに出ちゃったりするの?」
 浜本さんが大きな声を上げ、大きな眼をさらに大きくした。
「まあね」
「えー、すごいじゃん……」
 浜本さんがはっと口をつぐんだ。一瞬で強張って怯えたような顔になる。その差にずきりと胸が痛んだ。
 実は、浜本さんはあまり喋らず、クラスに馴染めていない。その理由は転校初日に東京弁で喋ってからかわれたからだ。別にイジメではなかったけれど、スタートでつまずいたふうになってしまっていた。そもそも六年生になってからの転校はキツい。しかも、今はゴールデンウィーク明けだ。せめて、四月の始業式からだったらマシだったろう。
「いいよ、東京弁で。うちは東京から仕事や取材の人がたくさん来るから気にしないよ」
 浜本さんに合わせてちょっとだけ東京弁っぽく喋ってみた。
「……ほんと?」
「ほんとほんと。そんなの全然気にすることないよ」
「よかったー」
 大きな息を吐いて何度もうなずくのを見ると、じわっと胸が熱くなった。
 浜本さんはすこし迷っているようだったが、恐る恐るといった感じで話しはじめた。
「伊部の人はね、みんな、ナニナニじゃ、ナントカじゃ、って言うでしょ? それがちょっとだけ怖く聞こえるときがあって。でも、深田君の『じゃ』は怖くない。すごく優しく聞こえる」
 普段から「じゃ」なんて意識したことがないので驚いた。それに、優しいと言われても自分ではよくわからない。
「でも、それはお互い様。東京弁が怖く聞こえる人もいるし」
「そっか。そうだね。たしかにお互い様だよね」
 浜本さんがえへへ、と恥ずかしそうに笑った。すこしどきっとした。
「浜本さんも急ぎ?」
「うん。お店の手伝い。お祖母ちゃん、ずっと腰が悪くて。バイトの人もいるけど毎日は無理で」
 浜本さんの家は不老川沿いにある喫茶お食事処「ふろう」だ。平日は地元民専用で土日だけ観光客が来る程度の店だが、年に一度、十月に行われる備前焼まつりでは大忙しになる。伊部の飲食店のお約束で器はすべて備前焼だ。
「それよりロケってどういうの? 芸能人も来る? もしかしたらORANGE RANGEとか?」
 冗談めかして言う浜本さんのほっぺたは綺麗な桃色で、眼がきらきら輝いている。学校で見ているときとはまるで別人だ。
「そんなの来ん来ん。アザラシみたいな監督さんとスタッフだけ」
 やっぱり東京弁は無理みたいだ。いつもの言葉で喋ることにした。

(続きは本誌でお楽しみください。)