「どうにも、稽古生たちが落ち着かなくてな」

 岩瀬忠震が言った。

「それはそうだろう」

 永井尚志はこたえた。「あんなものが浦賀に現れたら……」

 あんなものというのは、アメリカの軍艦だ。

 岩瀬忠震は現在、昌平坂学問所の教授方だ。岩瀬が漢籍について講釈しても、若い稽古生たちが気もそぞろだということだ。

 岩瀬が言う。

「誰が言いはじめたか知らないが、黒船ってのは言い得て妙なんだそうだ」

「何でも、黒鉄でできているそうだな。だから黒い」

「いくらなんでも、黒鉄じゃ浮かぶまい。表面に黒鉄を貼っているんだろう」

「アメリカの技術は進んでいるということだからな。鉄の船だって浮かばせられるのかもしれない。鉄道というのを聞いたことがあるか?」

「知ってるさ。鉄の道を敷きつめて、その上をこれも鉄のでかい塊のようなものが走るというのだろう」

 永井も岩瀬も暇だから、いろいろな知識だけは増えていく。

 永井はいちおう小姓組番士というお役目だが、仕事といえば見回りと待機なのだから暇なのは当たり前だ。岩瀬は教職に就いているのだが、それでも暇は暇だ。

 永井尚志は三河国奥殿藩五代目藩主、松平乗尹とその側室の間に生まれた。大名の子なのだ。

 父の乗尹が亡くなってから、奥殿藩邸を継いだ義兄の松平乗羨のもとで世話になり、教育を受けた。当時、奥殿藩邸は麻布竜土町にあったので、そこで暮らしていた。

 その後、旗本の永井能登守尚徳の養子になった。大名の子が旗本の養子になったわけだ。数えで二十五歳のときのことだが、それ以後、永井家養父、養祖父の名であった岩之丞を名乗っていた。

