一
古色蒼然としたバブルの時代が、まだそこにある。
石畳の車寄せと大理石の床、エントランスの高い天井、巨大なシャンデリアがきらめく広々としたロビー。
新築当時はよほどの富裕層でもなければ買えなかったリゾートホテルの区分所有権を、その価格が四分の一まで下落した二〇〇〇年代に買った。
会員権ではなく一部屋を数人の会員で所有する形であることが、三十代の真由子には単なる浪費ではなく投資に映ったからだ。
バブルはとうに弾け、日本は終わりの見えない不況に突入していたが、世間には、まだまだあの時代の狂騒的な雰囲気が濃厚に漂っていた。特にマスコミ業界では。さる経済紙の美術専門出版子会社で、有沢真由子は最年少の女性管理職として男女雇用機会均等法下の先端企業のアイコンになり、世間からもてはやされていた。
華やかで高尚な芸術系出版業界の裏側で、営業社員が広告取りに靴底と神経をすり減らし、社の上層部が怪しげな美術商と連携して誌面を通じて美術品の販売戦略を立てる。そうした下半身に乗っかる形で、真由子は雑誌や画集の企画編集に携わっていた。
早朝の会議と深夜の接待に加え、週末も接待ゴルフで休む暇などなかった。
投資対象として買ったリゾートホテルの区分所有権は、男性社員同様の仕事をこなし、それなりの実績を上げている「自分へのご褒美」でもあった。
都心から高速道路を飛ばせば一時間で到着するホテルに、退社後、アウディで乗り付け、エステとマッサージの施術を受け、夜食とともにワイングラスを傾け、カーテンを開け放した窓から、暗い海面の向こうにある小島の明かりを眺めながら眠る。
ときには女友達と、ときには母や妹と、部屋のソファでシャンパンを空け、翌早朝には、その少し先にあるゴルフ場に駆けつける。
人生の花の盛りは、人によって様々なのだろうが、真由子にとっては、間違いなくその時期だった。
そして今、二十年近くも前に買った熱海のホテルは、メンテナンスも行き届かぬまま古びている。
あの当時、エントランスを入ると正面の大理石の台の上の巨大な花瓶には、百合や蘭などの花々が生けられて甘い香りを放っていたものだが、いつの頃からか布製の造花に変わった。
ロビーのシャンデリアの真鍮の腕は黒ずみ、部屋のソファの角はすり切れ、廊下の天井には雨漏りの跡まである。
あまりのことに真由子は到着するなり担当者を呼びつけ、リニューアルの予定はないのかと、尋ねたことがあるが、「ない」とすげない返事が返ってきただけだ。
会員権ではなく所有権であることが仇になった。老朽化しても一部屋ごとに十数人いる所有者の合意が取れない限り、大規模修繕はできない。にもかかわらず毎年、二十万円の会費がかかってくる。投資のつもりが、負の遺産になっていた。
その老朽化した海辺のホテルで、真由子はこの日、たった一人で誕生日を祝っている。
昔そこにあったフレンチレストランの豪華な個室は、コロナ禍を経て四年ぶりに訪れると壁が取り払われ、中央部はイタリアンビュッフェの会場に変わり、幼児と小学生が走り回っている。料理の置かれたテーブルから離れた隅の方では、リモートワークのための長期滞在と思しき若い男が、タブレットに目をやりながら、一人で黙々と定食を口に運んでいる。
海に面したカウンター席で食前酒のスパークリングワインを空けたとたんに、ニットのワンピースに包まれた体は、突然、熱くなり、額から汗が噴き出した。つい二時間前にアーユルヴェーダのサロンでもみほぐしてもらった肩と首に、再び凝りが戻ってくる。
誕生日を祝ってくれる女友達も、妹たちもいる。誕生日にかこつけて飲みに誘ってくれる賑やかな同僚もいる。
しかし五十という年を迎えたたった今、だれとも話さず、タブレットやスマートフォンの画面を見ることもなく、すっかり庶民的に様変わりしたレストランの一人席で、上ったばかりの月に鈍く照らされた穏やかな海に見入っていたかった。
メインディッシュの皿が下げられ、運ばれてきたデザートプレートには、ラズベリーソースでハッピーバースデーの文字が書かれていた。
食事を終えて部屋に上がる前に、地下にあるバーラウンジでギムレットを一杯だけ飲むのは、一ヵ月に一度ここを訪れていた時代からの習慣だった。
そして今、仕事のたて込んだ年度末を何とか乗り切り一息ついている時間に、冷えたギムレットほどぴったりするものはない。明日はここから新幹線で東京の会社に出勤し、また昼夜の区別なく仕事に明け暮れる一週間が始まる。
