あるはずのものが、なかった。

　誰にも盗られないように、俺だけが知っている場所に隠していた金がなかった。数ヶ月前からコツコツ働いて稼いだもので、合計八万円になる。高校生にしては大金で、全ては嫌気が差す父親から距離を置く事だけをモチベーションに貯めた八万円だった。福沢諭吉が八人じゃない。手渡しで貰った夏目漱石が二、三十人以上重なって初めての八万円だ。

　懸命に探したけど、思い当たるどの場所にも小銭一つすら落ちていない。古く脃い畳の裏を捲ったとしても、空の封筒すら見つからなかった。嫌な予感がした。外で落とした可能性は極めて低い。そして昨日まであった物が跡形もなく消えたのと同時に、無職の父親がこの家のどこにも居ないことを思うと、動揺して、もうそれだろう、としか考えられなかった。

　電話が鳴る。その音に一瞬冷静さを取り戻したものの、電話の相手が警察を名乗ったことで、再び心は搔き乱される。

「はい、えっと……その……」

　用件を聞くやいなや、手に力が入った。雪が降るこんな時期に、泥酔した父親が交番で保護されたらしい。だから息子のお前が引き取りに来いと言われた。握っていた受話器が震えるほどに怒りを覚える。

　迎えになんて行きたくない。警察、法律、云々ではなく、無視すればそれまでの話だ。薄情だと言われようとも、泥酔した父親を連れて帰る恥と、それを上回る嫌悪感があった。

　でも今夜は違う。俺の金が消えていた。その金の行き先を知る権利は当然あると感じた。何より、知らなければ今夜は眠れない。勘違いだったら、それでいい。そう言い聞かせて、帰宅直後の厚着のまま靴を履いた。乱暴に扉を閉めて、施錠の確認でドアノブを強く引く。

　案の定父親は、あっさり「使った」と認めた。

　酩酊状態の父親は、俺が背中を押すだけで歩けるくらいには回復していた。おぼつかない足取りでありながらもハッキリした口調で「使ってやった」と繰り返した。

「……使った？　……使ってやった？　……はぁ？」

「文句あんのかよ。お前が金の使い方知らねぇから、俺が使ってやったんだろ」

「どこに行ったんだよ、俺の金。全部返せよ、なぁ」

「無理だね。残念、残念。今日はツイてなかった。他人の金の方が、本当はよく当たるんだけどな。でも負けてない。二万は勝った」

「二万？　それは、あれか？　十万円になったってことか？」

「はぁ？　お前馬鹿か？　八万円使って、二万円稼いだってことだよ。算数も出来ねぇのか、アホか」

「噓だろ？　ってか、返せよ、ちゃんと。俺の金」

　ここは山に囲まれた田舎町で、人の数より畑が多い。唯一の娯楽にパチンコ屋があるものの、そのパチンコ屋ですら、家からだいぶ歩く必要がある。そんな辺鄙な所に父親と二人で暮らしていて、今日の寒さより厳しい生活をずっと強いられてきた。

　そんな生活から抜け出す為の、貯金だった。それを己の不幸の最大の原因である親に浪費されたとなると、殺意で言葉も出なかった。罵倒したい欲望を越えて、身体が力んで暴力に訴えたい衝動に駆られた。

「うぉ」

　返せよ、絶対。そう食い縛った歯の隙間から、低い声で念を押して軽く突き飛ばす。まだ酔いが回っている父親は体勢を崩して、積もった雪の上に転んだ。最初は不満げに怒鳴り声を上げたものの、懐中電灯を持って先を行くと、待て、待て、と暗い夜の雪道で置き去りにされないように立ち上がろうと地面に這いつくばる。