 家督を継ぐ予定の「部屋住」だから、やることはない。だが、そうも言っていられないので、勉学に励んだ。

 その結果、昌平坂学問所の大試に甲科合格した。これには、家族一同驚いていたが、自分でも驚いた。出来すぎだ。

 四ヵ年目大試はとにかく難しい。甲科合格と乙科合格があり、当然甲科のほうが優秀とされる。

 乙科合格は、学問の他に武芸に秀でているとか、父親が年を取っていて家督を継がせる必要があるとかの次第が考慮されるのだ。

 目の前でいまにもあくびをしそうな顔をしている岩瀬は、乙科合格だ。甲科合格の永井は優越感を覚えていいと思うのだが、それがそうはいかないのだ。

 岩瀬にはとうていかなわない。

 つい、そう感じてしまう。

 知識には自信がある。これまであり余る自由時間を勉学に費やしてきたのだ。しかし、岩瀬は頭の出来が違う気がする。

 学問とは知識だけではないのだ。何と言うか、知識の向こう側にある重要なものをつかみ取らなければならない。

 岩瀬にはその力があるのだと、永井は思う。彼にはきっと甲科合格の実力があったはずだ。その気がなかっただけだ。

 岩瀬にはがつがつしたところがまったくない。そして、時に気紛れだ。

 頭がいいのは当然で、彼は昌平坂学問所とは深い縁があるのだ。

 岩瀬は旗本の設楽貞丈の第三子だが、その父の妻、つまり岩瀬の実母は林述斎の三女だ。大学頭林述斎は、昌平坂学問所の学頭だった。

 もともと昌平坂学問所は昌平黌と呼ばれ、儒家である林家の私塾だった。それが後に公の学校となったわけだ。

 つまり、岩瀬には儒者として有名な林家の血が流れているのだ。生まれからして違うと、永井は思っていた。

 その後忠震は書院番士岩瀬忠正の養子となり、その娘の孝子と結婚した。

「おまえら、昼間っから何をごろごろしてるんだ?」

 縁側の向こうから声がした。庭に堀利熙が立っていた。

「何だ、省之助か」

 岩瀬が言った。「我らは今、黒船について有意義な議論をしていたところだ」

「おう、黒船か」

「公儀はどうすると思う?」

 岩瀬が問うと、堀は即座にこたえた。

「そんなの攘夷に決まっているだろう」

 岩瀬が笑みを浮かべる。

「おまえは水戸藩士か」

「ふん。水戸だけじゃない。大半の者がそう思っている。儒者なら当然、そう考えるだろう」

「まあ、そうだな」

 岩瀬が永井に言う。「岩之丞もそう思うか?」

「省之助が言ったとおり、それが儒者の心得というものだと思う」

「さすがは甲科合格だな。実に賢い」

 これはもちろん皮肉だ。

 だが、別に腹は立たない。

 岩瀬は不思議な男で、けっこう皮肉屋なのだが、決して人に嫌われることがない。諧謔的というのか、どこか言動に滑稽なところがあり、憎めないのだ。

 何を言っても人に嫌われないというのは、うらやましい限りだ。

 一方、堀は敵を作ろうがいっこうに気にしない。竹を割ったようなまっすぐな性格なのだ。武芸にも秀でており、優男の岩瀬とは対照的だ。

 このまったく似ていない二人は、実は従兄弟同士だった。

 堀の母も林述斎の娘なのだ。昌平黌の縁者なのだから、こちらも血筋がいい。そればかりか、堀の父は、大目付の伊豆守利堅だから、三人の中では一番、家柄もいい。

 岩瀬と堀は従兄弟同士だし、同い年なので当然ながら仲がいい。おそらく性格が真反対なのが、かえっていいのだろうと、永井は思っていた。

「しかしなあ……」

 岩瀬がのんびりとした口調で言った。「何でも蒸気で進む軍艦らしいじゃないか。そんなもの、追っ払えるものかな」

「それよ」

 堀が言った。「黒くてえらく大きな船だった」

 永井は驚いて尋ねた。

「見てきたのか?」

「ああ。連中は浦賀を素通りして、江戸湾の入り口に錨を下ろした。俺は鴨居まで行ってきた」

 堀の行動力にはいつも目を見張る思いだった。

「鴨居……。相模の鴨居だな」

「浦賀の近くだ」

 それまで縁側でごろりと横になっていた岩瀬が起き上がった。

「どんなだった?」

 堀が顔をしかめる。

「ありゃあ、何をやっても無駄だ」

「そんなにすごいのか?」

「船が鎧を着てやがる」

「なるほど」

「四隻の軍艦の砲門が合わせて六十三門だ」

 永井は思わずそのまま返した。

「六十三門……」

 堀が続けて言う。

「そして、そのすべてが、日本でいうところの六貫目砲以上の大きさだ。一方、わが国では江戸湾内の砲を全部合わせても、六貫目以上の砲は十九門しかない」

「つまり……」