緩やかに半円を描く階段を下りるうちに聞こえてきたのは、気だるげなジャズを奏でるピアノの音ではなく、自己陶酔気味に「昴」を歌うしわがれ声だった。
しばらく来ないうちにバーラウンジは、カラオケバーに変わっていた。
もはや苦笑しかない。
ふたたび階段を上がる気力もなくエレベーターホールに向かって歩いて行くと、廊下だけは二十年前と変わらず、壁面とイーゼルの上に、ひしめくように絵画と版画が飾られていた。
花と少女と美人、そしてウィンドウズの壁紙を思わせる数々の絶景。
それぞれの絵の右肩には、大きく数字の書かれた値札が留め付けられている。
突き当たりのエレベーターホールの手前に机が一台置かれ、名刺の入った箱が載っている。絵画の購入希望者はその名刺の電話番号に電話するように、と張り紙があった。
机の脇に置かれたひときわ大きなイーゼルに目をやって、思わず苦笑する。
古びてデフレ感覚の止まらないかつての豪華リゾートで、未だに商売を続けている画廊には、四半世紀も前に一世を風靡し、今ではその名も忘れ去られた画家の、横一メートル、縦七、八十センチくらいの版画とも印刷とも判別しがたい作品が飾られていた。
青。それも限界まで純度の高い透明な青と白い砂浜のコントラスト。寄せる波はレースのように繊細に泡立ち、海に戻っていくアオウミガメの濡れた甲羅を朝日がバラ色に染めている。澄み切った青い海から立ち上がる波頭の菫色の輝きと、曙光に照らされた遠い海面のシャンパンゴールド。
銭湯の壁の三保の松原かアニメの背景か。
かつて美術関連書籍や雑誌の編集に携わっていた時代に、鼻先で笑って黙殺していた、ジャンピエール・ヴァレーズの作品だった。
インテリア絵画として美術業界には見下され、評論家からはけなされるどころかまったく相手にされず、その一方で圧倒的な大衆的知名度を獲得していたヴァレーズ。
今はその名前を口にするだけで笑いを誘う、バブルの遺産のようなその絵を前にして、しかし真由子は不覚にも感動していた。
澄み切った青と光に満ちた画面は、机の脇に立てられたスポットライトを浴びてその透明感のあるけばけばしさとわざとらしい輝きを際立たせていた。
生意気ざかりのあの時代に、アートと呼ぶのは恥ずかしいただの「絵はがき」として見下していた観念的な楽園の景色に、今、自分が入り込んでいることに真由子は気づく。
青く輝く早朝の海、そして手前の砂浜から右手に伸びる踏み分け道の向こうに茂みが濃い影を落としており、折り重なる葉陰から、淡く灯ったあずまやの灯火が見える。
朝日を透過させて立ち上がり白く砕ける波も、風に揺れる葉も、騒がしいまでに動的な素材であるにもかかわらず、ヴァレーズの画面ではすべてのものが静止している。
スーパーリアリズムに類する精巧なタッチにもかかわらず、その動きのなさゆえにひどく幼稚な印象を与えるヴァレーズの絵。その静止した画面に真由子は今、平穏さを見ていた。
この世界に溺れてしまいたい。鑑賞する絵画ではなく、自分がそこに入り込めるビーチの風景。
学生時代に訪れたプーケット、就職した後に短い休暇を取っては訪れたバリとランカウイ、そうした島々の海と太陽の輝きを思い起こさせる絵だが、それらの南の国の何処でもない。
無国籍の南の島。豪勢なリゾートホテルの裏側に、スラムもホームレスが寝転がるダウンタウンもない、独裁者による弾圧や、民族紛争の歴史も存在しない、素朴な現地の人々が稲を刈り、魚を捕り、訪れた人々に微笑みかけてくれる、美しい海と緑陰と白い砂浜の広がる虚構の楽園。
最年少で管理職になった自分のポストが十年以上もそのまま据え置かれ、後輩の男性社員がめまぐるしく異動しながら、自分を追い越していくことに気づいたのはいつのことだっただろうか。
不満を口にした覚えはないが、ほどなく真由子は長年馴染んだ美術雑誌の版元、ビジネスアート出版から、経済専門紙を発行している本社、ビジネス新報社に戻った。
そこのIT推進戦略本部と命名されたまったく畑違いの部署で、アシスタントジェネラルマネージャーという役職を得たものの、仕事のできない管理職の悲哀をいやというほど味わわされて半年後、今度は子会社のビジネス新報出版に出向となった。
今から六年前のことだ。
名目は出向だが、事実上の転籍だった。
配属先は、女性関連書籍企画出版部門、通称「フェミナ」だ。
チーフエディターの肩書きの下、そこでウェブマガジンを立ち上げ、紙本よりも新鮮な情報を読者に届けることで成功を収めたのは、鳴り物入りで入社したと伝えられる均等法世代の女性たちが、男社会の新聞社で挫折していく姿を目の当たりにしてきた者の意地だった。
