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「ねえ。来年度の更新分から、家賃値上げするんだって」
岸本敏明がダイニングテーブルに落ちつくなり、妻の香苗がそんなことを言った。
時刻は午後九時を少し回ったところだ。部屋着代わりのトレーナーの上下に着替え、発泡酒の最初のひと口をつけるかどうかのタイミングだった。
「URから通知が来たってこと?」
テーブルに載っていた浅漬けのキュウリを、箸でつまんで口に放り込みながら訊き返す。
「高村さんに聞いたの。あの人、ほら情報通だから」
そう言いながら、香苗は取り分けて温め直した夕食の八宝菜を敏明の前に出した。高村というのは、同じ棟に住んでいるほぼ同年代の主婦で、いつも誰かに何かを説明していないと気が済まないタイプだ。
敏明はもうひと口呷ってから、大好きなキクラゲをつまんだ。
「高村さんか。あの人、思い込みの情報も多いからな。なんだっけ、ほら、この前も『大規模修繕するにあたって、一戸あたり一時金を十万円取られる』とか言いふらして、結局デマだったじゃないか」
「そうね。─ねえ、昨日の生姜焼きの残り、いる?」
「いや、いまはいいよ」
香苗は茹でたブロッコリーがメインの野菜サラダの大皿を冷蔵庫から出し、ダイニングセットの椅子に腰を下ろした。
「でもこんどは本当みたいよ」
「ならば通知が来るだろ」
敏明は、テーブルに置きっぱなしのリモコンでテレビをオンにした。まるで待ち構えていたかのように、夢と未来を創造するとか謳う、マンションデベロッパーのイメージCMが映ったので、NHKに変えた。
もう十八年も夫婦をやっているので、これが「その話はもうしたくない」という敏明の意思表示だと、香苗も理解しているはずだ。「でも─」と続きを口にしかけたが、そこで飲み込んでしまった。
夫婦関係も社会のほかの関係と変わらない。「空気を読む」ことが、大きな諍いに発展するのを防ぐ。
「それより、明日も出勤になった」
「そう。お疲れ様」
敏明は火が通り過ぎてしんなりしてしまったチンゲン菜を口に運んだ。
岸本一家が住む七峰市は、東京都の西のはずれに位置している。
人口は現在五十万人を超え、歴史も古い。今は城址公園となっている七峰城は、天正年間に北条氏が築いたといわれている。土地の人間は、矜持と愛を込めて七峰を「地方都市の雄」と呼んだりもする。
岸本家は、この市の中心であるJR七峰駅から歩いて十五分ほどの距離にある、都市再生機構─略称URの賃貸物件に暮らしている。
間取りは3LDKで、家賃は十二万円にわずかに欠ける。同じような立地の民間の物件に比べれば、だいぶ安い。URがまだ「住宅公団」と呼ばれていたころに建ったので、そこそこ築年数が古いというのも低額の理由だろう。
しかし、URや都営住宅と民間との〝家賃格差〟を指摘するテレビ番組が引き金になって「あいつらの家賃も上げろ」という意見が増えているらしい。
税金で養ってもらっているわけでもないし、よけいなお世話だと思うが、我が身に無関係だからこそ苦情を申し立てて腹いせしているのだ。この話題になるたび、敏明は妻にそうぼやいてみせるが、本当は自分に言い聞かせている。
不愉快な世の中だが、それが現実ならそこで泳いでいくしかない。それに、岸本家に関していえば、敏明の勤務先から住宅手当が毎月二万円支給されるので助かっている。
いや、そんな理屈よりも、疲れて帰ってきたのに、不確定な情報で不愉快な気分にさせて欲しくない。
敏明の勤務先は『白葉高校』という名の私立高校だ。
大学の付属ではない中高一貫の男子校で、来年開校八十周年という歴史がある。
「偏差値」だけでみれば特筆するほどの進学校ではないが、卒業生の多くが企業で要職についたり、文化人、政治家も輩出しており、有名私大への推薦枠が多いことでも有名だ。当然ながら、教員のスキャンダルにもうるさい。
敏明は、ここで現代国語を教えている。また、三年生の『文系特進コース』、通称『文特コース』のクラス担任であり、学年主任でもある。公立高校とでは、出世やヒエラルキーの構図はやや違うが、そこそこ順調な立場にあると思っている。
大学卒業後すぐに、七峰市立の中学の教員に採用された。しかし、わずか二年目にちょっとした事故があって、なんとなく居づらい雰囲気になり、辞職した。