 永井は言った。「黒船が本気を出したら、江戸湾を守ることすらできやしないということだな」

「だからさ」

 岩瀬が言った。「それでどうやって攘夷をやろうというんだ?」

「それでも」

 堀が言う。「公儀の考えは攘夷だろう」

「清国がイギリスと戦って敗れたのには驚いた。アメリカやヨーロッパと戦えば、日本も同じ運命をたどるぞ」

「そういえば……」

 永井は岩瀬に言った。「おまえは、清国とイギリスの戦争の詩を作っていたな」

 アヘン戦争についての漢詩だった。

「そんなこともあったな」

 岩瀬はよく漢詩を作っていた。漢詩は、昌平坂学問所での課目の一つでもある。

 堀が言う。

「よほど驚いたのだろう」

「そうだな」

 岩瀬がうなずく。「蘭学者は、海外の事情を独占しているような顔をしているが、実は我々儒者だって相当に通じているんだ」

 岩瀬が言うとおりだった。外国の情報の多くは漢文に訳されている。儒者にとって漢文はお手の物だ。

 だから、昌平坂学問所の教授方などは、かなり西洋の事情に詳しいのだ。岩瀬も漢訳されている海外の記事を多く眼にしているはずだった。

「省之助」

 岩瀬は思い出したように堀に呼びかけた。「ところで、おまえは何をしにきたんだ?」

「ああ、そうだ。岩之丞に会いにきた。ここにいると聞いたんでな。しかし、築地は遠い……」

 岩瀬の自宅は築地にある。

「遠いものか」

 岩瀬が言う。「舟賃をケチらなけりゃな」

 永井は堀に尋ねた。

「俺に何の用だ?」

「おう。おまえ、徒頭になるらしいぞ」

「え……?」

「二番組徒頭、一千石だ」

「ほう……」

 岩瀬が目を丸くしてみせた。「ようやく侍らしいお役目を仰せつかったわけだな」

 堀がうなずく。

「城内『躑躅の間』詰めというわけだ」

 永井は言った。

「誰からそんなことを聞いた?」

 堀がこたえる。

「仕事をしていると、どこからともなく聞こえてくるんだよ」

 岩瀬が言った。

「さすがは目付だな。省之助は出世頭だから……」

 岩瀬の言うとおり、堀は出世が早い。小姓組に御番入りしたのも、三人の中で一番早かった。そして彼は今年の五月に目付になっていた。

 堀の出世が早いのは、やはり家柄の良さのせいだろう。昌平坂学問所の大試では、岩瀬と同じ年に乙科合格しているのだが、永井に言わせれば、岩瀬のほうがずっと頭がいいのだ。

 岩瀬が「ははあ」と言う。

 それに対して、堀が尋ねる。

「何だ? 何がははあだ?」

「岩之丞が徒頭になるのは、黒船と関係がありそうだ」

「黒船に突っ込めということか?」

「いやいや……。おまえが目付になったことも同様だ」

「言ってることがわからんな」

「老中だよ」

「阿部殿のことか?」

 老中は複数いて合議で物事を決めるが、現在首座は福山藩主の阿部伊勢守正弘だった。

 岩瀬が「そうだ」とうなずく。

「阿部殿がどうかしたか?」

「これが好機と考えているんじゃないのか」

「好機? 何の好機だ?」

「省之助や岩之丞のような、優秀な人材を公儀に登用する好機だ」

「それが黒船とどういう関係がある」

「これまで、外国人との交渉を任されていたのは誰だ?」

 堀はこたえた。

「祖父のような儒者たちだ」

「それでは対処できなくなった。阿部殿はそう考えているのだろう」

「まさか……」

「うろたえているのさ」

「阿部殿が黒船来航でうろたえていると言うのか?」

「そうだろうさ」

「そんなはずはない。だって、阿部殿は、一年も前から黒船来航のことを知っておられたのだからな」

「何だって?」

 永井は思わず驚きの声を上げていた。「一年も前から知っていた?」

「おうさ。長崎奉行から知らせが届いていた」

 堀のその言葉に、岩瀬が応じた。

「なるほど、『和蘭別段風説書』だな」

「お、知ってるのか?」

「おまえがお役目の最中にいろいろなことを耳にするように、昌平坂学問所にいれば耳に入ってくることもある」

 永井は、この二人のような情報源を持っていない。少々劣等感を抱きつつ、尋ねた。

「それは何だ?」

 堀が説明する。

「十年ほど前になるが、オランダの国王が開国を求めて公儀に書を送ってきた。そのときは、受け取りを拒否したんだが、去年、また同じような書を長崎奉行に手渡したんだ」

 それを補足するように岩瀬が言った。

「その書が和訳されて公儀に届けられた。それが『和蘭別段風説書』だ。ちなみに、このときの和訳が二つある。一つは長崎で訳されたもの。もう一つは公儀天文方で訳されたものだ」