部内のだれよりも働いた、おそらく。
子会社のビジネスアート出版で、史上最年少管理職として、働く女性のロールモデルに祭り上げられた三十代前半から、本社勤務の半年を経て、五十歳を迎えた今まで、狭くあやういキャットウォークを全力で走り抜けてきた。
デッドラインをにらみながら分刻みに進行させるスケジュール、記事の質の確保とスポンサーの要望を両立させるための身を削るような調整作業、押し引きの間合いを常に測って破綻なく継続させていかなければならない人間関係。
常に気を張っている日常生活の中で得たごく短い休憩時間に、神も魔物も棲まない美しい世界、善良なウミガメと素朴な島民が旅人を迎え入れてくれる南島の光景が現れた。
右肩部分にピン留めされた値札に我に返る。
「56万」と赤いマジックインキで大書されている。
それがバブルの残留物としての価値だった。
意外に安い、という印象だ。もともと版画というよりは、印刷のような技法で二、三百枚は刷られた作品であるから、油やアクリルで描かれた絵画と違い、そう高い価格はつかない。にもかかわらず流行っていた時代には百万円を軽く超していたはずだ。価格は下落しているが、このホテルの部屋の分譲価格ほどひどい値崩れは起きていない。
払えない金額ではなかった。慢性的な人手不足で休暇を取れない状態に加え、新型コロナの流行で、旅行や外食はもちろん美容室に行くことさえ制限され、リモートワークで新しい服や小物にも食指が動かなかったこの数年を思えば、その程度の出費は浪費とはいえない。外で使うかわりに、自分の部屋に「楽園」を呼び込んで何の不都合があろうか。
そんなことを思いながらも、結局、そこにある画廊の名刺を手に取ることもなく、もう一度、イーゼル上の楽園に目をやっただけでエレベーターに乗り込んだのは、ヴァレーズを買うなど、かつて美術に関わる仕事をしていた者のプライドが許さなかったからだ。
年度が替わってほどなく、新型コロナウイルスの感染症法上の分類がそれまでの2類から、インフルエンザなどと同様の5類に引き下げられることが決定したのと同時に、女性関連書籍企画出版部門、「フェミナ」では旅行関連のウェブマガジンの企画が動き始めた。
とはいえアジアンリゾートやグァム、サイパンなどは、コロナ禍の需要の落ち込みによる観光業の壊滅的な打撃からまだ立ち直っておらず、一般的な観光客の行き先として最初に特集するのは当然のようにハワイと決定した。
年代を問わず、女性にもっとも人気のある海外旅行先がハワイでもある。スポンサーは容易にみつかり、タイアップ記事、広告記事の企画はすぐさま上がってきた。
一方で取り上げる以上はどこかで「フェミナ」なりの特色を出したい。
食べる、買う、遊ぶ、泊まる、に加えて、カルチャー記事を掲載するのは、ウェブマガジンといえども雑誌を出版する者たちの矜持であり、良心でもある。
とはいえ歴史、民族、先住民文化など取り上げたところで、大半の読者には素通りされることが目に見えている。そこで比較的アピールしやすいミュージシャンとアーティストを取り上げることにした。
新卒でこの部署に配属された編集部員、安住明里が作った企画書では、画家として真っ先にヘザー・ブラウンが挙げられ、続いてコリーン・ウィルコックス、カット・リーダーなどの名前が並んでいた。
当然のことながら、そこにジャンピエール・ヴァレーズの文字はない。
彼は終わった画家だった。失われた十年のはずが二十年になり、三十年経っても一向に回復しないままの日本経済を象徴する画家でもある。ミレニアム直前に生まれた社員たちは、彼の名前など知らない。
「私の青春時代は、ハワイアンアートと言えば真っ先にヴァレーズだったけどね」
真由子は苦笑しながら、若い編集部員が提示したパステルカラーの画面に目を落とし、「趣味じゃなかったけど」と付け加える。
「だれですか、それ」
それに答えるように背後から失笑が聞こえた。かつて流行し、消費され、捨てられた物に対して、人が無意識に向ける侮蔑の笑いだ。六十間近のその男は、本社の激務に耐えられず、しばらく病休を取った後、ここに飛ばされてきた「フェミナ」で唯一の男性社員だ。
「これよ」
立ち去っていく男性社員の後ろ姿を一瞥し、真由子は目の前のキーボードに「ジャンピエール・ヴァレーズ」の名前を打ち込む。
コンピュータ端末の画面に、記事がいくつか出てきた。
いずれもかなり古い。
いくつかの画像が提示されたので拡大する。