その後一時的に塾の講師などを務めたが、学生時代の友人の〝引き〟で、今の『白葉高校』に就職できた。その後二十年以上、無事に教鞭をとっている。今さら公立の教員は無理だし、ほかの学校へ新人として転職する気にもなれない。
このまま、無事に勤めあげたいと思っている。定年後の再雇用でも、給与がほとんど下がらないのが魅力だ。
学校までの通勤方法は、JR中央線で上り方面へ四駅、そこからさらにバスで十五分ほどゆられる。すべて公共交通機関を使うと一時間ほどかかるが、車を使えば─混み具合にもよるが─半分以下で済む。だから、会食などのある日以外は、自家用車で通勤している。もちろん、国産の大衆車だ。あれ以来、小さな違反はあるが、無事故を貫いている。
「それより─」
敏明は、一度つまんだブロッコリーを取り皿に置き、廊下のほうへ顔を振った。
「いるのか?」
もちろん、四月から中学三年になる、一人息子の幹人のことだ。
香苗は特に感情も込めずに「うん」とうなずいた。
「ちょうどあなたと入れ代わりぐらいに、晩ごはん食べた」
「てことは、春期講習に行ってるのか」
「たぶん、行ってると思うよ」
「たぶんってなんだよ。高い金払ってるのに」
敏明は、香苗のこのどこか他人事のような物言いに、ときどき腹が立つ。「真剣に考えろよ」「考えてるわよ」という小さな諍いが、月に一度か二度は起きる。
「午後からのコースだから、わたしが出かけるときはまだ家にいるし、帰ってきたときはいないし、見張ってるわけじゃないもの」
「たとえばさ、『調子はどうだ』とか訊いてみるとかさ」
「だったらあなた訊いてよ。わたしはやだ」
香苗は小さく首を左右に振り、キッチンへ行ってしまった。会話の途中で、敏明の場合はテレビのチャンネルを何度も変える、香苗は台所仕事をするか洗濯物を畳む、それが夫婦それぞれの「この話題はもう終わり」の意思表示だ。
幹人が受講している『春期集中コース』は、たしか午後三時から午後七時までだ。塾は駅前の雑居ビル内にある。午後九時少し前に食事を終えたということは、時間的な計算は合う。問題なのは、その時刻までほんとうに塾にいたのかどうかだ。
しかし、これ以上夫婦で想像で言い争ってもしかたない。
風呂に入ることにした。
いつも香苗に「もう入ったの」と驚かれるが、今夜もまたさっと湯を浴びて、ふたたびダイニングセットで、二本目の発泡酒を開けた。
あまり酒に強い体質ではないし、金銭的な理由もあって、ほぼ毎夜これで終わりだ。
片付け物も終えて通販のカタログを見ていた香苗がいきなり切り出した。
「そういえば、お義父さんと西尾さん、また一緒にいたんだって」
どうしてこう最初のひと口に合わせて、あまり愉快でない話題をぶつけてくるのか。不愉快ではあるが、「また」の部分の語調が強かったので反応してしまった。
「また?」
それが本当なら、これで三度目、いや「たぶん」のときを含めれば四度目だ。
「それも高村さんネタ?」
「違う。升田さん」
下の名は忘れたが「升田さん」というのは香苗の中学までの同級生で、七峰市役所の正職員をしている女性だ。香苗にとって親友というほどではないようだが、町中でばったり出会えば、しばらく立ち話をする程度には仲がいいらしい。
同級生だからという理由ではなく、升田自身の仕事の関係で、敏明の父親、武のことを知っている。升田が発信元なら信憑性がありそうだ。
「どこかで見かけたってこと?」
「うん。ファミレスだって。あの道、なんていうんだっけ。高尾のほうへ行くとき、たまに通る道」
「北野街道?」
「そう、それ。あの道の高尾に近いあたりだって。この前の休みに、升田さんが家族でドライブに出かけて、お昼を食べにステーキ系のファミレスに入ったら、お義父さんと西尾さんがいたんだって。順番が来て席に案内される途中だったけど、お義父さんたちを見かけてびっくりして、あわてて店員に『急用を思い出したので』って噓ついて出てきたって。悪いことしちゃった」
「親父のほうでも気づいたのかな」
「たぶん、気づかれてないでしょうって。すごく楽しそうに話し込んでいたって」
すごく楽しそうに、という部分に、かすかに皮肉とか嫌悪とかいった感情が見える。
武は七峰市立中学の社会の教諭を長年務め、校長の職にもついた。定年退職後も「再任用フルタイム勤務」として雇われ、長く教鞭をとっていた。本人も天職と公言し、誇りにしているようだ。
再任用も退き、事実上現役を引退したあとは、東京都退職校長会などという組織に属して、役員だか理事だかをやった。公的な組織ではなく、校長や園長経験者の親睦会のようなものらしい。