「待て……あぁ、おい、さっきのでライター落とした」

　光をよこせ、と言われる。どうやら普段使っているオイルライターを落としたらしい。積もった雪の中に落としたのか、父親は這いつくばったまま足元を手で搔き回していた。

「……安物なんだからいいだろ、別に」

　吐き捨てるように言って、また先を歩く。乱暴に呼び止められるも無視を決め込んだ。ただ落とした位置に覚えがあったのか、照明がなくともライターは手探りで回収出来たらしい。あった、これだ、という呂律の回らない呟きと、その場からのっそり立ち上がる気配を背中で感じた。

　未明から降り始めた雪はだいぶ積もって正しい道を踏み外しやすいように隠す。誰も通っていない道に足跡が深く残った。まるで怒りの熱が足裏から放出されて、一瞬で溶けてしまったようにも見えた。

「……あれ、怒ったのかぁ？　こんな些細なことで怒んなよ、なぁ。また稼げば良いだろ？」

　俺に置いていかれそうになって焦ったのか、また大声で声を掛けてくる。その台詞は人を小馬鹿にしながらも、こんな場所で見捨てられる不安が滲んでいる気もした。様子を窺っている。まだ酔いも回っているからか、父親は自分が今どこを歩いているのかも認識していないように思えた。暗闇の中の雪では、ふとしたきっかけで己の立ち位置を見失う。今の父親がまさにそうだ。父親は無職になってから、今じゃ人間性も酷く悪くなってしまった。居なくなったところで、誰が困る。

　この積雪だ。明かりも持たせず置き去りにしたところで、間抜けな事故死にしか見えないだろう。それで死んでくれるなら、これ以上に幸いなことはない。

「お前のよぉ、お前さぁ、女いるだろ、今」

　一度も話していない事実を問われて、足を止めて振り返る。

「……はぁ？　いないけど」

　こんな状況でも受け答えをしてしまう自分の幼稚さは、嫌いだった。ただ、父親が言うその女が、中学から付き合っている玲奈のことを指しているなら、完全に無視するより、否定したい気持ちが先に立ってしまった。

「短い髪の女だよ。お前より少し背の低い、同い年の。高校の制服が紺のブレザーの……あれなぁ、俺が先に食ってやったわ。この前、家の前まで来てたから、連れ込んでよぉ」

　最初は何を言っているのか分からなかった。酒による溶けた脳の妄言だと信じた。

「かわいそうになぁ、お前。父親に寝取られて。興奮したなぁ、怖がってて、あれ、誰にも話せないだろうなぁ」

　激しい衣擦れの音を立てて、俺が全力で出した右の爪先に、成人男性分の肉塊の重みが伝わる。気付いたら父親の横腹を蹴り飛ばしていた。手に持っていた懐中電灯はいつ手放したのか近くに落ちて、足元を照らしている。闇の中で抵抗する父親を何度も蹴り続けては、生まれて初めて口にするような暴言を吐いた。お前のせいで俺がどれだけ惨めな思いをしてきたか。人並みの青春を送ることを諦め必死に貯めた金を盗んだ挙句、息子の女を強姦してやったと笑って告げる神経に殺意が湧いた。

「おぃ、やめろッ、くそが」

　自分の父親に犯される玲奈の姿が、容易に想像出来てしまった。こんな親だからこそ、未成年の女子高校生を襲うこともあり得ると思った。日々の不満を溜めていた分だけ、俺の中の暴力のハードルはだいぶ低くなっていたと思う。俺は、芽生えた不快感を払拭する為だけに拳を振るった。

「ザケんなッ……はっ、はぁっ……」

　力に任せて感情の解決を図ると、抱いた不快感は一時的にでも発散される。とうとう抵抗すら止め、喋らなくなった父を見れば、余計に解放感を覚えた。息が上がっているのは、動揺しているからじゃない。

　現場は、背の高い木々に囲まれた人通りの少ない道だった。付近には街灯や住宅もない上に、成人男性の身体を隠せるほどの雪が積もっている。こんなに雪が降っているのに、俺の身体は温かかった。生暖かく吐く息が、鼻の下に汗を搔かせていた。