画面いっぱいに青が広がった。紫や金色が滲む青を背景に、色とりどりの魚とウミガメ、こちらに背中を向けた人魚。
企画書をあげてきた明里が息を飲むのが聞こえた。
クリックする。こちらは浜辺の華麗すぎるほど鮮やかなネオンサインのような夕景だ。
「すごい……」
「はぁ?」
画面に見入っている明里の、まだ年齢の刻まれていないくっきりした目が、興奮にきらきらとかがやいている。真由子は数ヵ月前、あのリゾートホテルで不覚にも覚えた感動めいたものを思い出す。
「ええと、版権は……」と明里が検索を始める。作品の写真を掲載するとなれば、当然、著作者の使用許可を取らなければならない。
窓口は「ギャラリー藤森」となっている。
そこが日本での販売窓口らしい。以前、真由子がビジネスアート出版で仕事をしていた頃、ヴァレーズの絵を扱っていたのはカタカナ文字のどこか別の会社だった。その会社が販売方法をめぐりマスコミに叩かれたこともあり、ヴァレーズはそちらと決別し、ギャラリー藤森と契約し直したのかもしれない。
「それにしても、この令和の時代にヴァレーズねぇ」
若い社員の反応に少し驚き、半ば呆れながら真由子は首を傾げる。
「全然、古さなんか感じませんよ。やっぱりグラフィックっぽいのが多いから、一つくらいこういうストレートにきれいで感動的なのを入れましょうよ」
格別、反対する理由はない。掲載するのはムックのアート&カルチャーページであり、美術専門誌の作品紹介や評論ページではないからだ。
その場で「ギャラリー藤森」を検索していた安住明里が、興奮気味の声を上げて、自席に戻りかけた真由子を呼んだ。
パソコンのディスプレイに、その「ギャラリー藤森」の広告が表示されていた。
ゴールデンウィークの初日から四日間、虎ノ門に最近開業した外資系ホテルでヴァレーズの原画展が行われるという。
それにしてもなぜ今更、ヴァレーズなのか不思議だった。やはり「ストレートにきれいで感動的な」絵が、ヴァレーズの名前など知らない若い世代にアピールするだろうという目算の下、ブームの再来を期待しているのかもしれない。
しかも「原画展」とはどういうことなのか。ヴァレーズがかつて一世を風靡したといっても、その作品は版画かポスターであって、ヴァレーズの肉筆原画が売られたという話は聞いたことがないし、目にしたこともない。それは真由子だけでなく、おそらく当時、ヴァレーズの作品や画家自身に心酔した多くのファンも同様であっただろう。
「バブル絵画」と揶揄されるヴァレーズだが、実際にはその流行はバブル時代と十年あまりもずれている。バブル時代に流行ったというよりは、むしろその作品に登場するリゾートアイランドの雰囲気がバブルの時代を象徴しているというのが実のところで、一時、熱狂した人々が、後年、バブルの産物として自嘲的に記憶の中に刻みつけた、という部分もある。
ヴァレーズの作品が初めて日本にやってきたのは、一九九〇年の十二月、まさにバブルの頂点で、日本中が発情したクリスマスイブのことだった。舞浜に開業したばかりのホテルのイベントルームで開催された展覧会は、新聞や業界誌の展覧会評にこそ取り上げられることはなかったが、その時期、舞浜を訪れていた多くの観光客の心を捉えた。
劇的なバブル崩壊がやってきたのは、その数ヵ月後のことだった。
しかし逆風をものともせず九〇年代前半に地方都市や首都郊外に続々と建設されたアウトレットモールに、ヴァレーズの展覧会場が設営され、まさに社会現象とも言えるようなブームを巻き起こしていった。
そしてミレニアムに突入してほどなく、バブルの崩壊から十年ほど経過した時点で、突然、流行は終わり、ヴァレーズは世間から忘れ去られた。
今回、二十二、三年ぶりに開催される展示会の会場が、なぜ虎ノ門の、しかも高級シティホテルなのかも謎だ。
バブルの頂点のクリスマスに、舞浜のホテルで行われた展示会を皮切りに、ヴァレーズの展示即売会は、地方都市や大都市郊外のアウトレットモールで展開された。しかし都心のシティホテルやましてや銀座界隈の画廊にやってくることはなかった。
しかも当初は海外のブランドショップが軒を連ねる高級なイメージのアウトレットモールで開催されていたものが、ミレニアムを迎えた頃には百円ショップや回転寿司屋などの入った田舎の大規模ショッピングセンター内のホールなども使われるようになっていた。
それだけ薄く、広く、大衆に受け入れられた、とも言えるし、彼の作品イメージは決して高尚でもなければ、高級でもなかったということでもある。
(続きは本誌でお楽しみください。)