 堀がぽかんとした顔で岩瀬に言った。

「おまえ、御役にも就いていないのに、どうしてそんなことを知っているんだ」

 岩瀬は笑みを浮かべて言った。

「学問所教授方はれっきとしたお役目だよ」

 この笑顔だ、と永井は思った。

 なんとも人懐こい笑顔で、何を言っても厭味に聞こえなくなるのだ。

 堀が言った。

「その風説書に、アメリカ艦隊が日本にやってくることが予告されていた。軍艦の数も、艦名も記されていた。だから阿部殿は、黒船がやってくることを百も承知だったわけだ」

「それでもうろたえているのさ」

「いや……」

 堀は言った。「目付たちの噂では、阿部殿は張り切っておられると……」

 岩瀬は笑みを浮かべたまま言った。

「俺に言わせれば同じことだ」

 堀が聞き返す。

「同じこと? うろたえるのと張り切っているのがか?」

「そうだ。つまり、常とは違うということだからな」

 堀は、ふうむと息を吐いて腕組をした。

 永井は尋ねた。

「省之助、徒頭というのは何をどうすればいいのだ?」

「案ずるなよ、岩之丞。徒頭の役目は上様出御の際にお守りすることだ。だから、滅多に出番などない」

 岩瀬が言う。

「つまり、今と変わらず、暇だということだ」

 堀がさらに言った。

「詰所にいて、たまにやることがあれば命じられる。ただそれだけのことだ」

 岩瀬が堀に尋ねた。

「目付はどうなのだ?」

「目付か?」

 堀はにっと笑った。「悪くないぞ」


 堀が言ったとおり、永井は嘉永六年(一八五三年)七月二十日に、二番組徒頭となった。慣れないお役目で最初のうちは緊張していたが、やがて、岩瀬が言っていたように「暇」だということがわかった。

 徒頭は十五人いて、それぞれの組で六十人ほどの平徒を指揮するわけだが、もともと出陣を想定した役職なので、平時はやることがない。

「躑躅の間」にただ詰めているのが仕事といってもいい。

 これでは、小姓組番士の頃と何も変わらないな、などと永井は思っていた。

 徒頭になった頃、城内はいわばてんやわんやだった。黒船騒ぎの最中、六月二十二日に、将軍家慶が逝去していた。

 浦賀に黒船を率いてきたペリーは、「また来るぞ」と言い残して去っていった。老中首座の阿部正弘は、ペリーが再来したときに、どういう対応をするか苦慮しているという。

「躑躅の間」もその話題で持ちきりだった。

 永井は、徒頭の先輩から話を聞いていた。

「伊勢守殿は、布衣以上の旗本や諸国の大名に、アメリカ大統領からの親書やペリーの書簡の写しを配ったわけだ」

 永井は驚いた。まだ布衣ではないので、その写しを見るどころか、初耳だった。

「老中首座の阿部殿がそのようなことを……? なに故です?」

「こんな難問を老中だけでは決めかねるということなのだろう」

「諸国の大名にまで意見を求めたということですか?」

「大名どころか、この話は市井にまで広まってな、廓の店主や花魁までが、ああだこうだと言っているらしい」

 その日永井は下城すると、また築地の岩瀬を訪ねた。

「阿部伊勢守殿が、ペリー再来への対応について、全国に諮問したそうだ」

 岩瀬は先日と同じく、縁側でごろりと横になっている。

「ああ、知っている。アメリカ大統領の親書の訳文を見た」

「どこで?」

「学問所だ。伊勢守殿は、旗本や大名だけでなく、儒者などにも諮問したんだ」

「それで、どう思う?」

 岩瀬はのんびりとした口調で言う。

「何をそんなに興奮しているのだ?」

「俺は別に興奮などしていない」

「いや、おまえはわかりやすい。何でもすぐに顔に出てしまう」

 永井は口ごもった。

「ペリーの扱いについて広く世に問うているのなら、俺も上申しようかと思ってな」

 岩瀬がほほえんだ。

 またあの笑みだ。それを見た永井は、たしかに自分が興奮していたと自覚した。

 岩瀬が言った。

「攘夷を上申するということか?」

「当然、そうなるな」

「面白いな」

「面白い?」

「おう。俺も上申してみるか」

 岩瀬にそう言われると、とたんに永井は冷静になってしまった。

「布衣でもないのに、出過ぎたことではないかな……」

「やってみろよ」

 岩瀬はほほえんだまま言った。「それがきっかけで、おまえも省之助のように、目付になれるかもしれんぞ」

(続きは本誌でお楽しみください。)