　懐中電灯で照らすと、周囲の雪が悲惨さを物語るように窪んでいる。それを見た瞬間に、ある種の達成感を覚えた。

　やってしまった事に関しては、しばらく立ち止まって考えた。その上で、今夜の天候を信じて置き去りにしようと決意した。この大雪に埋もれれば、最終的な死因は窒息死か凍死になる。運が良ければ殴ったり蹴ったりした痕も、凍傷で肌がただれて分からなくなるかも知れない。そうなれば元々が酩酊状態であることから、遺体が発見されても事件性を考慮される可能性は低いんじゃないかと信じた。

　父親の身体を探すと、確かに約二万円が見つかった。ただ、二万円には二、三千円ほど足りない。いや、足りないのは残り六万円だ。それ以外は一銭も見つからなかった。直前に交番で保護されていたので、身分証を抜いても意味はない。全額綺麗に抜くと怪しまれると思ったので、一万五千円だけ取り返した。一万五千円。八万円あったのに、一万五千円しか取り返せなかった。そう思うと、また腹の底から沸々と湧き上がる怒りを感じた。

　息子の金を盗んで、増やしてから戻そうと考えたのか。負けたから自暴自棄になって安酒を大量に呷ったのか。どちらにせよ、息子は牙を剝かないと高を括ったのかも知れない。それでこのザマなら、お似合いの最期だと心の底から思った。六万五千円でこの父親を殺すきっかけが得られたのなら、安いものだ。

　現場を去る前に周囲の雪を蹴飛ばして、あくまでも自然な感じで、不自然な暴力の痕跡を隠した。

　懐中電灯を持って足元を照らしながら、暗い雪道を歩き始める。

　まだ戻れる距離の間では、迷いがあって進む足の重心は揺れていた。けれど次第に吹雪き始めたことに後押しされる形で、現場から離れれば離れるほど足早に、なるべく遠くへ行こうという気持ちの方が強まった。

　そう思ってからは、早かった。

　寒さで萎縮する身体を温める間もなく、家に帰ってから父親の宿泊用のカバンに衣類や金銭になりそうな物を詰めた。冷蔵庫にまともな食材はなくとも、缶詰が引き出しにいくつかあった。絶対途中で救いを求めて再読すると思って、好きな漫画も数冊入れた。それは迷わなかった。逆に迷ったのは、キャンプやサバイバル系の道具だった。本当は持って行きたかったけれど、荷物が嵩張る割に実用性はない気がした。冬に野宿は無理だ。夜も開いているどこかの施設か、雪を凌げる建物を探さなきゃいけない。ある程度の段取りは頭の中にあっても、それが実際どこまで通用するかは微妙なところではあった。

　どのみち、もうこの土地には居られない。それは帰り道の段階で悟っていた。きっと名残惜しさを感じる余裕もなく、一般人とは掛け離れた人生を送る事になる。やっぱり父親の死は不審死として、息子の俺が追われることになるのだろう。最初こそ泥酔の遭難死に見せ掛けられると思ったものの、交番から父親を連れ帰った俺が怪しまれる事に、今更ながら気付いて後悔した。ただ今から遠い土地へ逃げてしまえば、この家に居続けるより捕まる可能性は低くなる。

　カバンを肩に掛ける。安物の薄い生地のカバンだった。防寒着の上からでも、肩に細い紐が強く食い込んだ。大判のマフラーをしっかりと巻く。滑り込んだ雪で靴が冷たく濡れている。でも未だ拳に残る感触よりは不快には感じなかった。

　明日の朝の電車に乗る為に、隣町までの長い道のりを黙々と進む。雪はこちらの覚悟を強く否定するかのように降り続けていた。時間を使っても良いから一度風呂で身体を温めた方が良かったと、組んだ腕の隙間に積もる雪を眺めながら後悔した。

　現状に震える気力は、既に無かった。

（続きは本誌でお楽しみください。）