さらには、市の資料館や図書館の相談員のようなこともしていた。ほとんどボランティアのようなもので、金銭目当てというよりも、少しおおげさにいえば自己実現とか広い意味での承認欲求だろうと敏明は受け止めている。
要するに、世間から忘れられてしまうことが怖いのだ。
そして三年前からは、市の生涯学習センターで講師を務めている。
週に一度、本庁舎から歩いて五分ほどの場所にある学習センターで『郷土の歴史を学び史跡をめぐる』という講座を受け持っている。
受講生からテキスト代などの実費は取るが、受講料は無料だ。もちろん講師にギャラも発生しない。完全なボランティアだ。まさに生涯現役の手本のような生き方で、本人もそれを自慢にしている。
この講座の『課外活動』として、月に一度ほどの割合で、七峰市やその周辺部のあまり知られていない史跡や旧家跡などを散策し、武が解説するというイベントがある。
この企画がそこそこに人気のようで、基本の講座も含めて、毎期定員がいっぱいになると聞いている。もちろん、当人の鼻も高くなる。
中学校で四十年間培った話術を活かしているのだろう。たしかに息子から見ても話は上手いと思うし、本人もそれを自覚して磨きをかけているらしい。
七年前に妻を亡くし、一人暮らしを続ける武の、〝今〟を支える張り合いといえるかもしれない。
これという趣味もなく、ただぼうっと日々を送る生活に比べれば、ボランティアで市民講座の講師を務める生活は悪くない、いや、かなり好ましい状況だろう。
ところが、そんな生活になんとなく生臭い話題が浮上した。
以前、香苗がちょっとした手続きで市役所へ出向いた際、この升田にばったり出会った。再会を懐かしむほど久しぶりでもなかったので、軽く挨拶して行き過ぎようとしたが、升田に「ちょっとだけいい」と、トイレ近くの物陰へ引かれたという。そこで「じつは」とこっそり教えられたそうだ。
升田は、市民講座の運営、監督を担当する部課にいる。つまり、その関係で武のことを知っている。
彼女の説明によれば、先月《岸本武先生が、生徒の一人だけを可愛がってえこひいきしている》という内容のメールが来たという。
その手のクレームはたまにあるので、最初の一通目は無視していた。しかし、別の受講生からも続けて似たような内容のメールが届いた。もしかすると、送った者同士が示し合わせたのかもしれないが、複数の人間がそう感じているのは確かだ。
課長の判断で、それとなく様子を見ることになった。
課で一番若い職員が、講座の終わりごろに適当な理由をつけて観察していると、一人残った女性が後片付けの手伝いをしながら、武とかなり親しそうに会話をしている。武も楽しそうだ。升田は言いにくそうに「その職員の報告によれば、軽くボディタッチとかもしていた」と教えてくれたという。
その相手は、まさに苦情メールに名が出てきた、西尾千代子という六十八歳の独身女性だ。
課で少しだけ問題になったが、双方高齢者であるし、風紀を乱すほどのこともない。一方的なセクハラでもない。したがってことを荒立てる必要はない、という課長判断になった。
武のこれまでの経歴も加味してのことだろう。
それから二か月ほどのあいだに「後ろ姿だったけど、たぶんそうだと思う」という情報を含めると、これで四度目だ。
「一応、耳に入れておくね」
升田はそう言って、足早に自分の席へ戻って行ったという。
香苗にその報告を受けた敏明は、笑って答えた。
「受講生と飯ぐらい食ったっていいだろう。例の散策会の帰りかもしれないし。そのぐらいの楽しみはあったってさ」
「でもねえ。特定の人と二人っていうのが」
「そんなこと言ってるけど、前に、役所は不倫の温床だって聞いたぞ。自分らに覚えがあって、後ろめたいからそんなこと気にするんだろ」
「またそんなこと言って」と香苗は口を尖らせた。「せっかく親切で教えてくれたのに」
「まあ、親父のことだから、限度はわきまえてると思うけどね」
「まさか、再婚とか言い出さないわよね」
「まさか」
せっかくの最後のひと口を吹き出しそうになった。あわてて飲み下してむせた。
げほんげほんとむせている敏明の背をさすりながら、香苗が独り言のようにぼそっともらした。
「友田さんみたいなこともあるし」
「だい─げほっ、大丈夫だよ。えっほん」
ようやく息が継げるようになって、続けた。
「今度の休みにでも顔を見に行ってみるよ」
ほかに気になることもあった。
(続きは本誌でお楽しみください。)